02 隠匿、或いは依存

昔、学校で苛められているクラスメイトを見かけた。
  彼は謂れのないことでからかわれ、殴られ、そして、周囲に助けを求めていた。
  大多数がそうであるように、獏良もそれに気づかない振りをした。助けたいと思わなかったわけではない、だがその頃には既に、彼を取り巻く環境は一線を引かれたものに変わっていた。手を差し伸べて助けることが出来たとしても、より一層、クラスメイトを窮地に追いやることにやるかもしれないという危惧が、瞳を逸らさせた。
  そんな言い訳を胸のうちで吐いた数日後、ホームルームで、苛めの話題が持ち出された。
  担当教諭は言った。
「見て見ない振りをしている人間もまた、苛める側と同じことをしている」。
  その後に続いた、学校のあり方や友情についての内容は、獏良はもう一切覚えていない。
  ただその言葉だけは、今も耳にこびりついて離れなかった。

『お前は何もしなくていい』
  疲弊しきった身体を冷たい腕が抱きしめる。闇の中、耳元で響くバクラの声はどこまでも甘い。
  首を振る余力さえ残っておらず、獏良は半分しか開いていない瞳をゆうるりと、目の前の男に向けた。
『ただちょっとばかり眼を瞑って、黙っててくれりゃあそれでいいんだよ』
  都合のいい言葉は逆らう力を一枚一枚、丁寧に剥がして行った。投げ出された獏良の左手が、ぴくん、と震える。痙攣するように眉根が寄り、さんざ交わした接吻けで濡れた唇が動く。
  気持ち悪い。嫌だ。触るな。お前なんか。
  声にすらならないその思念を、バクラは敏感に感じとった。必死の抗いに表情ひとつ変えない嘘の化身が、両手を獏良の頬に這わせる。こめかみまで持ち上がり、ゆっくりとさする優しい動きだ。
『無理はよくねえな。そんなにオトモダチが欲しいのか?』
  オレ様がいるじゃねえか。温い愛撫に言葉が重なり、獏良の呼吸が乱れる。
  誰のせいだと思っているんだ、お前がボクを苦しめてるんだろう、友達を騙すのに、見て見ない振りをしろだなんて――吐き捨てたい感情が持ち上がるのに、口付けで奪われる。
『オレ様を選べよ。あいつらと違って、宿主に寂しい思いはさせねえぜ?』
  不覚にも目の奥が熱くなる。欲しい時に欲しい言葉を欲しいだけ寄越す相手。当たり前だ、彼は心の内を覗けるのだから。
  そうと解っていても、狂おしいまでに溢れる安堵が、もう陥落しそうな獏良の瞼をさらに閉じさせる。胸の中に罪悪感が渦巻いて、つうと伝って、胃にまで届いた。
  振りほどきたい。叫んで、振り払って、拒絶したい。なのに指先ひとつ動かせない。
  振りほどきたくない。ずっとここにいたい、いつまでも優しい闇の中で眠ってしまいたい。
  矛盾した想いが重く圧し掛かる。喉が苦しくて、悲鳴のような息を吐いた。
「ボク、は、………っ」
  その先の答えを導けない。バクラの左手が、獏良の髪を緩く梳いた。
『安心しな、オトモダチを苦しめてるのはお前じゃねえ、オレ様さ』
  カワイソウな宿主サマ。まるで愛しいものにするような愛撫に、心が蕩けそうだ。
『口に出して言ってみな。「ボクは何もしていない」ってよ。楽になるぜ』
「そ、んなこと、言えるわけ、ないだろ…」
『心配しなくても、眼を閉じて開けたら全部終わってんだ。何ぁんにも知らねえ、覚えてねえ。そう言やぁ、お優しい王サマ方はお前を責めやしねえ。むしろ哀れんで、庇ってくれるさ』
  解きほぐす言葉は恐らく、間違っていないだろう。友人たちは皆、闇に支配された経験のある獏良を優しく気遣う。これから先に何が起ころうとも、彼らが獏良を責めることは無いだろう。
  だから嫌なのだ、四人と一人の関係が。その、悪意の無い無意識の線引きが。
  迷いが生じた。その隙間に、バクラが巧妙に滑り込む。
『お前をこれ以上、追い詰めたくねえんだよ…なァ?』
  これも嘘だと、残り少ない理性がそう警鐘を鳴らした。ああでも、もう。
  唇に這うぬるりとした感触に肩を震わせると、すぐ近くにバクラの顔があった。
「っ…!」
  まどろみかけた目が一気に覚めた。こちらを見つめるバクラの瞳にあるのは、明らかな嘲りの色。
