【♀】ヒキガネ 06-02 / LadyPanther and WhiteKitten.

深海のように深く、決して乱れることのない紅色の瞳。
 オートクチュールのダーク・スーツは見る者を感嘆せしめる見事な仕立てであったが、彼女自身から発せられる眩いばかりの美しさ引き立てる為の添え物ににしか過ぎなかった。
 神掛かった、という表現が何より似合う。まさに完璧な美貌を誇る、イシズの横顔。
 凛々しい眉は報告書の全てをゆっくりと読み終えた今でも、欠片も揺らぐ様子がない。ただただ穏やかな凪の海を思わせるその瞳が文字列から持ち上げられた時、執務机の前で背筋を正していたリシドは小さく唾を飲んだ。
 マリクの命で秘密裏に行われた、ゾーク・ファミリーとのいざこざと身辺調査。
 その報告をイシズに告げるべきかどうか、彼は悩んだ。姉上サマには内緒でなぁ、と念を押したマリクの表情は明らかに愉快犯のそれで、悪い癖が出たものだと一人頭を抱えたりもした。
 イシュタール家の当主、ナム。
 あまりにも若く、あまりにも脆い主。
 影ながら見守り、決して手や口を出してはならないと分かっていても、悩む姿ばかりを目にすれば胸が痛む。何とか癒して差し上げられたらと思っても、リシドが出来ることは彼女が少しでも心休まるように身辺を整えること、好む食事を用意すること、その程度だった。
 そんな中、苦痛の最中でもがくナムの為だとマリクが命じた、内密の指令。
 マリクは半分楽しんで、半分心配している――そう思いたかった。長く仕える身、つかみどころのないマリクはとかく邪悪な嗜好を持ち合わせていたが、ナムを大切に思っていることは知っていたからだ。
 有能なスナイパーであると同時に隠密行為の訓練を受けたリシドは、ことの正否に迷いながらも、ナムの為と思い行動した。命令の通りに調査を行い――そして結局、真相がナムに伝わることはなかった。
 それが本当に、真実ナムの為になるのかどうか、リシドには判断できない。
 ただ、あのままなかったことにすべきかどうかだけはどうしても躊躇われて、そうして彼はイシズに、全てを報告することを決意したのだった。
「ことの次第は分かりました」
 とん、と書類を整えて、イシズは云う。
「私が直接関与すべきことではありません。グールズ・ファミリーはあの子の管轄ですから」
「しかし、イシズ様」
「貴方の気持ちはよく分かっています。
 ――リシド、忘れてはいませんか。あの子はイシュタールの党首なのですよ」
 イシズの言葉は、冷酷とさえ表現してもいいほどに淡々としていた。情という言葉を裏側に隠し、血族としての絆を甘さに変えることの無いよう、己の心を深き海に沈めている。
「この程度のことで心を乱すなら、この先、党首として一人で立つこともままなりません。私達は家族ですが、同時に組織の一員です。過度な手出しは無用ですよ」
 そんなことはリシドにも分かっていた。それでも何か云わずには居られない。ゾーク・ファミリーに侮辱されたままでよいのかということも含めて。
「……私は御家に絶対の忠誠を誓いました。イシズ様がそうおっしゃられるのなら、そのように致します。ですが」
「そうですね、誇りは取り戻さねばなりません。ですから」
 美しく磨かれた五指の爪先が、書類をとん、と再び机で正す。そうしてイシズは、数枚の書類の束をリシドに向けて静かに差し出した。
「こちらの資料は、いつものように機密情報として納めておきなさい。そうですね――党首管理の書架が良いでしょう」
「そのようなことをしたら……!」
「無論、早々にあの子に知れましょう。そして何がしかの行動を起こすでしょう。
 そろそろ決断せねばなりません。あの子がこの先も党首として立つに相応しいか否か」
 飽くまで冷たく言い放った、その言葉はリシドの背中をまっすぐに突き上げる衝撃となった。戦慄と表現して差支えない、稲妻に似た一撃だった。
 イシズは長姉として、組織を補佐する立場として、ナムの行動を見極める役を担っている。それは一族どころかイシュタール・ファミリー全体に知れていることであり、ナム自身も厳しい目で監視されていることを理解していた。
 判断を、指揮を、イシズは常に監視している。先代を『不幸な事故』で亡くし若い時分から党首として立たねばならなくなったナムを、彼女はずっと見守り、見定め――そして遂に、その結論が導き出される時が来たのだ。
