01 抗えないって解っているのに
思いつめた二つの瞳が、鏡の向こうで獏良自身を見つめていた。
表情を変えたなら、同じ顔になってしまうその男のことを考えるのは憂鬱だった。自宅の狭い洗面所に立った白い姿に覇気は無く、逸らした視線は自然と己の胸元に吸い寄せられる。
首に掛かる重み。嘲るように、金色のリングが蛍光灯の光を反射する。
金属でできたリングは無論、それ単体でもそれなりの重みがある。けれど獏良を鬱々とした気持ちにさせる原因は、物理的な重みではなく精神を苛む重圧だった。
心臓にまでに響くほどの苦しさは、戸惑いと呼ぶ他無い。
――どうして手放さないんだろう、こんなもの。
鏡の前で溜息をつく。表面が曇ってすぐに晴れた。心はこんなにも晴れないというのに。
そこへ映る鏡像のリングに指を触れようとして、逡巡。躊躇って、結局止めた。
(壊してしまえばいいのに)
何故ずっと、肌身離さず持ち歩いているのだろう。
千年アイテムの秘密を知りたいからだ、そう自分自身に言い聞かせても納得できなかった。真実ではないと、確信してそう思う。
獏良を暗澹とさせる原因は――バクラという実体を持たない相手は、出会った時から変わらない飄々とした口調でもって、相変わらず嘘ばかり吐いている。宿主たる獏良にも、遊戯にも、もうひとりの遊戯にもだ。
悪びれない唇が心を入れ替えたのだと言うが、嘘しかつかない男の言葉を信じることなど、できるはずも無い。同じ身体を共有する獏良自身が、そのことを一等理解している。
嘘つき。そう呟くと、鏡の中でバクラが笑った。
『そう思うなら、何で後生大事にオレ様を首にぶらさげてんだ?』
ぐっと顎を引いて押し黙った獏良に、耳障りな笑い声が押しかかった。その問いに答えられるならば、こんなに苦しい思いなどしていない。
立ち尽くす細い背中へ、ざわざわとした気配が這う。百足が一匹、襟から落とされて服の中に這うような不快感だ。部屋の明かりが弱まり、その分濃くなった闇が背後に伸びる影を喰らう。ぐんと伸びて人の形を取り、覆い被さるそんな錯覚を見た。
『また宿主サマのお近くに居られて光栄だぜ。あの迷路の時からずうっと、よ』
明らかな揶揄に、獏良の拳が震えた。左手の傷跡が疼くのを右手で押さえつける。
「あれは…仕方なかったんだ、ああしないと、皆が」
皆が。その続きは、言えない。
あの時、リングを身に着けることを選択しなければ先へは進めなかった。そう口に出したいのをぐっとこらえる。それは責任放棄に他ならない。リングを首に掛けた理由を仲間へ押し付けることになる。
だが、隠した内心もバクラの前では全て暴かれてしまう。両手をひらひらと揺らす姿は宥めようとしているのか激昂させようとしているのか、少なくとも獏良の怒りを煽るには十分だった。
『解ってるって、お優しい宿主サマ。オトモダチの為の尊い自己犠牲って奴だよなァ?でもよ、あいつらは知らないんだぜ。お前がそんなに苦しんでるってことをよ。ニコニコ笑って、気にも止めちゃいねえ』
「もとはといえばお前のせいじゃないか!お前がっ…!」
『ああそうさ、悪いのは全部オレ様さ。その代わり、お前は随分楽になっただろう』
「何、を…」
『隠し事たあ感心しねえな。寂しいのは嫌、一人は悲しい、ちゃあんと聞こえてるぜ。お前の心の、疎外感』
ぞくり――と、獏良の背中に悪寒が走った。
一瞬で喉が渇く。誰も知らない暗部をまたひとつ暴かれた。誰しも持っていて誰にも見せたくない秘めた感情――全て見られている。それを見られる嫌悪感が獏良の身体を突き抜ける。
同時に、小さな安堵の粒が波紋をつくるのもまた、感じてしまった。違う。そう呟く。
(違う、そんなこと思っていない)
取り消したくて首を振った。白く長い髪が激しく揺れ、抱えた頭がきりきりと痛む。
(嬉しくなんかない、嫌だ知られたくない、解ってくれる人が居るなんて、そんなこと、ボクは)
思ってない。思ってない?嘘だ、それも嘘だ。ボクも嘘をついている。
苦悩する獏良の顔を鏡像が眺める。心底楽しそうに。
口に出された言葉は、図星と――簡単に覗かれてしまう本音。
『完璧な理解者を手に入れて、幸せかい?』
「違う!!」
細い身体のどこから出るのか疑わしいほどの絶叫を上げて、獏良は鏡に拳を叩き付けた。
破砕音。刹那遅れて、左手に鋭い衝撃と痛みが走り抜けた。砕けた破片が赤い飛沫をまとわせたまま、きらきらと輝いてタイルの床に散らばり落ちる。小さな破片には泣き出しそうに歪んだ顔が幾つも映りこんでいた。
唇を震わせながら、獏良は何も言えない。ぼたぼたと掌から零れ落ちる真っ赤な血潮の流れの間に、古い傷跡が覗く。滑らかで白い手を惨く貫通した痕はまだ消えていない。
恐らくきっと、これからも消えることは無いだろう――嗚咽を漏らして、そう思う。
『あーあー、傷なんざつけんじゃねえよ、大事な宿主サマの身体によ』
砕けて縁しかのこっていない鏡に、もうバクラの姿は映っていなかった。代わりに背後から、透明な闇色をした、見えない手がするすると伸びてくる。嘘を纏わりつかせた分、ぞっとするほど優しく怪我を労わるその動きを、獏良は手を振りかざして遠ざけた。
何も言う事の出来ない様子をたっぷりと眺めて、また笑い声が響く。優しい腕は両肩を掴んで、そして、ずるり。獏良の中身を引き抜いた。
脱皮するように引き剥がされた意識が、心の奥底の闇へと引き摺りこまれていく。崖から落ちるに似た失墜の恐怖を受け止める手は、氷のように冷たかった。けれどそれは、今の獏良に尤も足りていない、他人の温度そのものだ。
(ああまた、はじまる)
沈み込む闇の中で、顔をくしゃくしゃに歪めて獏良は呟いた。
始まるのは、毒のように甘い時間。
(こんなの、間違ってる)
背中から溺れながら、水の中で残り少ない空気を吐き出すように搾り出した思念は、すぐに泡と消えてなくなってしまう。それでも叫んだ。たとえほんのわずかでも、抵抗しないわけにはいかなかったから。
せめて、これ以上深い場所に触れられないように自分自身の身体を抱きしめる。
哄笑が鳴り止んで、そして、絶対的に心地よい闇が獏良を包み込んだ。
今夜もまた、嘘で塗り固めた、完璧で、優しくて、甘い拷問が始まる。