【♀】斯くて匣庭は落日に消ゆ 第二話-01

ひとのかたちはかえられぬ。
ひとはうそをつらぬけぬ。
獣の皮を被っても、お前は獣には成れぬのだ。
そうして唸り声をまねてみせる様子が、
どれだけ滑稽なものなのか、考えたことはあるのか?

  1

 懐かしい夢を見ていたような気がする。
  幼い頃の記憶なのか、それとも、普段繰り返している益体の無い妄想の欠片が迷い込んだのか定かではない。夜空よりも深く砂よりも軽いさらさらとねばねばとした暗黒の真ん中にリョウは佇んでいた。立っているのか寝ているのか、逆さまなのかもとんと分からぬ。天地を無くし平衡を欠いた異空間としか表現のしようが無い。闇はどこまでも暗く深いのに、一秒ごとに色を変えた。黒い泥の中に宝石や黄金を放り込んで掻き回し、四方から光を当てたならばちょうどこのような具合になるやも知れぬ。虹色に輝く闇は優しく、包まれる感覚は母胎で目を閉じる微睡に似ていた。暖かい、心地よい。もうここから出たくない――リョウは尻尾を巻いた蛇のように縮こまると、風もないのにふわりと広がる長衣の裾を押えた。生成りの花弁が開花の逆再生を描いて、小さく丸く、囲われてゆく。折り重なる薄い膜の内側で、リョウは一輪の莟に成った。
  ある時、変化が訪れた。
  頑なに閉ざした花弁を誰かが剥いでいる。幾重にも重ねた精神の葉と魂の花弁を、無遠慮なそいつはべりべりと剥がしていった。花芯でとぐろを巻くリョウは不躾な闖入者に眉を顰め、柔らかくいい匂いのする内側から顔を上げた。
  目の前に、顔の見えない男がいた。
  確かにそこに存在しているのに、首から上がどうしても認識できない。ただ笑っていることだけは分かった。
  彼は父親のような、そうでないような、しかし、リョウが心から信頼している相手であった。優しく笑い手を差し伸べて、こちらへ来いと穏やかな声で云う。伸べられた掌は太陽の民の色をしていた。褐色で、大きく、がっしりとしている。父親はリョウと同じ月の下の民であるから、本来ならば冴え冴えと白い色をしていなければならぬ。されど夢の不思議さか、リョウは何の躊躇いもなく、ああ、父さんだ、と思った。
  彼が云う。こちらへ来い。そんな所で眠っていないで出てこいと。
  警戒する理由が見当たらなかった。父がそう云うのなら、自分は起き上がるべきなのだ。早くおいでと急かされる。皆が待っている。
  皆――それは一体誰のことだろう?
  妹? 家族? 友人? そんなものがいただろうか、分からないけれど呼ばれている。ならば、行かなければ。起きなければ。
  暗闇で笑う太陽の男に、リョウは月色の掌を乗せた。
  ぐいと強く引かれ、二重三重の花弁の間から、羽化したての濡れた身体が開く。粘ついて震える瞼をそっと開いた瞳に映ったのは、見慣れた、日常という名の天井だった。
「……夢だ」
  瞬きをしてから数秒の沈黙。その後に、リョウは嗄れた喉で呟いた。
  朝と呼ぶにはまだ早い時刻だった。一つきりしかない窓から切り取られた空が見える。夜に一匙だけ朝日を加えた曖昧な色だ。しんと沈んだ静寂が暗闇を湛えて、夢の地続きであるかのような錯覚を一瞬だけ味あわせる。普段ならば遠くで鳴く名前も知らない鳥の声と鋭角で差し込む朝日によって目覚めるリョウからすれば、この時刻の目覚めは異例の事態と云っても良い。
  リョウはゆるゆると手を上げて、顔に触れた。
  夢の中では羽化で濡れていた顔や瞼はきちんと乾いている。服は花弁ではなくいつもの生成の貫頭衣だ。肩には留め具をはずした頭巾がだらしなく纏わり、両腕も両足も、外出用の扮装のまま。
  現実と夢の境を行ったり来たりしながら、状況を確認していく。次第に意識がはっきりとしてきた。そう、確か男の手当をして、眠たくなって、害を加えないという言葉を丸呑みに信じてそのまま眠ってしまったのだった。身体を押えてみるがどこにも傷や痛みがないので、どうやら本当に彼は刃物を振るわなかったらしい。捕食者の目の前で夢を見るほど緩んだ睡眠をとる自分も自分だが、約束を守る男の方もおかしいと思わずにはいられない。
  変なの。変なひと。