 冷たい汗が頬を伝う。汗は滴となって、リシドの襟に染みた。
「……もし、もし万が一、彼の方が統率者として適正ではなかったとしたら、どうなさるおつもりなのです」
「その時は私が代わって、イシュタールを守りましょう」
「そうではなく、あのお二方の処遇は――!」
「慎みなさい、リシド」
 凪の海が氷に変わった。
 紅色の瞳は途端に刃に変わる。鋭い視線がリシドに突き刺さり、何も言えない彼の背中で、窓の向こうの木々が揺れる。風が強く窓が微かに鳴り、そんな些細な音さえ響くほどの静寂がしんと部屋を満たした。
 痺れるような沈黙。握った拳を開くことも出来ない。
 イシズはゆっくりと、美しい唇を開いた。
「全て分かっていて、歳若いあの子を党首にしたのです。私が補佐として傍に付き、全ての情報と状況を漏らさぬように把握しているのは何の為です。
 有事の際には私がとって代われるように、たとえ億分の一の可能性でも、イシュタールを没させることの無いように取った処置ではないですか。あなたはそんなことも忘れてしまったのですか」
「……申し訳、御座いません」
「あの子はとても未熟です。いつまでも子供ではいられない。成長を止め育つことを放棄したのなら、そのような党首は不要です。
 我らは墓守、死と秩序の上に立つ者。ゆめゆめ忘れてはなりませんよ」
 これ以上云うべきことは何もない――とでも言いたげに、イシズは静かに目を伏せた。
 仕えるべき一族の長がそのような態度を取ったなら、リシドはただただ辞するしかない。胸の内にもやもやとした云いようのない不安を抱え、それでも命ぜられるままに動くしかない己が身を、彼は初めて口惜しいと思った。

「――私も、非情になり切らねばなりませんね」

 リシドが去った部屋の中、イシズの物憂げな声音は誰にも聞かれることはなかった。
 

「いつぞやと逆だなァ」
 ――と。
 習慣で音も立てずに回廊を歩くリシドの背に、マリクの声が被さった。
 声がぶつかる、でなく、肩からずるりと圧し掛かるようなそれは、彼が何やら悪事を秘めている時特有の重さと湿度を持っていた。長くイシュタールに勤めるリシドでさえ、不意に遭遇するとぞくりと悪寒を感じるほどだ。
 しかし無視など出来ようはずもない。振り向いたリシドは、相変わらず緩い服装を纏って腕組みしているマリクに向かって一礼した。
「何か御用でしょうか」
「んン? まあ御用っちゃ、御用だな」
 ゆらゆらゆら。
 マリクの足取りは酔っ払いの千鳥足に似ている。回廊の右側を覆う硝子窓から差し込む光が作る、石造りの床に同じ形の影。それもまた同じように揺れて、リシドの近くでぴたり、と止まった。
 据わりの悪い首を傾げ、マリクはついい、と唇を曲げる。
「お前は秘密を秘密にできないくらい、能無しなのかい」
「っ!」
 リシドの書類を留めたファイルを握る手に、じわりと嫌な汗が滲んだ。
「おっと、言い訳はなしだ。姉上サマのお部屋から出てきたところから見てたんでね、隠すだけ無駄無駄」
 ついでにその手の中のモンも誤魔化さなくていい――マリクはリシドの肩にべたりと掌を置く。温い人肌の筈なのに、何故か焼いた鉄でも当てられているかのようだった。
「複製を渡した時点で何となぁく、怪しいとは思ってたんだ。オレが指示した報告なのに、どうしてコピーする必要があるのか、ってなあ」
「……申し訳御座いません。どうぞ、命令に背いた私を罰して下さい」
「そうじゃない。オレは理由を聞いてるんだけどねえ」
「――」
「まあ、聞かなくたって分かるけどなぁ。主人格サマの為に、お前はその馬鹿正直な脳みそで考えたんだろ? どうしたら主人格サマに一番いいか。本当に秘密していいのか、それが正しいのか。オレみてえな危なっかしい奴の言いなりになっていいのか」
「そのようなことは……!」
「だがお前は判断する立場じゃない。だったらどうする? 決まってる、姉上サマに相談して指示を仰ぐさ。――尤も」
 色よいご命令がいただけたようには見えないけどねえ。
 軽く首を振り、マリクはことさら大袈裟そうに溜息を付いた。
「姉上サマは、何て?」
