パンドラ・コール Case one call
発行: 2011/08/12
電話にまつわるバクラと獏良の物語。ジオラマ作り始めた時くらいの時期です。
心の部屋にぽつんと置かれている黒電話。最初は無視していたものの、その受話器をとってみると…ってな具合です。
・小説:書き下ろし
・表紙:696
何もない空間だと思っていた。
獏良了の心の内側、本質そのものを表す心の部屋。そこは敷き詰めた闇しか存在せず、天地も左右も区別がない。一歩踏み出せば無限に続く回廊になり、同時に、奈落へと誘う断崖絶壁にもなる。
白く綺麗に整った外見に、柔和な笑顔。その内側で抱え込んだ闇はバクラにとって心地よく、忘れたはずの母親の胎内――遥か昔、ヒトだった時代から更に遡り胎児であった頃に微睡んだ羊水の海に似ていた。
心の象徴も、愛する者の幻影も無い。
何もない、誰も居ない空間。
――そう思っていたのに。長い間、そうであったのに。
ジリリリリ ジリリリリ
耳障りに鳴く、この物体は一体何だ。
バクラは闇の上に静止し、じっとそれを見下ろした。
黒光りするジュラルミン。レトロな数字。螺旋を描いたコード。
現代ではついぞ見られなくなった、いわゆる黒電話というものだ。携帯電話が普及し、家に据えられるタイプの電話すら減った昨今、こんな古臭いものにお目にかかるとは。しかも、獏良了――宿主たる少年の心の中で。
ジリリリリ ジリリリリ
割れ金に似た音は、急かすようにバクラを呼んでいる。
繋がる電話線は中途から闇に紛れて、先が見えない。どこに繋がっているかも不明だ。
心地よい空間を邪魔され、芽生える不愉快さがバクラの眉間を深くさせる。獏良の心のうち、大抵のことは把握していると思っていたけれど、こんなものが出現するような事態は想定していない。何もかもうまくいくはず、シナリオどおりの展開をなぞり現在に至っていたはず――獏良了は嘘で真っ赤に染まった二枚舌に騙されてバクラの共犯者にして操り人形と化して久しい。喜ぶことも悲しむことも、バクラの舌先ひとつで思うが儘に操作できる。
だというのに、これが一体何だか分からない。
(大事な時期だってのに、何なんだ)
現実の世界にて、ジオラマ制作の指示を与えたのはほんの数時間前のことだ。
獏良は従順に制作を請け負い、細かい打ち合わせの中でもいつも通り、バクラの忠実なる手足として過不足ない働きをしていた。熱心に指示のメモをとり、制作に必要な道具や材料を明日集めに行くと張り切っていた。
あの瞳の様子に、嘘の匂いは感じなかった。故にこの黒電話が反逆の意を秘めているとは考えにくい。
(だとしたら何だ)
獏良の他愛無いおふざけか。コールを受けて受話器を取った瞬間、何か驚かせる仕掛けでもしてあるのか。あの天然電波のことだからやりかねない。己の心の操作方法など彼が会得しているとは思えないが、この場所で交わった回数も数えるのがばかばかしいほどに重なった。なれば、こっそりと体得していてもおかしくはない。
――いずれにせよ、応じてやる必要もないか。
ジリジリと喧しく喚くそれを無視し、バクラは四方の闇の中に溶け、束の間の休息に潜ることにした。