【♀】ヒキガネ 01 / I know, don’t know.

踵に纏わる夜の残滓は、扉に辿り着く前に振り落とさねばならない。

 背中に追い縋る切り落とした爪のような月では灯りにならず、バクラは路地裏の暗闇を、黒猫よりも静かに歩んでいた。
 馴染みのコートの袖に鼻を押し付けてみたが、血の匂いはしない。しかし肩を叩けば立ち回りの置き土産に鉄錆と砂埃が舞う。こんな姿で帰宅すれば、妙なところで聡い宿主サマ――了に、あれこれといらぬ勘繰りをされてしまう。
 こんな時間まで何してたの?
 どこにいってたの、服、汚れてるけど。
 ボクに内緒で何かしてるでしょう、お前――などと、そんな言葉を瞬時に指折り数えられる程度には想像がつく。
 本当のことを話すのは、とても面倒くさい。
 コートの内側に隠したホルスターの中身も、バクラがこの街の裏側で何をしているのかも。
 双子の了には何も教えないまま、もう数年が経った。彼女はまっとうな一般人としてありふれた生活を送り、バクラもまた、表向きはそのように。今では片腕と呼んで差支えないあの異国の男、バクラと同じ名前の彼でさえ、とても堅気に見えない外見をしている癖に、日が明るいうちは気のいい一般人の皮を被っている。
 硝煙を纏い、暗躍する夜の仕事。ばれたらひどく厄介だ。
 それはバクラにとっても、了にとっても。
 だから、秘密だ。
 その為に埃を、汚れを、つい数分前に引いた引鉄の感触を、バクラは歩きながら一つずつ拭い落としていく。
 そうして辿り着いた扉の前で、一つ呼吸を吐いた。
 コートの上から胸のホルスターを抑え、ついでに両腰に吊った二丁にもご挨拶。暫くオヤスミ、大人しくしててくれよと愛銃へ呟いてから、ノブを回す。
 鍵をかけろと毎回口が酸っぱくなるまで云っているのに、了は戸締りを忘れる。此度も警戒皆無の軽快な音でもって扉は開き、何の代わり映えもない日常の部屋がバクラを迎えた。
 午前二時、流石に灯りは落としてある。出しっぱなしのミネラルウォーターのボトルが汗をかいたままぬるく温度を変え、オーク材のテーブルに水たまりの染みを作っている。恐らく了がレンタルビデオ屋で借りてきたのだろう映画のパッケージがソファの上に。傍らに毛布が丸まっていたが、そのソファの主たる同じ名前の男は不在のようだ。彼は彼で、夜を駆け回る面倒な仕事をしているのだろう。
 扉を静かに閉じる。眠っているのであろう了に向けて、帰宅を告げるような真似はしない。まずはホルスターを外し秘密の隠し場所へ。それでも有事の際に役に立つ薄刃のナイフだけは尻のポケットに収めたまま。
 コートを脱いで、ジャケットを脱いで。括っていた髪を解いて。
 それで漸く、バクラは一般人に着替え終わる。
(ああ、面倒くせえ)
 思わず舌を打った。毎回毎回こそこそと、まずで天井裏のネズミのように足音を潜めなければならないなんて。
 そんな風に忌々しく思いながらも、了にこのことを隠すと決めたのは他ならぬバクラ自身であるから笑えない。いっそ全て曝け出してしまえばこんな真似をしなくていいという左皿、暴露の後に降りかかる厄介ごとは数えきれないと頭を抱える右皿。天秤は今宵も平衡を保って、どちらをもバクラに選ばせない。
 まあいい、寝て起きれば気分も晴れよう。日が昇った後、太陽と人目にさらされるあの路地裏の生ゴミのおかげで、朝の市場は忌々しいほど賑やかになるはずだ。そうしたら了に買い物に行かせて自分は惰眠を貪ればいいのである――などと。
 ぶつぶつ口の中で呟きながら、バクラは寝室へ向かう。
 格子窓の際に設えた安いパイプベッドとナイトテーブルしかない部屋。そのベッドの上で、シーツにくるまった了が寝息を立てていた。
「……この野郎」
 施錠同様、何度文句を云っても――状況によっては身体に直接、性的なお仕置きしてまで云い聞かせても――了はベッドのど真ん中で眠る。夜の仕事を終えて戻ったバクラに寝場所はない。枕を抱きかかえ、白いシーツの海の主は自分ですとでも云わんばかりに、それはそれは気持ちよさそうに眠る。
 一度、叩き起こして退けと怒鳴ったことがある。隅に寄れてめえだけのベッドじゃねえんだと目を三角にして云ってやったのだけれど、
『夜遅くに帰ってくる方が悪いんじゃないの』
 と、じっとりした目で突き返された時、これ以上は藪蛇だと黙ってしまった時点でバクラの負けだった。
 今宵も了は真ん中で、夜に相応しい穏やかな寝顔を晒している。
 叩き起こす気もなく、バクラの辛うじて空いた隙間にぐったりと腰掛けた。
(――人の気も)
 知らねえで。
 間抜けな寝姿を見下ろし、バクラは鼻を鳴らす。
 格子窓の向こうの月は細すぎて灯りにならない。代わりに、通り路地の街灯が黄色い光を放っている。その光が格子で長方形に区切られて、どこもかしこも白い了の上へ影を落としていた。
 まろやかな肩、細い首、ささやかに膨らんだ乳房の丸みに沿って変形する影は蛇のようだ。妙になまめかしくさえ見える。
 長く垂らした髪の所為で普段は見えない、形の良い貝のような耳がバクラの視界を奪う。
 その小さな耳朶に噛み痕でも残してやろうか――そんなことを考えていたら。
「おかえり」
 桜色の唇が、言葉の形に動いた。
 視線を上げると、長い睫と薄い瞼の向こうに隠されていたはずの瞳がバクラを見上げていた。
 薄闇の中では緑色にも青色にも見える、まるで曖昧な硝子玉。
 少し眇められたのは、笑ったからだ。
「狸寝入りかよ」
 ならば遠慮することはない。ギイと大きな音を立ててバクラはベッドへ体重を掛けた。そのまま了を押しのけ安眠の領土を手に入れようと、もう片手もベッドに下ろす。
 了はその様を、じっと見ていた。
 今にも何かを問いかけて来そうな唇。
 バクラは内心舌を打つ。思いつく続きの言葉――こんな時間まで何してたの? どこにいってたの、服、汚れてるけど。ボクに内緒で何かしてるでしょう、お前――が、飛び出す前に塞ぐのが得策か。されど、セックスでごまかす元気も、今宵ばかりは残っていない。こちとら大立ち回りを演じてきた身、さっさと眠りたい。休みたい。
 一瞬の逡巡は、了に続きを吐き出させるには十分な間だった。
 白く細い指が、前屈みになるバクラの髪の房に触れる。さり、と梳いて、更に瞳が細くなる。
 ――そうして、笑って、

