【♀】ヒキガネ 06-03 / LadyPanther and WhiteKitten.

石畳の上を歩く足が二人分。
 一つは了の小さなスニーカー、もう一つは盗賊王の大分痛んだショートブーツだ。形の違うそれらは奏でる音も違う。ぱたぱたと軽い了の足音は小刻みに、鉄板が仕込まれた安全靴はごつごつと大股に。個性的な音色は彼らだけではなく、すれ違う沢山の人間の笑声や所狭しと並ぶ店先から漏れる音楽、そういったもので街は溢れている。週末、日の落ちたメインストリートは今宵どう遊ぶか浮足立っている人々でいっぱいだ。
 了もまた、そんな人々の中に紛れて、ご機嫌な横顔を晒している。
「機嫌いいなあ、了」
「だって、バクラが出かけていいっていうのなんて久しぶりだからさ」
 きゅ、と靴底で高い音を立てて振り返った了は、満面の笑みを浮かべていた。
 最近物騒だ、とバクラが一人呟いていた様子を、盗賊王は思い出した。表向きは何の問題もない、ありきたりで平和な毎日――ただ、彼のボスは何かを嗅ぎつけているらしい。夜ごとの荒事に、そのはざまの平穏にさえ。
 視界の端をすっと横切る影のようなものか。そちらを向いた時には何もない。だが確実に歩み寄る不穏な気配。それ故にバクラは了の夜間外出を禁じ、昼間さえ、どうしても必要な時以外に外に出すことを嫌がった。それは愛情として判断すれば砂を吐きそうな甘さで、しかしそうではないことを盗賊王はよく知っている。マフィアの情婦――少なくとも了の存在が知られたなら確実にそう判断されるだろう――など餌以外の何物でもない。
 守る為、足枷を作らない為。どちらなのかを彼は言葉に出さない。きっと両方だろう。
 そんなバクラが夜の外出を許したのは、了がどうしても出かけたいと駄々をこねたからだ。普段噛み付かない了が妙に意地を張って外に出るのだと主張して、それで見張りにつけられたのが盗賊王である。
「なあ了」
「なに?」
「なんでそんなに出掛けたがってんだ?」
 家を出た時からずっと気になっていたことだった。日が落ちても温かいと感じるようになった季節、適当に羽織ってきたモッズコートにポケットを突っ込んで盗賊王は云う。
「あいつが外出るなっつってんの、分かってんだろ」
 すると了は悪びれもせず、くすくすと笑って見せた。
「どうしても欲しいものがあったんだ。無くなっちゃったら、困るから」
「なんだそりゃ」
「バクラには秘密にしてくれる?」
「おうよ。安心しな、オレ様は口の堅い男だぜ」
 おどけた言葉に、青い目が楽しそうに細まる。あのね、と動かす唇が小さく愛らしく、思わず顔が緩んだ。
「マグカップ」
「マグカップ?」
「この前二人で隠してた、ボクの」
「あァ――」
 あの大変おいしい夜のアレか、と盗賊王は頷く。
 盗賊王が割って、バクラが隠して、了が見つけた。結局はなし崩しの楽しい夜のお遊びをして、それで終わった事件である。
「青いヤツか」
「そう。あれね、あんまり売ってないんだ。雑貨屋さんで二個セットになってるのを片方買ってきたんだけど、もう一個、残ってたはずだから」
 だから大急ぎ!
