パンドラ・コール Case three call

ジリリリリ ジリリリリ

 馴染みのベルを今日も聞く。三回鳴る前に、バクラは受話器を耳に宛てた。
  獏良の独り言が、今日も独白じみて流れてくる。
『……今日はみんなと一緒に帰れなかったな』
『ボクがいない時、みんなは何話してるんだろ』
『バクラのこと、バレてないかな。バレたらボクら、どうなっちゃうんだろう……』
  不安のかたまりが音を得た、そんな声だった。
  バクラは闇の上に胡坐をかき、黙った儘で声を聞く。
  この黒電話が何を意味しているのか――初めて声を耳にした時、あっさりと察せられた。
  これは獏良了の本音だ。
  口に出したくても出せない、依存先であるバクラにさえ隠したがる、誰にも言えない真実。
  云いたくない、けれど知ってほしい、そんな深層心理が生み出した存在。誰でもいいから聴いて欲しいと願いながら、現実では絶対に言葉にしてはいけない感情が、この小さな機械から滴るように漏れてくる。そこには、心を掌握するバクラですら知らないことが多く含まれていた。
  妹のこと。
  家族のこと。
  クラスメイトのこと。生活のこと。授業のこと、街中で起きた些細なこと。
  そして、バクラのこと。
  最早愚痴に近いそれは、圧倒的にバクラの事柄であることが多かった。
  現実世界で滞りなくジオラマを作り、かりそめの共同体――恋人のような共犯者、を演じている間に、おくびにも出さない真実がここにはある。
  中には、バクラが勘違いしていたことも多少なりともあった。心を間借りしていても分からないことがあるものかと、内心バクラは驚いたものだ。この闇は思ったよりもずっと深い――この暗澹とした暗黒世界の裏側にはまだ何かが存在している。もしかしたらこの闇は張りぼてで、剥がしてみたその場所にこそ、本当の獏良了の心が存在しているのかもしれない。もしそうなら、そこはきっと真っ白なのだろうと思った。そして、その方が余程似合っているとも思う。
  真っ白な真実は、聞き手の存在の有無を気にしない。バクラが喋りかけない限り、きっと気が付かないだろう。誰かに聞かれている、ということに。
  それが望みなのだということも分かる。誰にも知られてはいけないから、聴かれたくない。それでも聴いて欲しいから、こんなことをする。ややこしいようであって、根は酷く単純だ。
『バクラは何がしたいんだろう。ボクには何も話してくれない』
  獏良の胸の内は常に不安が渦巻いていることをバクラは知った。
『ジオラマ、何に使うのかな。本当は作りたくない』
『分かるんだ、これは多分、ボクの最後の仕事になる』
『完成したら、バクラはきっとボクを要らなくなる』
『作りたくないよ…… でも、いやだって云ったら、きっと』
『きっと、ボクは捨てられる』
  連なる独白に、バクラは音にせず、くつりと笑う。
  そうと言葉にしなくても、意外なるかな、宿主サマはなかなか聡いようだ。 
  だが一つ勘違いをしている。捨てるだと? そんな勿体ないことをするわけがない。
  バクラの手足でいる間は、獏良了は可愛い人形だ。全てはギブアンドテイクで成り立っている――獏良が従順である限り、バクラは彼を甘やかし、大事なものであるかのように扱う。
  ならば抗ったら? 抵抗したら?
  それでも捨てはしない。ただ甘さや優しさや嘘と云った上塗りを剥ぎ、生ぬるくない本来の躾を行うだけだ。
  いずれにせよ、宿主と決めた相手は獏良了しかいない。そんな簡単に捨てたりなどしない。
  愛よりも深く、憎しみよりも濃く、バクラは獏良を絡め取る。
(止めたっていいんだぜ、宿主サマ)
  そうしたら、作りたくなるまでお仕置きしてやるからよ。
  そう云ってやったら、この受話器の向こうの獏良は何と反応するのだろう。怯えるのか、喜ぶのか、泣き叫ぶのか。いずれにせよ愉しそうな展開だ。実行できないのが歯がゆい。
『ボクは、バクラと一緒に居たい』
  感情の籠らない声は、温度以外は熱烈だった。淡々と告げられる執着は、雪のようにバクラに降り積もる。
『みんなとも、争いたくない。どうしてみんなで仲良く出来ないんだろう。なんであいつは、遊戯くんを目の敵にするんだろう。ボクは何もわからないのに』
  戯言だ。甘ったるく日和った発言に、鼻で笑う。
『怖いよ、ボクは、ボクらは、この先どうなっちゃうんだ』
『一緒に居られなくなるのに、ジオラマなんか作りたくない』
『ずっと一緒に居たい』
  それは愛ではない、とバクラは嘲笑う。
  愛なんてものはこの世にもあの世にもどこにも存在しない。単なる都合の良い感情の繋ぎ合わせだ。そう、それこそギブアンドテイクの人間関係に過ぎない。
  求められたい、大事にされたい。だから求め、大事にする。報われない恋とやらをしている者は、自己に酔っているか、努力の末に相手の愛情とやらを手に入れられる妄想だけを食って生きているかのどちらかである。
  獏良は自己の理解者が欲しく、それを手放したくないが故にバクラに従っている。失いたくないだけ、バクラが居れば気持ちがいいから、手放したくない。それだけのこと。大仰に愛などと云う名前をつけてみても、一皮剥けばただのちっぽけな自己愛がみっともなく震えている。
  無様だな、と思った。
  綺麗な顔の裏側に自愛を隠した獏良は酷く滑稽で、みっともなく、矮小で、惨めで――どうしようもないほどにありふれたただの『ヒト』だった。
『ホントのことを教えてよ、バクラ』
  名を呼ばれても、それはここで受話器に耳を傾けるバクラに向かって云っているのではない。誰でもない誰かに、獏良は云いたいのだ。
  誰にも伝えられないからこそ、そんな風にバクラを呼ぶ。剥き出しの感情を静かに叩き付けるかのように。
『お前といろんなこと、普通のことして、遊んだりしてみたい。
  ずっと一緒に居たいんだ……』
  切なる声は、バクラの胸をそよ風程度すら、揺らすことはなかった。