  寝台の上に起き上がり、リョウはうんと強く伸びをした。身体にかけられた掛布が重力に従ってずるずると這い落ちた。あれ、いつの間にちゃんと寝台に上がったのだろう――記憶にないのだけれど。きっと自分のことだ、身体が痛くなって、夢見心地に寝台まで移動したのだろう。
  しかしおかしな夢だった。目覚めた途端急に希薄になってしまうのが夢だけれど、ぼんやり覚えている誰か――手を差し伸べてきた男は冷静に考えてみれば父親である筈がなかった。肌の色はもちろん、声や、雰囲気や、そういったものが違いすぎる。おぼろげに覚えているリョウの父親というのは、自分に似て線が細く、柔和な顔つきに似合う口調と手のひらを持っていたのだから。どうしてあの者を父親だと思ったのだろう。さてはならず者と屋根を共にした所為か、おかしな影響を受けたものだ――そう思い、原因の男が居るであろう窓の下へ視線を向けると、そこには誰も居なかった。
「あれ……?」
  リョウはごしごしと目を擦った。まだ頭が寝ぼけているのか? それとも男と出会ったことから既に夢だったのか? いやそんな筈はない。寝台の脇には手当で汚れた布が丸まって落ちているし、よくよく見てみれば、男が座っていた場所には彼の纏っていた赤い外套がぞんざいに脱ぎ捨てられているではないか。
  リョウは立ち上がり、戸口の近くまで寄ってみた。
  入口に掛けた布の隙間からそっと外部を伺う。夜の衣を引きずる辺りに、生き物の気配はない。用でも足しに外に出ているのかと思ったが、近くには居なさそうだ。
  ひょっとして、出て行ったのだろうか。応急手当ではあるが傷を塞いだのだ、追われる身としてはさっさとこの地を去ることが得策と彼は考えたのかもしれない。いやそれならば外套を置いていくというのはおかしい。あんなに目立つ鮮やかな赤い仕立てのもの、存在の痕跡をわざわざ残していくとは考えにくい。
  戸口からいったん室内へ戻り、リョウは首を傾げながらふと台所に目をやった。作り置きしておいた豆の煮たものを入れた器の中身が空っぽになっている。その他にも食料を漁った形跡が見られ、干した果物を貯蓄していた小さな甕の蓋が空きっぱなしになっていた。一口分の歯型が付いた無花果の実が放置されている。男が空腹を訴えかじったものの、口に合わなかったのだろう。それで豆を食べ、なおも足りないので外部へ食料の調達に出かけた――状況をそう予想して、リョウはやおら輝いた表情で手を叩いた。
  こんな時刻だ、きっと男はついさっき出かけたに違いない。ならば戻ってくるまでに時間がかかる。その間に水を浴びて着替えてしまえばいい。この時期を逃したらいつ身体を流せるかも分からないのだ、多少外が暗いが、人目につかないと思えば都合が良い。
  そうと分かれば早速準備をしなければ。リョウは衣類を収めた箱をひっくり返すと、染料と櫛の入った箱と新しく手足に巻く為の布、それと飲料水用の小甕を揃え、それらを更に大判の布でぐるぐると包んで戸口をくぐった。外へ出る前に一度足を止め、頭巾を被る。男の前では隠さなくていいらしいが、外で万が一、誰かに見られたらことである。
  顔を覗かせ、人目を確認してから、小走りに秘密の水場へと向かった。
  リョウの住居は辺りにほとんど住民が居ないが、これから向かう場所は更にひと気が無い。農耕の地として役立つほど地に栄養がなく、元気のない褪せた草がぽつぽつと生える枯れた大地と大小の崖、そして何より、妖しのものが棲みついているという噂の所為で、忌み嫌われているのだ。リョウは知り及ばぬことだが、そのあたりから白い肌の者が住まう辺境の地が肉眼で薄ら確認できるとからだという理由もある。
  そんな場所だからこそ、白い肌を隠す少女はゆっくりと水を浴びることができる。進みづらい崖に左右を挟まれたけもの道を抜ければ、天の気まぐれとしか言いようのない、そこだけぽつんと異界であるかのような小さな泉に辿り着く。乾いた大地のその下に水脈が繋がっているらしく、不自然なほど滾々と、今日も清水は溢れ出ていた。泉のまわりにだけ瑞々しい草と育った木が茂り、水場全体に対する傘の役割を果たしている。その傘の上に更に、切り立った崖がなだらかな角度で影を落としている為、そうと知っている者以外にこの場所は見咎められることはないのだった。