 了は可愛らしく指を立てて見せた。
 盗賊王にはいまいち理解できない。マグカップなんぞ究極水が張れる器ならば何でもいい訳で、彼にとっては鍋でも深皿でも大差ない。急いで買いに行く――それもバクラの反対を押し切ってまで――ようなものでは到底ないと思えるのである。
 しかし相手は子供っぽくとも年頃の女。何か他人には分からないこだわりでもあるのだろう。なればそれくらい汲んでやってこそいい男である。我儘くらい聞いてやろうではないか。
「その雑貨屋ってな、どこにあるんだ」
「もうすぐそこだよ。小さいお店でね、ビルの二階にあるの」
 ほら、と指さした先に、こじんまりとした煉瓦造りのビルがあった。見上げてみると、出窓に雑貨なのか何なのかよく分からない商品がごちゃりと並べられているのが分かる。
 一階は飲食店らしく、二階に向けて急勾配の階段が鋭角に伸びていた。階段の脇にはこれまた控えめな、亀のような生き物のシンボルが描かれた雑貨屋の看板。それによると閉店は十九時らしい。シャッターが閉まる時間は間近だ。
 盗賊王の隣で了が、大変だと手を叩いた。
「早くしないと閉まっちゃう! ほらバクラ、いこ!」
「いこ、っつったって……クソ狭ェなこの階段」
 背が高く筋肉質な盗賊王の身体では些か難儀なほど、階段は狭かった。おまけに一段一段の端っこにまで商品が陳列されているので、踏みつぶさないように進むのが難しい。うっかり壊して弁償しろなどと云われるのは御免である。
 じれったい動きに了は少し悩み、そして、三段目を踏みかけた盗賊王の肩をぐいっと押した。
「ここで待っててよ。ボク買ってくるからさ」
 と、云われても、盗賊王はすぐさま応とは云えない。
 役目は了の護衛である。バクラが苦虫を噛み潰したような顔でそいつから目を離すな、と云ったのだ。ボスの横顔で命ぜられたことは、たとえどんなにばかばかしいことでもきちんと遂行するのが部下の勤めである。特別ロウの緩いゾーク・ファミリーでも、こと了に関連する命令は絶対だった。鬱陶しい、考えすぎたと盗賊王が指摘しても、バクラはこの過保護染みた警戒を止めない。或いは過去に何かあったのだろうか――と、こういうのを下衆の勘繰りと云うのか。
 盗賊王が軽く悩んでいると、了はほらほら、と、彼を階段の下にまでおしやってしまった。足元の鉢植えを蹴飛ばしそうになって、慌てて足を退ける。
「階段昇れても、お店の中はもっとごちゃごちゃしてるよ。バクラが入ったらお店が崩壊すると思う」
「なんだそりゃ」
「一歩歩くごとにいろんなものにぶつかっちゃうってこと。大丈夫、すぐに戻ってくるからさ。外で煙草でも吸っててよ」
「そりゃあまあ、ありがてえけどよ……」
 フラット内で煙草を吸うと、了は嫌な顔をする。アーク・ワイルドカードはヤニ臭さに交じって特有のコーヒーのような匂いがするので好きではないそうだ。そういう理由であまり紫煙を味わえない盗賊王にとって、大変嬉しい申し出ではある。だが目を離す訳には――と云っている間に、了はひょいひょいと小柄な身体で階段の角まで昇ってしまっていた。
「おい、了」
「あ、そうだ。はいこれ」
 と、角から頭だけを出した了が、アンダースローで何かを放ってくる。反射的に受け取ると、手のひらに収まるくらいの大きさの携帯灰皿だった。
「お店の前に灰落としたりしちゃ駄目だからね」
「なんでこんなモンもってんだ」
「ヘビースモーカーな誰かさんにあげようと思ってこの前買ったんだけど、渡すの忘れてた」
 にっ、と了は笑って、そして手を振る。すぐ戻ってくるから! そんな元気な声と共に、翻った長い髪は階段の向こうへ消えた。
 残された盗賊王は携帯灰皿を手に、溜息を吐く。
(……まあ、何もねえだろ)
 この辺りは危なっかしい組織の息がかかった店も少ない。中央に近い所為か、怪しげな看板を出している店の方が少ないくらいだ。第一そう云った連中はメインストリートに店を構えない。
 一応ビルの裏側を覗くが、特に怪しいものはなかった。非常階段があるにはあるが、長いこと使われた様子もない。古い鉄錆と夥しい蜘蛛の巣を視認して、盗賊王は店先に戻った。
 手渡された携帯灰皿を見る。銀製らしくずっしりと重たく、何故か可愛らしい青と白のストライプの柄がはいっていた。どう見ても女物である。
 うわダッセェ、と、思わず盗賊王は一人呟いた。だが了がくれたものである、惚れた男の情けなさか、そう邪険にも出来ないのが悲しいところだ。
 仕方ない、云われたとおりに待つとするか。
 盗賊王は赤煉瓦の壁に寄りかかり、愛らしい携帯灰皿を手に紙巻き煙草に火を点けた。
 フィルターまで吸い終っても、了は戻ってこなかった。
 

 バクラは誰も居ないフラットの玄関に立って居た。
 灯りはついていない。ただがらんとしたもぬけの殻の、見慣れた室内。
 そうだ、了は出掛けていたのだ。どうしてもと云って聞かなかったから、渋々認めてやった。丁度こちらも出かける用事があったので、暇そうにしていた盗賊王を護衛につけさせた。
 ほんの一時間で帰ってくるからと云って。
 夕飯はポトフだからと笑って、了は手を振り出掛けて行った。
「――あのバカ」
 憎々しげな声は誰に向けて呟いたのか。それはバクラ本人にすら分からない。
 手の中には手紙があった。帰宅した際、玄関のドアに挟まっていたものだ。中身を改めた今、封筒は捨てられ、床の上に影を作っている。
 手紙には書かれていたのは、場所と時間。
 そして見慣れた綺麗な白い髪が一房、添えられていた。