【♀】花惑いと白絹の夜
桜を知らない彼に、それを何と説明したらいいのか分からなかった。
巡る運命と夢のような縁と、そんな奇跡に導かれて、遥か三千年前そうしていたように寄り添えるようになった、今。全てを終えて再び巡り合った二人の溝はまだ少し、大きい。現代人として生きる了と違い、三千年前そのものの姿で甦ったバクラには、現代社会の何もかもが分からないからだ。
車や街並みや、了にとって当たり前のことが、バクラにはとんと理解できない。それを一つ一つ教えることは苦ではなく、大きい図体をしてまるで幼子のような反応を見せる彼を可愛いと、了はひそかに思っていた。一般的なものが彼にとってはそうでなく、そして、知っていることを教える度に、自分もまた彼と同じように、新鮮なものを知るような気持ちになれる――そんな日々。
テレビ(未だに彼はこの映像機械のことをよく理解していないらしい)で花見の季節です、とアナウンサーが云った言葉に、バクラが反応したのが此度のきっかけだった。
「リョウ」
了が手ずから選んで着せた、赤いパーカー姿でリビングの床に胡坐をかいたバクラが呼ぶ。
「ん? なあに」
「ハナミってな、何だ」
と、バクラはテレビを指さす。画面には天気予報の様子が映っていて、右上のキャプションには花見のおすすめは四月上旬、特に九日十日の土日がよいでしょうと表示されている。
バクラは不思議そうな顔で了を見上げ、ハナミ、と、もう一回云った。
ハナミ。いわゆる桜を見るお花見、春の行事なのだけれど――当然、バクラはエジプトにはないものを知らない。だから桜も、知らない。
「お花見だね。花を見る、って書いて、お花見。ええと、桜っていう木があって、その花を見るんだ」
「サクラ?」
「テレビに映ってない? ほら今――あ、消えちゃった」
了に向かって振り返っていたバクラがテレビに視線を戻すと、天気予報は丁度終わってしまった。一瞬前に、今年の桜の名所の映像が流れていたのに、惜しいことをした。見せるのが一番分かりやすいのに。
「花なんざ見て、どうすんだ」
「うーん、そういうものなんだよ。春は皆で桜を見に行って、どんちゃん騒ぐんだよ」
「……よくわかんねえな」
そう云われてしまうと、実は了にもよくわからない。花見に行くと皆騒いで飲んでご陽気になるのが世の常だけれど、実際あれって桜を見る必要があるんだろうか。とにかくお祭り騒ぎがしたいだけなような気がするし、そもそも人が多いので、了は花見が好きではない。
バクラは眉間にしわを寄せて、疑問の表情を浮かべたままだ。
「そのサクラ? ってのが、そんなに良いモンなのか?」
「いいとか悪いで云えば、うん、いい……のかな。咲いてるの見ると春だなーって思うよ」
ふうん、とバクラは鼻を鳴らす。興味があるのかないのか、よく分からない表情だ。
「大きな木にね、小さい白い花がいっぱい咲くんだよ。よく見ると薄ピンクだったりするけど、遠目には白に見えるな。こう、ぶわーっとして、ふわふわした感じ」
「何だ、てめえの頭みてえだなァ」
「それは褒めてるのかな、貶してるのかな……」
ああもう、うまく意思疎通が出来ない。
どうしたら桜というものを伝えられるだろう? 他人の思考を汲んで言葉を並べるのが苦手な了は、分かりやすい説明をするのが苦手だ。つくづくさっきの天気予報を見逃したのは失敗だった。タイミングよくこっちを振り向くんだから全く。でもその紫の瞳に見上げられるのは面はゆくも幸せだから、文句を云うわけではないんだけれども。
そんな愛しい視線を受けたまま、了はきゅっと腕を組んで考えた。
「――そうだ!見に行こう!」
「あン?」
「桜だよ。確かちょっと行ったとこに、桜並木があるんだ。夜だから人もいないだろうし、よく見れると思う」
