【♀】03 stay 2 nights【!】

3.

 湯冷ましに旅館のパンフレットで風を送ってやって、三十分ほど。
 バクラが起き上がれるようになるまで膝を貸してやるつもりだったのだけれど、了の方に限界が来た。普段正座などしない両脚に、図体のでかい男の頭は少々重すぎたのである。
 しびれた、と強張った声で了が云うと、バクラは若干名残惜しそうにしてからしょうがねえなと横向きに回転。今まで体温を乗せていた膝がすっと寂しくなるけれど、正直それどころではない。
「あああー」
 奇妙なうめき声をあげて、了は体勢を崩せないまま悶絶した。
 動かさなくても痺れるが、動かした時の痺れはもっとひどくなる。しかし崩さねば治るまい、足の血行不順が痺れを生むのだから伸ばさねば。けれどうまくいかずに七転八倒。真横に寝転がったバクラは大分回復したのか、おもしろそうに、悶える小動物さながらの了の様子を眺めていた。
「横ンなりゃいいじゃねえか、こう、倒れちまえば」
「やだ。畳嫌い」
「痕がついても云わねえって。笑わねえって」
「うそだお前絶対笑うもん、うやーびりびりするーバクラのばかー」
「ちょっと待ててめ今どさくさに紛れてばかっつったろ」
「言ってないもん知らないもんばか」
「云ってんじゃねえか、八つ当たりすんな、おら」
 語尾に重ねて、バクラが足で足を突く。一番痺れているふくらはぎの真ん中あたりを蹴っ飛ばされて、了は「あー!」と悲鳴を上げながら倒れた。触れるだけでも辛いのに、鋭く突かれて悶絶しない筈がない。
 だが、倒れた先は憎き畳ではなかった。薄い浴衣の感触と、その向こうからじわりと伝わる慣れた体温。強かに額を打ち付けたのは硬い鎖骨で、掴んだのは乱れた襟元の辺り。バクラの上に斜めにかぶさる形で、了は不時着を果たしていた。
 湯あたりしている相手の上に乗るのはよろしくない。八つ当たりにばかだとか云っていてもそれくらいは察した了は咄嗟に起き上がろうとしたけれど、痺れた足がそれを許してはくれなかった。またしてもひいと声を上げた了を見上げて、バクラは軽く口の端を持ち上げる。
「畳じゃねえし、いんじゃねえか?」
「だってお前のぼせてるじゃないか。体重掛けたら吐いたりしない? ボクに向かって」
「例え吐いてもぶっかけたりしねえよ……」
 呆れた様子で鼻から溜息。そして、了の後ろ頭をバクラの手が掴んで引き寄せる。
 互いに湯上りで体温の上がった身体は、薄布越しでもそうとわかるほどぴったりと馴染んだ。生地が熱の伝導を助けて、境目が分からない温い感覚がひたひたと気持ちいい。
 おざなりな着こなしの所為ではだけた褐色の胸元に、了の白い頬があった。畳ではないので、擦り寄ってもざらざらしない。ちらりと上目でバクラの様子を伺ったけれど、先程よりも随分と顔色が良いように見えた。膝枕が良かったのか扇いでやったのがよかったのか定かではないが、とりあえずこの足の痺れが無駄でなかったことに関しては満足である。
「乗っかっちゃうよ」
 というか、もう乗っかってるけど。
 小さな声で云うと、後ろ頭をぽんぽん。軽く叩かれた。このままで良いらしい。
 極力ふくらはぎの苦痛に意識を持っていかないように、他のことを考えることにする。目の前には褐色の胸板と申し訳程度の浴衣の襟――直してやろうと手を伸ばしてみた。しかし背中の方で生地を引っ張ってしまっているのか、うまくいかない。しかもよく見ると合わせ目が左前だった。
 からかってやろうと思ったけれど、バクラは目を瞑ったまま了を抱えてご満悦そうな顔をしていた。それだけで、突っつく気が失せてしまう――まあ物理的に突っつかれたのはコッチなのだけど。主に痺れた足とかを。
 代わりに口に出すのは、帯以下、だらしない着方そのものについてだ。
「お前さ、浴衣ちゃんと着れないの?」
「あン?」
「のぼせてたにしても、すっごいだらしなかったよ。かっこ悪い」
「しょうがねえだろ、サイズねえんだからよ」
 なるほどこの体格では仕方が無いか。頬を寄せた胸板に指をつうと滑らせて、了は笑った。
「そっか、バクラおっきいもんね。ボクが乗っかっても大丈夫なくらい」
 そのまま指でぐじぐじと、鎖骨から胸板に向けて、あみだくじをするように撫でてみる。肌の感触から了とは違う、良質な筋肉が内側から皮膚を押し上げて、ぎゅっと中身の詰まった身体だと思った。きっと了とは骨やその他諸々の何もかもが基礎から違うに違いない。逞しくて無骨で、温かい。
 その温度と感触が好きだ。自分の白い手とバクラの褐色の肌が重なっているのは、不思議だけれど綺麗なものに見えた。手入れしなくてもある程度荒れない己の手に対してではなく、重なっているそのことが、そのコントラストが好ましい。調子に乗って掌でぺちぺちと、胸の真ん中を叩いてみた。くすぐってえとバクラが云う。声に少し、笑いの欠片が含まれているのが面はゆい。
(到着してから、なんかばたばたしてばっかりだったけど)
 これはこれでまあいっか。と、了は思う。
 結果的にこうしてまったりと和んでいることに、力が抜けるような安堵を感じた。
 足の痺れが治る頃にはバクラの湯あたりも冷め切るだろう。そうしたら二人で庭を散歩してみるのもよいかもしれない。その前にフロントに連絡して、サイズの大きい浴衣を持ってきてもらわねば。こんなつんつるてんの恰好で一緒に歩くのはさすがに御免被りたい。