  それでも一応辺りを確認してから、リョウはいそいそと茂みを掻き分け、草の上に荷物を置いた。
  誰もいない。
  微かに響く水音に、自然と顔が緩む。
  このまま思い切り飛び込んでしまいたいのをぐっと堪え、リョウはまず飲み水の確保を急いだ。透き通って水底が見えるほどの清い水を甕いっぱいに溜め、ついでに一口だけ喉を潤すことにする。こくり。小さな喉が音を立てた。
「ん、おいし」
  昨日から乾いたままだった身体中に水分が染みわたっていく。気分は草木と同等だ。地面から水を吸って葉がのびやかに育つように、若い手足の指先にまで、冷たい癒しがゆるゆると走る。
  続けてもう二口ほど飲んだ。沈黙したまま長い息を吐く。ああ、と知らず満ち足りた声が零れた。
  楽しみはこれだけではない、むしろこれからが本番である。リョウはもう一度辺りを見回し、鮮やかな斑点模様をした水蜥蜴と小さな虫以外に生き物がいないことをよくよく確認した。
  獣も居ない、人もいない。歓喜と共に扮装と靴を脱ぎ捨てた。
  咄嗟に何かがあった時の為に、着ている服だけは脱ぐことができない。数回に一度だけ全て脱ぎ捨てて水に浮かぶことがあるが、今日それをするのは得策ではないだろう。
  泥を塗った爪先でそっと水面に触れる。真円が幾重にも連なって大きく広がっていく中心に、リョウはゆっくりと身を浸した。
  泉は浅く、深さはリョウの腰ほどまでしかない。少女はその場にしゃがみ込み、冷たさの洗礼を心地よく浴びた。長い裾は空気を孕んでしばらく水面に広がっていたが、麻の隙間から入り込んだ水に侵食され、やがて水の中へと沈んでいく。裸足の指の間を滑らかな砂がさらさらと過ぎていくのがくすぐったい。
  透明な水の中で、生成の裾が魚のように泳ぐ。肩まで沈み、それからえいやと息を止め、一気に水中へと潜る。頭のてっぺんがじんとしびれた。耳の奥がきんと詰まった。
  潜った所為で乱れた水流が、染料の黒と泥を浚って濁り、そしてすぐに透明に変わっていくのが見える。
  なんて気持ちがいいのだろう。乾いた皮膚に染み渡る冷たさと、染料でごわごわと固まった髪が柔らかく解けてゆく感触。
  ごぼりと大きく息を吐いて、空気の玉が大小競い合って水面を目指し弾けていくのを眺めるのが好きだ。生憎今日はまだ薄暗い時刻だが、天気の良い朝なら、水中から顔を上げた瞬間に見上げる空がとても美しい。まだらに茂る木々の緑の向こうへ、崖の茶色に半分切り取られた青空が広がって絶景なのだ。月夜なら、青空の代わりに冴え冴えと白い月を見ることが出来る。
  ずっと水の中に居たいと思うほどの心地よさだった。しかし悲しいことに、人は鰓で呼吸をする能力を持ち合わせていない。肺が酸素を求めて騒ぎ出す前に、リョウはざぱりと顔を上げた。
  少し身体を浮かせ、中ほどまで水を掻いていく。泉の中に居座っている大きな石は、腰かけるのに具合がいい。
  半身を引き上げた少女の身体に、濡れた服と髪がぴったりと張り付いた。抑えるもののなくなったささやかな乳房から細い腰、女性特有のまろい尻と腿のあたりの形までが、肌を晒すことなくあらわになる。頭巾の無い白い首は、薄い皮膚の向こうの筋と骨を浮かして痛々しいほどに細い。水に濡れると一層なよやかに、あやうげに見える。
  泥が溶け、本来の色を取り戻した指で、リョウは長い髪に触れた。
  白い髪が染料の名残を纏わせて灰色に変わっている。それを今度は手櫛で丁寧に落としていく。水を掬い何度も繰り返して浚ってゆくうちに、日々どうしても纏ってしまう砂埃と汚れはとろとろと水に溶けていった。もっと近くに水場があれば――あるにはあるが異形の少女が訪れてよい場所ではない――毎日だってこうして水を浴びるのに。だからこそ貴重なこの時間を楽しむように、リョウは髪を梳き肌を濯ぐ。普段は希薄な年相応の少女らしさが、水を与えられて花開くようだ。
  知らずほころんだ口元は嬉しげな笑みを浮かべ、髪がもとの色を取り戻すまでの時間、即興の鼻歌が静かな水辺を揺らした。
  どれほど時間が経過しただろう。