我ながら良い考えだった。ついでにコンビニでシュークリーム……いや、花見をするのだからここは団子的なものがよかろうか。とにかく甘いものを買って、桜を見ながら食べ歩くというのはどうだろう。もう少し寒ければおしるこドリンクでもよかったが、あいにく最近は暖かい。夜になっても、日中の暖かさがまだ残って、空気がほんのりと温い。
日本の文化を知らないバクラに、風物詩を教えてあげるのも悪くない。だって彼はこれからずっと、この場所で了と共に暮らしていくのだから、知っていて損はあるまい。
「ね、行こうよ!」
と、胡坐をかいたバクラの腕をぐうっと引っ張ってみる。
バクラは少しの間、じっと了を見つめていたが――ふっと表情を緩めて、いいぜ、と答えた。
桜並木は、控えめながらも提灯のライトアップが施され、薄紅色に染まっていた。
夜の薄暗闇にぼんやり灯るそれはまるで浮かび上がるようで、燃えるようで。こんな街中の小さな並木だというのに、不思議と幻想的な雰囲気を醸し出していた。
「思ってたよりちゃんとしてるねえ」
ひときわ大きな桜の木の下に立ち、二人並んで、白いシルエットを見上げる。
了の手にはコンビニの袋。中身は団子と思いきややはりシュークリームが三つ。
否、これは決して誘惑に負けたわけではなく、コンビニの陳列棚に花見に似合う和菓子が見当たらなかっただけだ。決して新商品濃厚バニラシュークリームという名前に負けて購入してしまったわけではない。決して。
ちなみにバクラの手の中には、そういうものらしいよ、という了の言葉をそのまま受けて、ビールの缶。花見に酒は付きものだ。
「これがサクラって奴か」
「そうだよ。云った通りでしょ、白くて小さい花がいっぱい咲いてる木。
ちなみにこういうのは夜桜って云うんだ。夜に桜で、よざくら」
と、続けた言葉にバクラはへえ、とだけ、短い言葉を返した。
見入っているのかと思ったが、どうもそうは見えない。紫の瞳は特に感慨もなさそうに並木の端から端までを眺めて、そうして了に辿り着く。
夜、ライトアップされた灯りの中で見る紫の瞳は、いつもより少し赤味がかっているように見えた。内側から燃えるような、それこそ桜のように浮かび上がる、くっきりとした色彩。
遥か昔の自分も、こうやって闇の中でバクラの瞳を見上げていた。世界に二人しかないような、幸せな錯覚を何度も見た。おぼろげだけれど、そんな記憶がある。
そう思うと何だか切ないような、胸がきゅっと詰まるような、云いようのない気持ちを覚えた。
花惑いの桜の匂いに、不思議とセンチメンタルな気分を持ち上げられたのか。夜のデートと浮かれていた気持ちが静かに沈殿して、代わりに、普段あまり考えないようなことを思考してしまう。
――いまこうして共にいる自分は、バクラがかつて抱きしめた彼女と同じなのだろうか、などと。
三千年という時を超えて、了はリョウの記憶の一部を継承している。されど自分はリョウではなく獏良了なのだ。
完璧に同一とは言い切れない自分を、バクラはどう思っているのだろう。
夜ごと抱きしめられ、幸せで。一緒に暮らせて、幸せで。あの時できなかった普通の生活といいうものを送ることが出来て――とても幸せなのに。
それなのに、何故か不安が拭えない。
丁度この、提灯に照らされた白い幻想の風景に似ている。明るく暖かいけれど、暗闇はまだ近くにずんぐりとわだかまっている。ふとした瞬間にその漆黒へ足を踏み入れてしまうのではないかと、らしくもなく了は不安になった。
了はリョウではない。リョウにはなれない。
それでもバクラは、そんな自分と共にありたいと思っていてここに居るのだろうか……
「バクラ、」
思ったまま、不安を投げようとした。
バクラはこちらを見たまま、何だよ、と、いつもの口調で返してくる。
大好きな紫の瞳。映りこむのは、了か、リョウか。
――知りたいけれど、知りたくなかった。
「……きれい、だね」
結局、本当に伝えたい言葉は形にはならず。
