【♀】ヒキガネ 03-01 / One eye dog.
それは、まだ彼と彼と彼女が出会う前まで遡る。
空から針が降ってくる。
痛まぬ場所など身体のどこにもない。水滴ひとつ触れるだけでも痺れるような痛みが走る。見上げたというより首を上に向けたまま微動だにできない男の目に、口に、雨は容赦なく降り注いだ。
こめかみから垂れる水の筋が不愉快で、それを拭いたい。
持ち上げようとした手は、わずか指先を震わせ、それだけだ。
「――……、…」
何か、云いたかった。
言葉は生まれず喉で死んだ。
褐色の肌を這う水は男の顔じゅうの傷から溢れる血液を吸って、唇へと至る時には塩辛くなっていた。
ああ、おれさまはここでしぬのか。
ぼんやりと、灰色の空を眺めて、男は思う。
数日間何も腹に入れていない胃は、それでもまだ熱く煮えているのに。臓腑は憎しみで膿んで燃えているのに。それなのに、もうこの手は得物を握ることも出来やしない。
漫然と、死を思った。そんなに軟な精神をしていないと自覚していたけれど、家族のように自分を愛してくれたファミリーが全滅した時、男の心は一度折れていたのだ。二つに分断された心を、いままでどうにか繋ぎとめていたけれど――所詮急ごしらえ。幾夜も追われ、狙われ、応急処置はいつしかすり減って、そしてとうとう、いま、最期の時を迎えようとしていた。
路地裏のゴミ捨て場。墓標は誰かが不法投棄した長細い木材。
ちくしょう、ちくしょう。何度もつぶやいては奮い立たせようとした精神も限界だった。
男は目を閉じる。頬の深い傷が痛むが、それもやがて消えるだろう。魂と共に。
ヒトから生ゴミへ。しょうもない幕の終わり。
嫌だ。
死にたくない。死んでなるものか。
男は足掻く。身動きひとつとれずに、それでもなお生にしがみ付いた。
そんな時――じゃり。
雨音以外が、不意に響いた。
閉じる寸前のその紫の瞳に、革靴の先が映り込む。
靴の主は、スーツ姿にゴミの袋を下げ、傘を下げて男の前に立って居た。
「生ゴミの日は今日じゃねえぞ」
◆
ざあざあと降る雨が窓硝子に小さな滝を作っていた。
やっぱりバクラに行かせて正解だった、と、了は暖かい部屋の中で一人頷く。フラットから指定のゴミ捨て場までは少しばかり距離があるのだ。この土砂降りの中ゴミを捨てに行く気などさらさらなくて、されど我がフラットにゴミ袋を放置しておく気にはならない。巨大な廃棄物をどうにかしたいと思っていたのがつい先ほどのこと。
丁度仕事から帰ってきたバクラは傘を忘れたらしく濡れていたので、これ以上濡れても変わらないだろうと、靴を脱ぐ前にゴミ袋を差し出した。バクラはうんざりとした顔で「疲れてんだよ」と文句を云いながらも、今開けたチョコレート色の扉を開き再び雨の中に取って返した。
(何だかんだで、お願いはきいてくれるんだよなあ)
くふ、と忍び笑い、了は思う。
双子のバクラはお世辞にも良い性格をしてはいない。世辞どころか非常に性悪な男だ。人の嫌がることは進んで悪い方に実行するし、とにかく意地が悪い。物心ついた時からずっとそうだ。
それでも了には、たぶん、優しい。
少なくとも了本人がそう認識しているのだから、彼と彼女の間ではそれが正しいのだろう。
(帰ってきたらあったかいシチューを出してあげよう)
キッチンでくつくつと音を立てるオレンジ色のホーロー鍋もそうしろと云っている。帰って、出て行ったのはもう二〇分も前だ。そろそろ玄関の扉が開くはず。
熱々の湯気で迎えてやるか。いや、タオルを持って待っていた方があいつは喜びそうだ。そのままシャワーに向かうかもしれない。今日は機嫌の良い了である、ごはんかおふろかそれともボク? とかいってからかってやろうか。まず確実に押し倒されるだろうけれど。ああそれならキッチンの火は切っておいた方がいいな――
かちゃん。
そんなことを考えていたら、案の定ドアノブが回った。
「バクラ。帰ったの」
ソファから飛ぶように立ち上った了は、向かいがてらバスルーム前の籠に積み上がったタオルを引き抜きバクラを迎えた。
バクラは玄関の扉を半分開き、不自然に身体を半分外へ出したまま、おう、と答えた。
「……何してるの?」
「ちょっとな」
と云いながら、彼はなかなか動こうとしない。
その表情に、何かを隠しているような、されど隠し切れていないようなニュアンスを見つけた了は、ははんと腕を組んだ。
「何か隠してるね」
「……」
「お前って都合が悪いと黙るよね。で、なに? 怒らないから云ってごらんよ」
「……あー」
バクラは面倒くさそうに溜息を付く。そして、恐らくは扉の向こうにあるのであろう何かをちら、と見た。まじまじと眺め、それを何と説明しようか迷っている様子だ。
「宿主よぉ」
「ん?」
「てめえ、犬とか好きか」
「犬? 嫌いじゃないけど……あ! わかった!」
犬拾ってきたんでしょう!