「火薬のにおい」

 するね、と。
 からかうような、咎めるような、そのどれでもないような。
 瞳と同じ曖昧な声で、了は一言、そう云った。
 咄嗟にバクラは押し黙る。バレた? だとしたらこの場で最も良い選択はどれだ。しらばっくれるかぶちまけるかこの場から離脱するか――頭の中で天秤が揺れる。
 それすら秒には満たない時間だっただろう。了はそれきり何も言わず、意味深な笑みを浮かべたままごろりと寝返りを打った。
「やど、」
 宿主――そう呼びかけて、バクラは了の肩を掴もうとしていた手を止めた。
 シーツと髪に埋まった小さな顔は、再び眠りについている。今しがた喋っていたのが嘘なのではと疑いたくなるくらい、狸の欠片も見当たらない、それは見事な寝顔だった。
 ひょっとしたら了は寝ぼけていたのかもしれない――明日になったら、覚えていないかもしれない。
『火薬のにおい、するね』
 そんな言葉を吐いたことなどすっかり忘れて、昨日いつ帰ってきたの、なんて云うのかもしれない。否、多分そうだろう。演技でも、真実でも、恐らく了はそうする。断定的にバクラはそう思った。
 きっと了は待っているのだ、バクラがバクラの意思で、暴露する時を。
「……ンだよ」
 だったらコソコソする必要もなかったんじゃねえか。
 決まりが悪く、バクラはがしがしと後ろ頭を掻いた。ばれないように、秘密であるように、埃も返り血も浴びぬように立ち回っている自分はまるで道化だ。
 それに匂いだなんて、そんなものに気が付くとは予想外にも程がある。人一倍五感が鈍い了である、残り香程度の微細なものに気づかれるとは思っていなかったのだ。
「……アホくさ」
 途端にばかばかしくなって、ばたん。スプリングがばかになったベッドの上へ、バクラは乱暴に横になった。了が寝返りを打った分だけ空いたスペースに辛うじて収まるが、片足は落ちたまま、ついでに靴もそのままだ。
 もう面倒くさい。詮索も秘密も。
 バレているのかもしれないけれど、今暴かないことで今後もっと厄介なことになるのやもしれないけれど――肝心の了が何も云わないのだから、いいのだ。
 今だけは何もかも全部、片足にひっかかった靴と一緒に脱ぎ捨てよう。
 今宵はとにかく、とりあえず。
 柔らかな抱き枕を抱え込んで眠るのが正解、と、バクラは己に言い聞かせることにした。