【♀】溺者は真紅を抱く

ボクの心を手に入れたら、あいつはボクに興味がなくなったようだった。

  好き、という感情を。
  己が理解できていないということを、他ならない了自身がよく知っていた。
  誰かに教えられたら分かるのかもしれない。けれど、学校の授業にそんな教科は存在しない。ラブとライクの明確な線引きができる便利な定規は、この世界のどこにもない。
  たとえば了はシュークリームが大好きだけれど、ならばシュークリームを愛しているのかと問われたらイエスとは答えられない。
  それくらいの違いしか分からない。クラスメイトの色恋沙汰とて、了にとっては遠い彼岸での出来事くらいに理解不能の代物だった。
  そんな彼女が、理解できないままで抱いた感情。
  これが愛情とか恋とかいうものなら、ボクは一生理解したくなかった。
(つらいだけだ――こんなの)
  よりにもよって、お前なんかに。
  視線を向けた先の背中は、その向こうの景色であるリビングの様子を透かして、半透明に浮かんでいる。
  了以外の目には見えない、了の心の同居人。
  バクラ。
  見つめる了には横顔すら見えない。いや、姿を見せているだけ今日はだいぶましだろう。普段は影すら見せはしない。都合のいい時に了の身体をかすめ取り、目を塞いで、声も奪い。そうして彼は悪事に暗躍していらしい。
  らしい、というのは、何も教えてもらえないからだ。
  少し前、そう、ほんの数週間前まで、了とバクラは非常に仲睦まじい――と表現してしまうと些か気持ちが悪いが、それなりに平穏な生活を送っていた。バクラは優しく、時々得体の知れない不安に襲われて怯える了を宥めては、大丈夫だとか一人にしないだとか、その時了が一番欲しい言葉を惜しげもなく口にした。
  甘くて優しい時間だった。
  人の体温に飢えていた了は、その海に首までどころかつむじまでどっぷりと浸かってしまった。足のつかない深みにまで嵌っていたことに気が付いた時には、もう手遅れだった。
  泳いで浮上しようとしても、身体が浮かない。粘度の高い――それこそ彼女の大好きなシュークリームのカスタードのように胸やけする甘い海に、足が絡んで逃げられない。
  その時初めて、カスタードクリームは優しさではなく、罠だと知った。
  知ったところで何が出来よう。了は既にバクラなしでは息も出来ないくらいに溺れ、完璧に依存していた。バクラが近くにいないと不安で落ち着かなくなった。呼び掛けても返事がないと気が狂いそうになる。傍にいて欲しい、どこにも行かないで、そう思わずにはいられない身体になっていた。
  罠の海原で苦しむ了を見下ろして、バクラは笑った。
『あーあ、完璧に惚れちまったなあ、宿主サマ』
  にたりと持ち上げた唇から、愉悦と嘲りを含んだ声で笑う。
  どういうことなのと問う了に、バクラはニタニタと気分の悪い微笑を乗っけた舌で唇を舐めた。
『女を落とすのは、惚れさせンのが一番簡単だろ』
  てめえはもう、オレ様には逆らえねえよ――
  ぞっとするほど冷たい声でそう云われた。
  深く、絶望した。
  全部嘘だった。優しいことも、受け止めてくれたのも全部。
  了を都合よく――正確には了の身体を、都合よく手に入れるための手段。
  その為に海に溺れさせた。もう本性を現しても問題ないと判断したのだろう、意地の悪い悪魔の顔を久方ぶりに見せたバクラは、嘲るように了の頬を撫でて、云った。
『さあて、オレ様の可愛い宿主サマ。せいぜい従順にしててくれよ? じゃねえと、大好きなオレ様に嫌われちまうぜ?』
  悪魔は笑った――心底愉しそうに。

  そんな出来事があったのが、数週間前。
  了の心を掌握したバクラは、それきり了に興味がなくなったらしい。
(声を聞いたのは……)
  いち、に、さん――少なくとも五日以上前。
  それも、了に対する「うるせえ」の一言だけというもので、あの甘くて素敵だった優しい声など本当に演技だったのだと思い知る破目になった。
  心を奪ったあの日のバクラは、もうここにはいない。
  そうと知っても、感情が凪の海になることはなかった。
  了の心は相変わらずカスタードの海に溺れていて、ずっと息を止め続けている。一度でも吐き出したら、きっと全てが破綻すると、本能的に知っていたからだ。
  今ここにいる酷いバクラは実は夢か何かで、本当のバクラはきっと優しいあの彼なんじゃないか――そんなあり得ない妄想で、何とか身体の中で酸素を作り出しているようなものだった。
(だってそうでもしないと、本当に死んでしまうんだ)
  そのくらい、バクラは優しかった。
  了の欲しい言葉を全部くれた。して欲しいことを全部してくれた。一緒に居て心地よくて、幸せで、バクラ以外は要らないと思った。学校だって行きたくなくて、ずっと閉じこもって、バクラのくれる甘い全てに浸って居たかった。
  騙されていたと知っても嫌いになれないのだから、どれくらいの心地よさだったか計り知れない。こんな怖くて酷いバクラに嫌われたって屁でもない――とすら、思えないのだから。
「何見てんだ」
  ぎくり、と肩が震える。思考に沈みながらじっとバクラを見ていたのに、気づかれてしまったらしい。
  振り向いた顔には、鬱陶しそうな表情。
  さっきまでは、ああ顔を見ていないと思っていたけれど――前言撤回、見ない方が良かった。了が見たかったのは優しいバクラの顔であって、今のバクラの顔ではない。
「ジロジロ見てんじゃねえよ、うぜえ」
「……見てないよ。自意識過剰なんじゃないの」
  せめて吐き出した憎まれ口は、勢いなくぽつん、と、フローリングの床に落ちて消える。
「可愛くねえな」
  バクラがふうわり、空中を浮遊して近づいてくる。
  近くなる距離を嬉しいと思う感情と、近づくなと排除したい感情が等分されて身動きができない。
(可愛いなんて、最初から思っていないくせに)
  邪悪という言葉はこいつの顔に叩き付ける為にあるんだろう、それくらい嫌な笑みを浮かべて、バクラは触れられない手で了の頬に触れる。
「オレ様を怒らせるなよ。てめえは黙って、身体寄越していうとおりにしてりゃあいいんだ。良い子にしてれば、前みてえに甘やかしてやるよ」
「そんなのいらない! それだってお前の演技じゃないか、本気で優しくなんてしてないくせに!」
「そこまで分かってンなら、ものほしそうな目で見るんじゃねえ。女のないものねだりはみっともねえぜ、宿主サマ」
「うるさい!」
  温度も何も感じない手を振り払う。勿論触れられるはずもない。けれどバクラは頬から指先を離した。くつくつくつ。喉で笑ういやな音が響く。
(思ってない。感じてない)
  頬の手が離れたのが惜しいなんて思ってない。
  言い聞かせるのは悲しかった。
  そうしている時点で、自分は矢張り彼の手の内でみっともなく踊っている滑稽な人間なのだと思い知る。
  ひゃはははは、と、高笑いが渦を巻いた。
  この声は合図だ。バクラが了の身体を奪って、暗い所に閉じ込める時の合図。
  抵抗するすべもない了は、その渦に巻き込まれて、どぷんと意識の中へ突き落された。
  今日もまた、待つだけの時間がねっとりと了を包み込む。
  見えない。聞こえない。何もわからない。
  夜の闇のような心は、了の心境そのままに、憂鬱に濡れて深く――

  苦しくて伸ばした白い手が掴んだのは、海の底で翻る、目にも鮮やかな真紅の袖だった。