【♀】斯くて匣庭は落日に消ゆ 序章
昼と夜とが逆転しないですむのは学校に通わなければならないからで、もしこれがひきこもりだったりした日には間違いなく一日の天気すら知らずに日の落ち始めに目覚めて朝日におやすみと挨拶することになっていただろう。
――と、デザインナイフを操りながら獏良はぼんやりと考えた。
大抵の人間はマルチタスクに働くことが可能である、と思う。何かをしながら別の案件を進めていくことができる。一つや二つじゃなく時にはもっとたくさんのことを。だが獏良はそうではない、ことものを作るとなればますます顕著で、一つの作業にかかりきりのシングルタスクだ。それはキッチンで山積みになっている三日前の食器やプラスチックの籠に積み重なってゆく洗濯物の姿を見たら誰だってわかるだろう。
獏良の頭には今、ジオラマを作る、それだけしか頭にない。
なぜかといえばそれはバクラに頼まれたからで、共犯関係をゆるゆる続けている間柄として、交換条件のひとつだと彼は考えている。TRPG部屋の大半はこの巨大な箱庭のための有象無象で散らかりきり、本当の意味で足の踏み場もない。
大掛かりな代物である分、構想から着手までにも時間はかかっているしバクラとの打ち合わせも不可欠である。バクラは頻繁に獏良の手元を、あるいはジオラマ全体を覗き込み、事細かな指示を与えてゆく。まるでそれは実際に目にして触れたことがあるかのような、町の活気、砂の感触、乾いた空気、石畳の罅割れ、建物の隙間に漂う闇――そんな微細なあれこれを、言葉と、繋がりあう心のイメージで伝えてくる。
やりがいがあるといえば、そのとおりだ。きっとこれから先、こんなものを作ることが出来る機会は無い。のめり込んでいる自覚はあれど、ブレーキにはならない勢いはそのまま手指に表れる。
だから寝食さえ時には忘れてしまう――そんな時はバクラの方が、頃合いを見計らってぶっきらぼうに声をかけるのだ。
「オイ宿主、休憩しろ」
いきなり背後から声を掛けられ、驚いた獏良はびくんと顔を上げた。
ぴちりと指先に痛みが走る。見ると、手の中のナイフの切っ先が、削りだし中のモブの人形を握る指を裂いていた。ぷくりと血の玉が浮かび上がり、塗装もまだ済んでいない、生成色をした女性型の人形へ赤まだらの模様を描く。
あー、と、獏良は唸った。後で削らなければ。いや上から塗ったら大丈夫かな。そんなことを考えながら振り向くと、腕を組んだバクラがいつもどおりの機嫌の悪い目でこちらを見ていた。
「休憩」
「はーい」
「てめえで調整しろよ。メシくらい食え」
「集中してたんだよ。それにあんまりおなかすいてない」
「冷蔵庫にシュークリーム」
「ほんとっ!?」
シュークリームの単語を聞いて、獏良が比喩なく飛び上がった。手の中の人形とナイフがぽいっと、作りかけのジオラマの端に捨てられる。
「いつの間に買って来てくれたの? ぜんぜん知らなかったよ!」
「誰かさんが眠ぃからその間に買い物に行けだとかおっしゃった時にな。餌だ餌」
鼻っ面にぶら下げて作業させるのもいいと思った、と彼にしては偉くぬるい冗談を吐いて、バクラは空間をすいと泳いだ。駆け寄った獏良がそれを追い越し、一直線に冷蔵庫に向かう。電気消せ、と一言云われ戻ってきた時にはもう、手の中には巨大なシュークリームがあった。ばちんと壁を叩いて、TRPG部屋の灯りが落ちる。
ジオラマの世界に夜が訪れた。
美しく整えられた城、砂礫の町並み、連なる山々――片隅に小さくまとまった、四角い住居へ転がり込んだ作りかけの白い人形にも、同じように闇の帳が落ちてゆく。
次に獏良がこのジオラマの前に立つ時には、彼はその人形の存在すら、欠片も覚えていない。人の魂を紡ぐ赤い水、己の血を吸ったそれは、完成された時も変わらずに、未完のまま住居の内側に在り続けた。
そうして最期の日、全ての人形にかりそめの命が巡る。
量子力学の箱の中の猫があくびをするより短い時間で、遡り作られる、ひとつひとつ――否、一人一人の過去。存在した瞬間を今として、今までの歴史が作られる。
人形は人へ、己が作られた存在とは誰も知らず、呼吸を始めた。
町の物売りが、酒場の荒くれ者が、赤い外套の盗賊が。そして、瓦礫の集落で一人佇む、獏良の血を受けた白い髪と肌の少女が、目を開く。
始まるのは、神ですら知りえない、知る必要もないほど些細な邂逅と別れ。それらは箱庭の片隅で、瞬きの速さより早く出来上がって、また、過去となった。