  ふと見上げた空の色は群青から赤味を帯びた金色を連れ出していた。ああいけない、早く戻らないと男が帰ってきてしまう。逃げたと思われては大変だ――リョウは腰を上げ、水音を立てて地面へと戻った。髪と服を絞り、持ってきた布で拭いながら、手慣れた様子で染料の箱を開ける。乾いた髪より、濡れている方が溶き粉が染みて時間がかからないのだ。石を砕いた黒い粉に水差しを傾け、とろりとした液体になったそれを髪になじませていく。濯ぐ時と同じように丹念に、しかし、せっかく洗ったばかりなのにと若干のもったいなさに指先をいじいじと躊躇わせつつの作業は素早く済まされた。黒鳥の濡れ羽色に染めあがった髪は、少女の頬の白さを際立たせて余りある。原料に鉱石が含まれている為、光に当てると少しだけちらちらと光る様子は彼女が見た夢の闇とよく似ていた。
  染料で汚れた手を洗う。手足に解いた泥を塗る時間はないのでいつもより深めに布を巻くことにした。指の先とわずかな足の甲だけが覗いてしまうが仕方がない。人目に付く前に帰り着けばいいのだ、今まで誰にも見つかったことが無いのだからきっと大丈夫だろう。リョウは努めて前向きに考えた。
  頭巾を被り、まだ濡れた身体に身の丈ほどもある布を纏い、箱と甕を抱えて立ち上がる。一度だけ水場を振り返ると、水浴びの名残でまだ荒い水面の波紋と揺れる草が、リョウに手を振っているようだった。またね。うん、また来るよ。そんなあり得ない会話を自分の胸の内だけで済ませて去る。
  来た時と同じように草を掻き分け、けもの道を抜けた。
  正面からちょうど、太陽が昇ったところを見た。大地と丘陵の狭間から、金色の輪をした朝日がゆっくりと昇ってくる。眩しくて見て居られない。ちかちかする目を半分下ろした瞼の向こうに隠して、リョウは足早に帰路を急いだ。
  幸い、住処に男の姿はなかった。
  出発した時と同じ、散らかった台所と丸まった赤い外套、乱れた寝台というぱっとしない室内がリョウを出迎える。ほっと息を吐き、手に持っていた重い荷物――水を貯めた甕は小さくとも少女の手には余るのだ――を床に置く。
  男がまだ帰らないなら、この濡れた服も着替えてしまおう。今日は朝から運がいい、と、リョウは頭巾を取り、張り付く服を苦労して脱いだ。脱いでから、そういえば胸を潰し忘れたと気が付く。長い貫頭衣に覆われていない身体は、きちんと性を表わして少女のそれのままだったのだ。危なかった、もしこれで男が戻っていたら、いくらささやかな乳房とて見破られていたに違いない。まあ肌の色で差別する気はなさそうなので大丈夫かもしれないが、不安な要素はできるだけ隠して居たい。そんなことを考えながら、リョウは新しい布をきつく巻いて、それから乾いた服に着替えた。
  長い裾が細い脚を覆ったのとほぼ同時に、かたん。戸口の近くで音がした。
「あ、」
  振り返ると、男と目があった。ちょうど今戻ったといういでたちで、戸の布を手でよけていたところだった。
  見られたかと身体を硬くする。が、
「……よう」
  男はぞんざいな挨拶をよこしただけで、さっさと室内に滑り込むと、定位置と云っていい窓の下にどかりと座り込んだ。
  どうやら寸でのところで着替えを見られることはなかったらしい。挨拶の手前の秒に満たない沈黙は、いきなり目があって驚いただけだろう。
「ど、どこに行ってたの?」
  おかえりなさいと云うのもおかしい気がして、リョウは挨拶の代わりの質問を投げた。男が上目でリョウを見やり、ん、と、傍らの袋を差し出してくる。覗き込むと、野兎が一羽と鴨が二羽、命のなくなった塊となって放り込まれていた。驚いて顔を上げると、男は苦々しい顔で応えた。
「豆だの干し無花果だの、ろくな食いモンがねえからよ」
「どこから持ってきたの……?」
「人聞きの悪い言い方すんじゃねえよ。狩ってきただけだ」
  なるほど、日が昇る前に出かけていたのは狩りの為だったのか。てっきり町までこっそり戻って、どこかの家や店の者を脅して食事をとっているのかと思っていた。意外とまっとうなことをするこのならず者に、リョウは驚いて目を見張った。
「そんなことしなくても、盗んだり脅したりしてどうにかなるんじゃない?」
「は。飯なんてしょぼいモンを誰が盗むかよ。オレ様が盗むのはもっとでけえ代物だけさ」