ぱんと手を叩いて、了は正解を云い当てた笑顔を浮かべた。
なるほどなるほど、さっきからやたらと隠しているのはそれか。大方ゴミ捨て場か何かに、木箱に捨てられた子犬を見つけてしまったのだろう。動物好きだとは知らなかった、きっと雨に濡れて見捨てられなかったんだな、何だいいとこあるじゃないか――バクラらしくない優しさを了は嬉しく思い、けれどそれを表情には極力出さないように、笑顔のまま眉を下げてまったくもう、と呆れた様子を演じてみせる。
「やることが急だなあ。でも持ってきちゃったものは仕方ないよね。いいよ、つれておいで。ずっとそんなとこにいたらお前も犬も風邪引いちゃう」
正直動物はそこまで好きではなかったけれど、バクラが分かりやすい人間らしさや憐憫を表したことが嬉しかった。了はくるりと踵を返し、もう一枚必要になるであろうタオルを取りにバスルームへ向かった。
家族が増えるのはいいことだ。親のいない双子はいままでずっと二人だけで生きてきた。了を働きに出すことをことさら嫌がるバクラは早くから何か仕事を始めていて、了はずっと家を守っている。あまり出歩くなとくぎを刺されているので、室内にいることがうんと多いのだ。その時間を暇だと常々思っていた。犬がこの家に来るなら、その退屈もきっと紛れるだろう。
名前は何にしようか。
存外にわくわくとしながら、了は二枚目のバスタオルを胸に抱えて玄関へと戻る。
そこには濡れたバクラと、それ以上に濡れた犬がいた。
犬というより、大型獣というか、なんというか――
「……へ?」
バクラが拾ってきたのは、ずたぼろに汚れて傷だらけの、獣みたいな男だった。
「………」
「………」
「バクラ」
「あァ?」
「なんで犬好きかとか聞いたの……」
「犬みてえなもんだろ。ほとんど」
「どっからどう見ても人間だよ! なんなのどういうことなの!」
ぎゃんぎゃんと文句を云う、了の方がまるで小型犬のようだった。
とはいえ一度引き入れてしまったものをたたき出すわけにもいかず、「手伝え」の命令で了は渋々、得体の知れない男をバクラと二人がかりで部屋の中へと運び込んだ。
意識を失っているらしい彼の為にバスタオルが三枚ほど犠牲になり――洗っても一生落ちないレベルの汚れに染まってしまった――救急箱の中身をほとんど使い切る形で傷の手当てをする。全身が傷だらけで、ことさらひどいのは右頬を縦に割った傷と、その傷を更に横向きに割いた傷だった。消毒し、ガーゼを当ててもすぐに血が滲んでしまう。全身の手当が終わる頃にたっぷりと赤い色彩に染まってしまったそれをもう一度取り替えている間に、バクラはシャワーから出てきて冷蔵庫から出したビールを飲んでいた。自分で連れてきた癖に、手伝いの一切をしなかったのである。
全てのことに結構な時間がかかり、時計の針は帰宅から三時間以上経過していた。
「説明してよ。一体どういうことなの」
包帯まみれの男に、了は仕方なくお気に入りの毛布を掛けてやる。規則正しくとはいかないが呼吸の形に上下する胸を確認し、了はバクラに向き直った。飴色の天井で回るシーリングファンが火を止めてもなおよい匂いを漂わせるシチューの湯気と血と消毒液の匂いを混ぜ、なんとも不快な空気だった。
そんな空気の中でも平然と、濡れた髪を拭いながらバクラは目を細める。ビールをもう一口。未成年の癖にすっかり酒癖がついてしまった。
「拾った」
「それは見れば分かる。なんで? 知り合い?」
「いや、全然知らねえ奴。役に立ちそうだから拾ったってだけだ」
「役にって、何の」
「仕事」
疲れているのだろう、バクラは端的な言葉だけで答え、了の欲しがる順序だった説明を寄越してくれない。
大体、バクラがしている仕事のことだって了はさっぱり分からないのだ。昼夜を問わない仕事であること、随分の金の入りがいいことしか知らない。何度聞いてもはぐらかされるので、次第に了もそのことを問い詰めるのを止めていた。
その正体不明の仕事に、この男が役に立つとバクラは云う。詳細を聞き出したいけれど、きっとバクラはまたはぐらかすかだんまりを決め込むかのどちらかを選ぶはずだ。
了はちらりと、昏睡する男を横目で眺めた。
肌の色は自分達とは全く違う褐色。髪の色は、最初見た時は泥色だったけれど拭ってみたら白に近い灰色だった。彫りの深い顔立ちは異国のそれで、見慣れない雰囲気を醸し出している。年齢はよく分からない。自分達とそう変わりが無いようにも、随分年上にも見える。
眠る顔に表情はなかったけれど、どこか辛そうだった。
この街の治安は決してよくない。それどころか劣悪と云っていい。喧嘩や抗争は日常茶飯事であるし、たまに銃声が聞こえたりもする。怪我人が道端に転がることも少なくない。そんな街だから、こういった傷だらけの人間を見るのが初めてというわけではないのだが――その表情はあまり目にしないほど痛烈だった。
昏睡して尚、握りしめたままの拳は無意識で時に震えていた。
きっと何かあったのだろう。
トラブルを持ち込まないでほしい気持ちと、捨て置くのも非情な気がしてどうにかしてやりたい気持ちが両方、了の心で揺れている。
だが、了が何と思おうと、バクラの決めたことならば覆せるはずはないのだ。
自分はバクラに守られて生きている。云うことを聞くのが、ずっと昔から当たり前だった。今もきっと、そうだ。
ふう、と、了は溜息を付く。
「……分かったよ。お前の好きにしたらいい」
「最初っからそのつもりだけどな」
「かわいくない。ボクもう疲れたから休むよ。シチューがあるから適当に食べて」
そっけないバクラに背中を向け、了はのろのろと寝室に向かう。
扉を開く前に一度振り返り、
「好きにしてとは云ったけど、知る権利はあるんだからね。その人のこと、また明日じっくり聞かせてもらうから」