 これ以上隠し通すことは、従者として不可能だった。否、たとえ従者でなくとも、彼の前で偽りを貫くことは不可能なのだとよく知っている。執拗に絡まる追求は真実を手に入れるまで長く続く。時には、周りの者を巻き込んで。
 沈黙で躊躇うことさえ許されない。リシドは先程の経緯を、進まぬ口ぶりで、それでも偽りなく説明をした。
「なるほどな。姉上サマは主人格サマを試そうって魂胆か」
「私は――命ぜられたままに致します。ですから、この資料は書架へ」
「まあそうだろうね。お前は他にやりようがないし、姉上サマの命令は絶対だからな。
 ――ん」
 と、俯いているリシドの目の前に、マリクの片手が差し出された。
「……何でしょう?」
「オレに寄越しな」
 その手の中の物を寄越せ、と、マリクは命じていた。
 リシドはちらりとファイルを見る。ラベリングもされていない唯の黒いファイルだ。
 先日の揉め事の真相とゾーク・ファミリーに関する資料、その原本。マリクが粉々に破いたコピーは既に塵として灰になっている。これ以上の複製をしていないのだから、渡してしまえば存在の有無さえ有耶無耶になろう。――イシズの命令が、リシドの中で響く。
『党首管理の書架』に格納しておけと、彼女は云った。
 いずれ知れましょう。そうも云った。
 知らなければ、何も起こらない。見つけなければ――ナムがこれを見つけなければ、自然とそうなったなら、波風など一つも立たないのだ。
 リシドが調べた真実が、ことによってはナムの運命を変えてしまう。
 そのことに、今更ながらリシドは戦慄した。今までどんな内容の調査も冷静にこなしてきた彼だったが、それらの矛先は全てイシュタールではなく外部に対してのもので、仕える家の害にはならぬものだった。
 今回は違う。この情報は、ナムを破滅させる可能性を秘めている。
 だったらいっそ、イシズの命令を違えてでも――いや、これをマリクに渡して、彼がこの資料を人知れず破棄してはくれないだろうか。そんなことまで一瞬、考えてしまった。愚かしい妄想だ。主に背いてはならない。ファミリーのボスはナムでも、イシュタール家という一族の長は、彼が仕える家の頂点に立つ者は、イシズ一人なのだから。
 けれど、しかし――
「ほら、早く」
 懊悩するリシドに、ずい、と、マリクが脅す仕草で詰め寄った。
「いいから寄越しなよ。勿論勝手な真似もしねえ、姉上サマのいうとおりにするさ。
 主人格サマの目につきやすいようにしておけばいいんだろ? それがお前に下された命令で、お前もそれを望んでる。主人格サマが試されるのを」
「違います、私は!」
「逆らうのか従うのかどっちかにしな」
 マリクはもう笑っていなかった。面でも代えたかのように剣呑な、イシズとよく似た瞳の刃に動きを封じられる。尤も、あの紅色にはない邪悪さがたっぷりと含まれた刃であったが。
「リシド、お前はイシュタールの犬だ。黙って云われたとおりにすればいい。
 それとも、お前のせいで主人格サマがどうこうなっちまうかもしれないのがそんなに怖いのかい」
「そ――」
「そいつはおかしいねえ。お前は犬だろう? 人間サマのように責任を感じるのはとんだ筋違いだ」
 己の命令が素直に実行されないことに、マリクは苛立っているようだった。故意に汚い言葉を使い、詰る意図を込めてリシドを追い詰める。
 彼の口調は今や滴るほどの悪意に満ちて、まるで喉元に牙を押し付けられたかのような錯覚を受けさせた。ごくりと唾を飲んだなら、その振動で首の皮が裂けそうだ。
 リシドは逆らえない。逆らえるわけがなかった。
 汗が滲んだその手で、彼は手の中のファイルを、マリクに向かって差し出した。
「そうそう、そうやって大人しく云うことを聞いてくれればいいんだよ」
 途端にいつもの、弛緩した生ぬるい顔つきに戻ったマリクがそれを受け取った。まだ脂汗を垂らしているリシドを後目に、ファイルを開き中身を確認。それが先日、自分が読んだ報告書と相違ないものかどうかをチェックしているらしい。
 満足げな溜息と共に、ぱたん。ファイルが閉じられる。
 云いようのない緊張を秘めて黙るリシドに、マリクはひらひら、と、気軽にファイルを振って見せた。
 その表情を占めているのは、あの日リシドが懸念した彼の悪癖――愉快犯の色。
「なあに、主人格サマにはオレがついてる。安心しな」