  莫迦にしてんのかとでも云いたげに男が睨むので、リョウはそれ以上の質問を止めた。じゃあ一体何を盗むのと問いたかったのだけれど――たぶん彼は答えてはくれないだろう。
「血抜きはしといてやったぜ。おら、何か作れ」
「え?」
「まさか飯のひとつもつくれねえって云うんじゃねえだろうな?」
  そんなわけがないだろう、と顎をしゃくって見せるのは、空になった煮豆の皿だ。そう、彼はリョウの朝食をすべて平らげてしまっているのである。あまり腹の減らない彼女とて、何も食べないというわけにはいかない。男が突き出してくる肉の袋を受け取り、リョウはしぶしぶ台所へと向かった。仕方ない、男に食べさせるものを用意したら、自分の分も何か作ろう。麦粉はまだ残っていたはずだから、丸めて焼けばひもじい思いはせずにすむ。
  しかし、肉など調理するのは久しぶりだ。リョウは質素な生活を苦と思わず、肉の臭みや胃にもたれる感覚が嫌いだった為、市でも滅多に仕入れることがなかった。焼くか何かして味が付いていれば文句を言われることもないだろう、そんな適当な思いで、火を熾して調理を始める。
  どうにも奇妙な雰囲気が、二人の間に漂った。
  ちらりと伺った背後で、男は相変わらず面白くなさそうな顔をして胡坐をかいていた。一般的に考えれば、リョウにとって彼は恐るべき相手で、己を殺す者である。逆に彼は、リョウを捕縛し命を握る者である。もっと殺伐としていて然るべき関係だ。男はリョウが逃げ出さないか常に目を光らせ、必要とあらば拘束しておかなければならず、いくら腹が減ったとはいえ放置して狩りになどいくものではない。そしてリョウも――軽率に、ともすれば逃走したと思われるような行動をとるべきではないのだ。幸いにして水浴びをしに行ったことはばれていないようだが、もし帰宅がもう少し遅ければ、男はナイフを手にリョウを探しに出ていたのかもしれないのだから。
  そういった状況であるにも関わらず、男は狩りの成果をリョウに渡し、リョウはそれを調理している。何とも奇妙だ。まるで平和だ。一瞬、今がどんな状況かを忘れてしまいそうになるほどに。
  男が寄越した獲物はきちんと血抜きされ、腸も抜いてあった。毛皮も剥ぎやすいように見事な切れ目が入っている。恐らく後から売るか加工するかの目的があるのだろうと思い、丁寧に剥いでおくことにした。白い手指が血で濡れ、生臭さにうっと息が詰まる。これだから肉は苦手だ。思わず顔をしかめる。
「下手糞だな」
  いきなり耳元でそう云われ、リョウはひゃ、と声を上げて飛び上がった。いつの間にか、男が背後まで寄ってきていたのだ。全く気配がしなかった。
「お、驚かさないでよ」
「てめえがぼさっとしてっからだ。それより、ちまちまやってんじゃねえよ。捌いたことねえのか?」
「なくはないけど、ちょっと苦手なだけ」
  素直にそう云うと、男はしばらく押し黙り、それからやおら、
「退きな」
  と、リョウの肩を押しやって進み出た。
「え、何、なに?」
「見てるこっちが苛々すんだよ。てめえはそこで見とけ」
  驚くリョウを後目に、男は腰の後ろから恐ろしく鋭利そうな短刀をするりと引き出した。
  男の手さばきは見事なものだった。無骨な手は荒々しく、雑ともいえる手づかいで皮を剥ぎ骨を折っているというのに、無駄がない。美しく調理する為ではなくいかに手早く無駄なく肉をそぎ取り食料に変えるか、毛皮を傷つけず高値で売れるように剥ぐか、そういった方向に長けた動きだ。野宿などで野生のものを食料にするという腕が長けているのだと、世間知らずのリョウが見ても理解できる。
「すごいねえ」
  思わず小さく呟いた。小動物の血まみれになってしまった手を洗い、拭いながら男の手元を覗き込んでしまう。男はリョウを横目で見てから、まあな、とだけ云った。妙にくぐもった声だった。
  しばらくも待たない内に、一羽の兎と二羽の鴨は、生きていた頃の形を思わせない食肉の塊になった。これならば、先程のように吐き気を催すことも少ない。男は刃を軽く振って血を払うと、ふいと向こうを向いて退いてしまった。
「え、続きは? しないの?」
「てめえオレ様に料理なんぞさせる気か」
「だってすごく手慣れてたじゃないか」
「うるせえ、味付けて焼くくらいできんだろ。こっちは疲れてんだよ」
「そうは見えないけどなあ」