 などとほんわか、了がこの後のことを考えていると――不意に、もにゅり。
「うひゃっ!?」
 それはもう唐突に、バクラの手に胸をわし掴まれた。
「な、びっくりさせないでよ!」
「先に乳揉んできたのはソッチじゃねえか。オレ様にも揉ませろよ」
「揉んでない、触ったけど!」
「いや、ありゃあ間違いなく揉んでたな。セクハラだセクハラ」
「どっちがっ……あ、やっ!」
 二の句の余裕をバクラは与えてくれない。思わずがばりと起き上がってしまったことも相俟って、褐色の掌は欠片の遠慮もなしに乳房を弄り始めた。
 揉まれることそれ自体に対して、了はすっかり慣れている。何の前置きもなしに襟から手を突っ込まれることも日常茶飯事と云っていい。問題なのはその揉み方がいつもの唐突なスキンシップなどではなく、明らかに性的なもの目指したそれだったからだ。
 ささやかな了の胸は、バクラの大きな手には少々肉が薄すぎて、つよく掴むと骨に当たる。そうと分かっている掌に力はそう籠められていないのだけれど、薄い浴衣の布越しでは、少々刺激が強すぎた。
「ゃ、だって、あ、まだ昼、」
「時間は関係ねえだろ」
「だめ、ボクこのあと、一緒にさんぽ、しよって思ってたんだから」
「ケチくせえこと云うなよ。ちいっと揉ませてもらったら我慢するからよ」
 やらしい恰好で甘ったれてくる了が悪イんだぜ――などと。
 なんという自分勝手な発言! 薄笑いで片胸を弄ぶバクラを、了の青い眼がきっと睨む。
 大体いやらしい恰好なんてしていない。確かに風呂上りに、面倒だし誰ともすれ違わないだろうとノーブラで帰ってきてしまったけれど、一緒に暮らしている関係でそれがどうしたというのか。全裸だって見慣れているのに今更過ぎる。
 だがバクラはご満悦で悪戯をし続けてくる。どうしたって反応してしまう乳首に指の先が引っかかった時、了は堪えきれずに背中を強く反り返させた。
「んぅっ……!」
 その後は、そのままきゅっと抓みあげられると知っている。了の身体はバクラの手癖をほとんど記憶している。少ない肉をすくい上げたその頂きを、人さし指でぐりぐりと苛めるのがバクラは好きだ。そして了も、そうされるのが気持ち良くなるように擦り込まれている。
 下腹の辺りがきゅっと切なくなって、内臓の奥で何かがじわりと滲む感触。
 こうなったらもういけない。口で何を云っても、触れて欲しくて仕方なくなる。
「観念しろよ、なァ」
 上ずった声に脅されて、いつの間にか閉じていた瞼を開く。飛び込んできた視界にはバクラの笑みがあった。いつもと違う、見下ろす恰好で眺める紫の瞳と唇の笑みに、余裕がない。
 どの口が我慢なんていうのだ。我慢しきれないって顔をしてるくせに。跨る格好になってしまった腰の上、腿の辺りに不穏な熱を隠し持っているくせに。
 大体、こんな手つきで可愛がられてその後放置するだなんて、そっちの方が余程極悪だ。ボクの我慢のことはちっとも考えてないじゃないか――甘ったるく掠れた文句は思いついたけれど、湿った唇から零れたのは別の言葉だった。
「のぼせてるんじゃ、なかったの」
 我ながら可愛くない台詞だ。バクラは唇の笑みを深くして、そうだなァと目を細める。その間にも、手指の動きは決して緩むことはない。
「まだちィっとばかりグラつくからよ、起き上がるのは無理かもな」
 だから散歩行くのは無理、と、思わせぶりに踊る口調。
 散歩なんて、云いだした了自身がどうでもよくなっているのに。今この中途半端に火がついた状態で外を歩くだなんて、それこそ悪趣味なプレイか何かだ。結局我慢できなくなって、どこかの物陰で強請ってしまう自分の姿が目に浮かぶ。もともと堪えるのが苦手なのだ、欲しいものはいますぐ欲しい。
 そんな了の性格を、バクラはきちんと理解している。
 分かっているからこそ彼は云う。泣きそうな顔でふるふると震えている了の頬に、ぺたりと掌を押し付けて。
「了」
「う……」
「出掛けねえで、このまンま寝てようぜ」
 な? と、浮かべるのはいやらしい笑みでなく、悪戯をする子供のような顔。
(ずるい)
(そんな顔されたら、やだとか絶対言えないじゃないか)
 陶然と、呆然としながら、頷くほかに選択肢があるというのか。あるわけがない。
 窓の向こうはまだ明るくて、廊下を歩く仲居の足音も聞こえて。バクラが開けっ放しにしたままの露天風呂への入口は外へ繋がっている。自宅と違って人の気配だらけのこの環境さえ、どうでもよくなってしまう。そんな誘い文句は本当に卑怯だ。
 押し付けられた掌に、思わずすり、と頬を寄せる。暴れた所為で髪が崩れて、ほつれた幾筋かがはらりとバクラの手の甲を滑る。くすぐったそうだけれど払わずに、髪ごと頬をさすられた。
 再びりょう、と呼ばれる。その声がもう、たまらなく好きだ。
 それでもはい喜んで、と身を委ねるのは嫌で、了は尖らせた唇の端っこに小さく言葉を乗せた。
「……畳の上じゃないなら、えっちなことしてもいいよ」
 あと、後始末とかも優しくやって。不貞腐れた泣き声でそう云う。
 するとバクラは口元を吊り上げて、一切合財任せとけと嬉しそうに笑った。