場を繋ぐような声で呟いた言葉に、バクラはまあ悪くねえな、と、答えた。
了は桜を見上げる。闇夜に浮かび上がる、薄桃の花弁の渦を。
内側から発光しているかのようにぽつんぽつんと灯るそれが、集まって大きな白い塊になる。
綺麗だと云ったのは嘘ではない。本当にそう思っていた。心は遠くへ――バクラと自分のことへと馳せられていたけれど、美しいものは美しい。
されど喉は妙につかえて、つなげる言葉が見当たらない。ただ茫然と眺めていると、バクラはやっぱりなァ、と、独り言らしきことを呟いた。
「やっぱりって、何?」
了が問いかける。するとバクラは口角の端を少し下げて、一見不機嫌にとれる表情を浮かべた。これが見た目のとおりの感情を表しているわけではないことを了は知っている。何かごまかしたりするときに、彼はこんな顔をするのだ。
バクラは「さっき云ったじゃねえか」と低い声で云ってから、やおら手を持ち上げて、
「てめえの頭みてえだってよ」
大きな手で、ぽん。
了の頭を軽く叩いた。
その瞬間、まるで脳の中身が高速で巻き戻ったかのように、了は懐かしい風景を見た。
砂礫の町。砂色の世界。狭くて小さな石造りの家。その近く。
一緒に眺めた群青の夜空に、白い星の滝。
あの時も、了は、否、リョウは、きれいだねと云って。バクラはてめえの頭みてえにまとまりがねえと云って、頭を叩いた。
共に過ごした、太古の記憶。
大切なそれが時を超えて、また繰り返されたこと――記憶の奔流が溢れるようにこみあげてきて、胸が痛い。
何故か泣きそうになって、唇を噛んだ。
「……それって、きれいだって云ってくれてるって思っていいのかな?」
はぐらかそうとしたのに、図らずとも語尾が震えた。
嬉しいのに、幸せなのに、泣きそうだった。
バクラはその、了の言葉の中の震えを感じ取っていたのだろう。ちらと横目で了を見たが、彼は何も言わなかった。何故そうしたかは、了には分からない。察してくれたのか、深く追求することではないと思ったのか。
けれどそも沈黙が、今は有り難かった。きっと言葉を与えられたら、どんなものだって泣いてしまう。
しああわせで、しあわせで、そして、怖かった。
リョウになれない自分が歯がゆかった。了のまま愛されたいとも思った。
バクラがどう思っているのか、本当のことが知りたかった。
一寸先の暗闇に迷わないよう、確かな言葉が欲しい。強く手を掴んでいてほしい。けれど、それを求めてはいけないような気もして――どうしたらいいのか分からない。
りょう、と、バクラが呼んだ。
どっちを呼んだのだろう。返事をしてもいいのだろうか。
分からない。
強い風が吹いて、桜が散っていく。
はらはらと散り散りになるそれを呆然と眺めていたら――不意に、ぐい、と。
「しみったれた面してんじゃねえよ」
肩を、引き寄せられた。
相変わらず、バクラの声は不機嫌そうだ。感情をごまかすようにそっぽを向いている。
抱いた手がくしゃり、了の髪を弄った。長く豊かな髪は風にあおられて、それこそ桜のように乱れている。
続けてくしゃくしゃと掻き回してから、バクラは、
「やっぱ、こっちのがオレ様の好みだな」
そんな風に、ひどくぶっきらぼうに呟いた。
白い桜。綺麗な桜。それよりも、桜に似た白い髪の方がいいと。
――ああ、本当にもう駄目だ。
感情のままにバクラの胸に抱きついて、了は小さくしゃくりあげた。
こみ上げてくるのは途方もない幸せと、ほんの少しの苦さ。
ちくんと痛む後ろめたさは、きっと過去の自分に対する切なさだ。
見ないふりをしてくれるバクラは、何もかもわかっているのかもしれない。何もわかっていないかもしれない。
でも彼は、了がいいと云ったのだ。
了の髪がいいと。
今はそれだけで、いい。
熱い胸に頬を押し付け、夜気に漂う花の香につつまれながら、了は胸の内でそっと呟く。
ありがとう、ごめんなさい。
ボクはとても、幸せです――