  この分なら調理だってきっと上手いに違いないのに。リョウが頬を膨らませると、男は唸ってからさっさとやれ、と語尾を荒げてきた。
  リョウは料理が苦手ではない。自分で作って自分で食べる、ただそれだけだが、まずいと思ったことはまずないので下手ではないと思う。男に喰らいつくされてしまった豆煮だってなかなかの味だった。
  そこまで思って、ひょっとして男はあの豆煮の味が気に入ったのではないか、と、随分呑気なことを考え付いた。
  干し無花果はかじって止めたくせに、豆は全部無くなっていた。二食分は保つだろうと思われる分量を貯蓄しておいたのに全部無くなっていたのだ。不味いと思ったのならそうはなるまい。しかしそんなことがあるだろうか――あるとしたら随分、呑気な話だ。男は一体どういうつもりでこんなことをしたりされたりするのだろう、昨日と違って、まるで捕縛者と捕虜らしくない。
  不思議さを抱えて立ち尽くしていると、男は鼻を鳴らしてさっさと定位置に戻ってしまった。本当に調理をする気はないらしい。ならば、続きはリョウがやるしかない。
  幸い香辛料は余裕があった。肉の臭みを消せるだけの香草もある。リョウは不思議さをいったん忘れ、男の言うとおり、肉を食事へと変化させる作業に集中することにした。
  それなりの時間をかけて、殺風景な住処の中に料理の匂いが漂い始める。
  焼き上がった肉と保存食のいくつかを用意して並べると、男は無言で、脚のがたついた椅子に腰かけてそれらに口を付けた。
「……ン」
  咀嚼する間に、微かに、そんな小さな声を聞く。満足そうな声に、リョウは内心やっぱりなあと頷いた。思ったとおり、リョウの作る食事の味付けが気に入っていたようだ。男がどれだけの量を食すのか全く分からなかった為、ある分の肉は全て調理してしまったのだけれど、この様子からするとどうやら余ることはなさそうだった。
(おいしそうに食べる人だなあ)
  卓の脇に立って、荒っぽく食事をとる男を眺めていたら、自然と顔が緩んだ。こんな風に、他人にものを食べてもらうのは初めてだ。存外悪くない気分がするものなのだなと、リョウは少し笑った。
  おかしいな、この人は恐ろしい人間のはずなのだけれどどうもそうは思えないような気がする、最初はあんなに乱暴で、首を絞めたり素顔を剥ごうとしたりひどいことをしたのに。そして怪我が治ったら自分は彼に殺されるのに、気が緩むのはおかしな話だなあ――そう理解していても、リョウはどこか和やかにさえ感じてしまう空気に逆らえずに、口元を持ち上げたままだ。
  そんなリョウへ、男は食べる手を止めることなく云う。
「何突っ立ってんだ、てめえも食えよ」
「へ?」
「へ、じゃねえ。突っ立って見られんのは気分悪ィんだ」
「それはあなたの食事だよ。あなたが狩ったんだから」
「てめえが作ったモンだろ」
「半分はね、でも……」
「うるせえ、いいから食えっつってんだ!」
  だん、と拳を卓に叩きつけて、男はいきなり怒鳴った。だが、びくりとして肩を震わせたリョウを見て、すぐに決まり悪げな顔になる。
  怒られる理由が分からず、リョウは口ごもった。
  だってそれは、男が己の空腹の為に用意したものではないか。それを他人に分け与えるなんて、ならず者のすることではない。町の人々だって、他人に食事をふるまう代償に金銭的な取引をするのだから、卓につけなんて言う方がおかしい――意味が分からず戸惑うリョウに、男はああだのううだのというよくわからない唸り声を上げて、それからがしがしと頭を掻いた。
「いちいちびくびくすんじゃねえ。ガリガリに痩せた奴に眺められてたら飯がまずくなるってだけだ」
「ボクそんなに痩せてない……」
「いいから食え。もっかい怒鳴るぞ」
「わ、わかったよ」
  本当に怒鳴りそうな獰猛な声だったので、リョウは恐る恐る卓についた。男の向かいに、使う機会のない二脚目の椅子を引っ張ってきて席に着き、匙を取る。
  どこか和やかに感じていた空気が一変する中、本当に久しぶりに、肉を口にした。香料の効果で臭みにえづくことはないが、矢張り、あまり好きな食感ではない。噛み締めて滲む肉汁の熱さより、付け合せた玉葱の甘味や空豆の方が余程食が進む。それでも男の不快を煽るのは躊躇われて、五口に一回、小さく切った肉を口に入れた。