  冷たい衝撃が熱っぽくなった頭を一気に覚ます。
  そうだ、騙されてはいけない――獏良は渾身の力でもって、両手を振り上げた。
  自分と同じ細さの首を、掴む。
  ひゅう、と、バクラが口笛を吹いて囃した。
『オレ様を殺す心算かい?』
  喉を奪われても眉一つ動かさず、何もかも見透かした表情を浮かべてバクラは笑った。
  やってみろよ。そう、眼が言う。
  獏良の両手が逡巡で震えた。ここに力を込めたら終わる。友達を裏切らなくていい、罪悪感に苦しむこともない。でも――その代わりに、この冷たい熱を失う。
  長い長い沈黙が闇の中に静かに蓄積されていく。こめかみから汗を垂らした獏良は何度も何度も指先を震わせて、そして、結局何も出来ずに、両手は解けた。
「う…ぅ」
  その手で顔を覆って俯く獏良の、歪んだ唇からわずかな嗚咽が洩れた。
『出来やしねえよ、宿主サマ』
  慰める虚の掌が、頭を撫でる。
(そうだ、出来やしない)
  隠していた感情は暴かれた。誰にも見られたくないと思っていたのに、知られるとどこか嬉しかった。
  恐かったのは口に出して拒絶されること。そんな汚い感情を腹のうちに抱えていることを知られて、突き放されるのが恐かったから。けれど、バクラは暗部を知ってもなおこうして、触れることを止めない。居心地がいいと言う。
  前の学校での疎外感。失った妹。友達だと思っている四人。誰と居てもうまくいかない。人恋しさが臆病にさせ、獏良を孤独に追いやっていく。誰のせいでもない、自分の心の問題なのにと苦しむ。
  丹念に丹念に、暗い部分を慰撫されるのは気持ちが良かった。バクラの言葉は全て嘘だ。甘い言葉を落とすのは、都合のいい人形を手に入れる為の手段に過ぎない。
  全部が演技で全部が偽者。
  そうと解っていても、手放したくない、理解者。
  顔を覆った手指の隙間から、獏良はバクラを見上げた。
(ほんとうに)
  ――目を瞑っていたら、一人にはならないの?
『安心しな。眼を閉じてりゃあ、お前は一人にならねえ』
  嘘が優しく獏良を解く。
  がんじがらめの拒絶が、解けだす。
  今までずっとし続けた抵抗の鍵が壊れた、そんな感覚だった。身体中に絡まっていた鎖が音を立てて砕けて行く。その重たい金属の蛇は、左腕に僅かにしがみついて、残りの全ては闇に食われて消えてしまった。
  獏良の瞳が、左腕を見た。傷跡がある。そこだけが頑なに、拒んでいる。
(ああ、きっとこれが、ボクの最後の良心だ)
  奇麗事とも偽善とも呼ばれる、良き者でありたいという意思が貫通した傷跡にしがみついているのを、泣き濡れた目がじっと見る。
  バクラもまた、その左腕を見下ろしていた。
  真意のわからない、底知れない瞳が瞑目し、そして、開いて笑う。
  一切の言及をせずに、嘘つきの腕は獏良の右手を取った。
『…そう、イイ子だ、宿主サマ』
  満足そうな声で言い、右の指先に唇を押し当てる。
『そのうち、何ンにも感じなくなる。…慣れちまえば、悪くねえ味がするもんだぜ』
  獏良は左腕をだらりと垂らして、小さな声で答える。何が、と、問いかける必要は無かった。
「…そうかもね」
  するりと出てきた肯定は、抵抗するよりもずっと楽なことだった。自意識で逆らうことを止めた身体が、バクラに倒れ込む。受け止められると解っているから、安心して力を抜くことが出来た。
  思ったとおり、両腕は獏良を引き寄せる。蜘蛛が獲物を捕らえるようないやらしさで。
(これから、)
  どうなってしまうのだろう、自分は、この身体は。
  それすらもう、考えなくていいのだろうか。左腕もいつか、抗いきれずに陥落するだろうか。全部、もう、闇に任せてしまえば。
  一歩先の未来すら想像できない。その中で、獏良は自分の意思でもって瞳を閉じた。閉じても開いても暗闇は変わらない。ただ、バクラが笑ったことだけは気配で感じ取れる。
  罪深い闇の中で、獏良は初めて、自ずと強請った。
  抵抗と引き換えに与えられた接吻けはまるで、蜜のような背徳の味がした。