【♀】02 stay 2 nights

2.

 湯に浸かっていたら、顔の跡と一緒に不機嫌もいつの間にか消えていた。
 湯の効能がどうの肌に良いのどうのこうのという、女性ならばきゃっきゃと楽しげに声を上げて確認しそうなあれこれに、了は全く興味がない。それでも、自宅の入浴ですらシャワーで済ませる了にとって、足を延ばして余りある――余りを通り越して泳げるスペースがある――岩風呂というのはそれだけで楽しかった。
 部屋にも個室の露天風呂があるのだけど、隣の部屋と部屋を隔てる垣根が少々頼りない。加えてまだ日も高く、道をゆく観光客の声もよく聞こえた。落ち着かなそうだからと了は辞退し、気にしないバクラはその個室風呂を使っているようだ。うっかり隣の部屋の客が垣根ごしにバクラを見てしまったら、ちょっとぎょっとするのではないかと了は思う。あの体格に肌の色、顔の傷。どう見ても堅気者には見えなかろう。
 そんなおもしろおかしい様子を想像しつつ、了は脱衣所に上がる前に鏡でもう一度、顔の跡が消えているかを確かめた。残っていたらまたしてもバクラに笑われてしまう。全く、自分は頬に畳の跡どころではない傷を持っている癖に何を笑うか。まああの傷はよく似合っているし格好いいとひっそり思ってはいるのだけれど。
 髪を軽く乾かしてうなじの辺りで丸めて括り、備え付けの浴衣に袖を通す。白地に藍色の柄に海老茶の羽織、スタンダードな浴衣セットだ。合わせ目が逆だと死人になるというのは知っていたけど、はたしてあれは右前だったか左前だったか。考えていると、親切なことに脱衣所には外国人向けらしい浴衣の着方の張り紙があった。なるほど右前だったか。危なかった。
 バクラが左前に着ていたらからかってやろう。畳の仕返しを企みつつ、裸足に旅館のサンダルをひっかけて部屋に戻ると――バクラが仰向けに倒れていた。
「ちょ、どうしたの?」
 あわててサンダルを脱ぎ捨て駆け寄ると、おざなりに浴衣を着たバクラはぐうと低い声で唸った。着替えているということは、風呂には入ったのだろう。上がってからそう時間が経っていないのは、濡れた髪の水滴の量が物語っている。
 丸めた羽織を枕に、目の上にはタオル。ぴんときて、了は口を開いた。
「……のぼせたの?」
「おう」
 唸り声と同じ低さで、バクラは肯定した。
 自宅での入浴時、バクラの体格では浴槽で足を伸ばせない。のびのびと入浴できたのが余程気持ち良かったのか、長湯が過ぎたご様子である。或いは直前に腹へと放り込んだ饅頭が、後々膨れて効いてきたのか。いずれにせよ、
「ばかだなあ」
 この一言に尽きる。
 うっせえ、と小さな声でバクラは云い、タオルを軽く持ち上げて了を見た。
 紫の瞳がとろんと淀んでいる。肌の色のせいで分かりづらいが、頬が赤く上気しているのが了にも分かった。半開きの唇から出る呼吸は、外にいたらさぞかし白く濁るだろうと思わせるほど熱い。
 しばし了は考え、そして続けて、しょうがないなあと独り言。
 傍らに積んであった新しいバスタオルを膝に乗せ、その上に、バクラの重たい頭を乗せてやった。
「……了」
「なあに」
「膝枕」
「うん。きらい?」
 まだぐっしょりと濡れている髪を、膝下に余るタオルで拭う。目の上のタオルも熱くなっていたので取り替えていると、また紫色と目があった。
 バクラがじっと了を見る。彼の角度からだと、了の顔はさかさまに見上げる形になるだろう。なだらかな胸のラインと海老茶の羽織、普段は白い肌だけれど、今は湯上りのせいでほのかに桜色に染まった首筋から耳。それと結い上げた髪――そのくらいか。別段特別な恰好をしているつもりもないので、じっと見つめられる理由が分からない。
 膝枕がお気に召さなかったのだろうか。のぼせている時は脚を上げるのが良かったかどうか、よく覚えていない。でも脚に膝枕というのもおかしな話だし、髪も拭いてやりたかったしなあと了は思う。その前に水を持ってきてやるべきだったか。気遣いが苦手な了にはいまいち分からない。
 そんな諸々を含めて、了はもう一度聞いてみた。
「だめだった?」
 止めた方がいい?
 そう問いかけると、バクラは暫く黙った後、
「……いや、上等だぜ」
 何がそんなに上等なのか。
 心なしか嬉しそうな顔でバクラは肯定し、大きな掌でもって桜色の頬をするりと撫でた。