  男はリョウがちまちまと食事をし始めたことに満足したのか、再び荒々しい仕草であっという間に一羽分の肉を平らげた。がつがつと食べ、ごくごくと飲み、実に勢いが良い。本当に、見ているだけで食欲が満たされそうな食事風景だ。
  肉の塊を咀嚼しながら、リョウは考える。ひょっとしてこの男は、見た目ほど悪い人間ではないのではないか。
『ガリガリに痩せた奴に眺められてたら飯がまずくなるってだけだ』
  そう男は言った。リョウ自身、自分が痩せこけていると思ったことはそうないのだけれど、逞しいならず者からしてみれば何ともみじめな姿に映ったかもしれない。向こうはこちらを男と思っているのだから、余計に弱々しいように見えただろう。
  そんな細い少年に肉を食べろと強引に進めてくるなどと、それではまるで気のいい話ではないか。裏があるのかもしれないと考えても、ならばどういった企みでそうしたのかという具体的な内容が思いつかない。気遣い以外の何があるだろう。
  リョウは男のことを何も知らぬ。追われていることは知っている、そこから繋いで、罪人であろうことも想像に難くない。ではそれ以外はどうだろう? いや、こんな刹那の関係で、相手のことを知る必要などない――のだけれど。
  他人に興味が湧くなどというのは初めてだった。ずっと一人で生きてきたのだから。
  他人は要らなかった。隣人も居なかった。リョウにとっての世界は、自分とその他大勢のどうでもいい生き物の二分割で成り立っていた。
  そんな他人と、食卓を共にしている。同じものを食べて顔を突き合わせている。
  不思議だ。彼は自分を殺すのに。
  なるべく痛みを与えない方法で、自分を殺す。そういう約束をした者なのに。
  相手のことを考え、言葉の意味を考えている時点で、それは興味を抱いていることに他ならぬ。無意識のうちに、リョウは男の動向を思考し、こうして不思議だと感じている。おかしなことだった。なのに不思議と、いやな感じがしなかった。それはきっと、この男がはじめに思っていたよりもずっと、どうやら悪い人間ではないようだと察したから――なのだろう。
  匙を口にくわえたまま、上目づかいに男を観察する。向こうも同じような目をしてこちらを見た。ばっちりと、本日二回目、偶然目が合う。
「何だよ」
  口の中のものを嚥下して、男が云った。
  何だよと言われても、自分自身でもとんと分からぬ。何なのだろう、これは。
  咄嗟にごまかすことを考えたが、リョウは嘘が得意ではない。性と種族を偽ることは長い間してきたことが故に自然とこなせるが、それ以外は全く苦手だ。そもそも他人と会話をしないのだから、嘘を磨く機会すらない。加えて、思ったことをそのまま口に出す傾向が強い。それも無意識に、だ。
「いい人なんだなあと思って」
  結果、今考えていたことを何の衒いもなく口に出すことになった。はあ? と、男が理解不能の声を上げる。
「誰がだ」
「あなたがだよ。食事を分けてくれたり、料理するの手伝ってくれたり。ボクちょっと誤解してたのかもしれないなと思って」
「あんまり手際が悪かったからだ。てめえの為じゃねえよ」
  勘違いするな、と男は目線を逸らせて吐いた。
  その言い草も、態度も、一度見る目が変わってからは照れ隠しのようにすら見えた。もしくは自分のお人よし具合を理解していないのか、いずれにしても彼が根っからの悪人でないことはリョウの中で決定した。たぶん素直じゃないのだ。こんな大きな図体をして、随分とかわいらしいものだとさえ思う。自然と漏れた笑みを浮かべていると、男は視線をちらりとだけ戻して、口の中で何かもごもごと云った。
「何か云った?」
「……何でもねえよ」
「気になるよ、云ってよ」
「うるせえ。べちゃくちゃ喋ンな。っとにてめえの状況分かってねえな」
「分かってるってば。でもあなたの傷が良くなるまでは少しかかると思うよ。その間にお喋りしたって別にいいと思うんだけど」
「昨日めそめそ泣いてた奴の言葉じゃねえな」
「今日はまだ酷いことされてないから大丈夫。それに、もうしないって云ってくれたしね」
  で、何て云ったの?
  逸らされてしまいそうになった本題を元に戻すと、男がぐうと喉の奥で唸った。
  表情から何となく察する。彼も多分、嘘をつくのが得意ではない。リョウは表情に出す前に言葉で吐き出してしまうが、男はまず顔に出るようだ。目を逸らされることがやたら多いので、恐らく隠し事をする時に視線が泳ぐのではなかろうか。今後はそれを注視していれば、彼の特徴がもっとよくわかるかも知れぬ。人間観察というのはなかなか面白い――他人と初めて接する少女は、新しい楽しみを見つけて更に淡く微笑んだ。
  笑顔を見て、男はまた何かを呟く。ぼそぼそと。
「……まともなツラもできるじゃねえか」
  何とか拾えた言葉は、そう聞こえた。
「どういう意味?」
「辛気臭ェツラか泣いてるのしか見なかったんでな」
  笑ったり喋ったり出来るなら最初からそうしろ。男は云った。
  それは男に脅かされたりしていたから浮かべた表情であって、むしろ原因はあなたなんですけど――とは流石に言いづらい。
  しかし、そんなにも顔を見られているとは思わなかった。頭巾で隠していたので注視されても分からない筈だったのに、ということは顔を晒してからこっち、ずっと顔を見られていたのだろうか。寝ている間は表情も変わらないだろうけれど、それ以外はずっと観察されていたなら、どうにももだついた気分になる。恥ずかしいというのはこういう感情のことを云うのだろうか、よく分からなかった。
「あなただって、怖い顔しかしてないじゃないか」
「オレ様はこれが普通だ」
「あんまり似合わないな、と思ったよ、そういう顔」
  ああまたしても思ったことをそのままに。大きな肉の塊を口に入れたまま、男が変な声を出した。
「それこそ、笑ったりとかしたらいいのに」
「こっちは追われて身を隠してんだよ、呑気にしてられるか」
「その追われてるのって、どうしてなの? 悪いことしたの?」
「てめえに話す義理はねえ」
「またそうやってはぐらかす。人にあれこれ言うのに、自分のことは何にも云わないのってずるいなあ」
「うるせえ、調子のんな。始末する時痛くすんぞ」
  その言いぐさがいかにも不貞腐れたそれだったので、リョウは恐怖を感じる代わりにふっと噴き出してしまった。いきなり声を上げて笑い出したリョウに、男が目を丸くする。
「ご、ごめ、だってそんな風に云うからさ」
  リョウは口元を押えたが、くすくすと漏れる笑い声を押え切れなかった。いけない、怒られてしまう。何とか止めようとするが、丸くなった紫の目がまたおかしくて、更に笑いは倍増してしまった。
  また怒鳴られるかと思ったが、男は再び目線を泳がせると、一つ舌打ちをしてから食事を再開し始めた。先程よりも荒々しい手つきで、焼いた肉に付け合せを乗せて一口に口内へ放り込む。
  和やかになって、一度緊張して、また緩んだ空気は今度こそ安定しそうだ。もう食事が入らないほど、身体の中が温まっている。あまり食べていないリョウを男は睨むが、食が細いのでもともとそんなに食べないのだ。それよりあなたが食べてよと促すと、男は無言で、リョウが手を付けた皿を匙で引っ張ってがつがつと食べ始めた。見惚れるほどの食べっぷりを、卓に肘をついて眺めるのが楽しい。
「食べ終わったら、傷、巻きなおそうか。朝から動いたんならその方がいいよ」
  ふと思いついた親切を口にすると、男はもう何も云わず、ふいとそっぽを向くだけだった。
  何とも分かりやすい、それは無言の肯定であった。