【♀】ヒキガネ 03-02 / Mad blue, Trigger happy.

ばたりと音を立てて扉が閉まる。
 靴音が遠ざかり、ベッドに倒れる時の空気を含んだ音が微かに聞こえる。
 それから暫し、居間を沈黙がひたひたと占め――了が眠った気配が扉越しに感じられた頃、バクラは寄りかかっていたキッチンシンクから腰を上げた。
 冷蔵庫を開け、瓶ビールを取り出す。指に挟んで、二本。
 一本は自分の手の中に。もう一本をソファに向かって投げると、昏睡していた男の手がぱっと動き、首の部分をしっかと掴んだ。
「狸寝入りが上手いじゃねえか」
 それに、大分回復してやがる。
 ぱきん。螺子蓋を捻ったバクラは二本目のビールを口につけ、にいと笑う。
 男はソファから軋む身体を起こし、投げられた瓶をまじまじと見た。握りっぱなしだった手を漸く開き、同じように蓋を捩じる。飲み出すと中身は半分以上減った。随分と喉が渇いていたらしい。
 一息ついた男は、紫色の異国の瞳をバクラに向けた。警戒と興味の二色を混ぜた瞳を。
「……で、どういう心算だ? 物好きさんよ」
 もう一口で残りのビールを飲み干した男が、ぐっと瞳の力を強くする。声は掠れていたが、生気は取り戻したようだった。
 その目を見下ろし、バクラは先程の――ゴミ捨て場でのやり取りを思い出していた。
 屑に塗れて死にかけた男。手には撃ち尽くした旧式の拳銃と刃こぼれしたナイフ。
 別段この街では珍しくない。木端マフィアの行き倒れなど三日に一度は目にするし、バクラ自身、そういった存在を多く生み出してきた。ティーンエイジャーの若さで区切れば、バクラほどこの街で死傷者を出している者も少ないだろう。
 薄目を開け、辛うじて意識のある男の顔を眺め、見たことが無い奴だとバクラは思った。
 この街の荒くれ者ならば、余程小物でない限り把握している。街の暗部の全てを把握しているといっても過言ではない。頭のデータベースを探っても、こんな風体の男を記憶していないことが不思議だった。ひょっとして抗争とは無関係の人間か。否、この剣呑な雰囲気、抜き身の刃のような危なっかしい気色は、間違いなく同業者のそれだ。
『どこのモンだ。てめえ』
 バクラが問うと、男は唇を開き――口の中の血を吐いてから答えた。
『クル・エルナ……』
『ほう。ってことは、てめえは残党狩りの生き残りか』
 クル・エルナ・ファミリーは、この街でも少しばかり異色の立ち位置にあるマフィア・ファミリーだった。だった、というのは、その存在は既に抹消されたとされているからである。
 もう数年前のことだ。クル・エルナ・ファミリーは、街を実質的な形で支配しているファラオ・ファミリーとの抗争で徹底的に潰された。
 彼らは嘗てファラオ・ファミリーの一員であったが、集団で掟を破り別の組織を作り上げた。異国の者、何か悪さをやらかし身を隠さねばならない者、他のファミリーを無断で逃げ出した逃走者、そういったならず者たちをかき集めてまとまったファミリー。それがクル・エルナである。
 同じ街の中での分離。それでもしばらくの間、組織は上手く棲み分けていた。だが所詮はその場しのぎの平穏――二つの組織の間でついに勃発した抗争は、クル・エルナ・ファミリーの崩壊という形で蹴りがついた。残党狩りが年間単位で長く続き、それも落ち着いたと思っていたが、目の前の男の存在が、完璧でなかったことを伝えている。
『無様に生き永らえてたのも限界ってか? 随分とまあ、惨めな恰好じゃねえか』
『……』
 男は喋らない。喋る気力もないだろう。
 バクラは雨の中ことさら足音を立てて進んだ。
 その脇に、了から押し付けられたゴミ袋をばさりと投げ捨てる。泥水が男の顔に掛かった。
 意識も胡乱な男の前に、バクラは立つ。渡されたものの使うのも面倒だった傘の先で、男の顎をひょいと持ち上げ、よくよく顔を見降ろしてみる。
 惨めな敗残者。
 その割に、目だけが燃えていた。復讐の色を濃く宿した紫は、赤みを帯びた鉱石のようだ。
『憎いか、あいつらが』
 問うと、男は微かな息を吐いた。唇の形が、にくい、と動く。
『復讐したいか』
 また問う。項垂れるように、男が頷く。
『死にたくねえか』
 もう身体は動かなかった。肯定の代わりの目がバクラを睨む。死にたくない。死ぬ気などない。だが他人に借りを作るなど御免だ――そんな意思がありありと分かる。
 良い目だとバクラは思った。
 これは使える、とも、思った。
 バクラは傘を退かし、代わりに男の前にしゃがみ込んだ。至近距離で見るとますますひどい恰好だ。元の色が分からないシャツは血と泥で土気色とも灰色とも云えない。道端で絶命する小動物と何ら変わりがない。その瞳の力以外は。
 安心しな、と、優しい言葉を吐く、バクラの声は皮肉なほど愉快そうだった。
『オレ様がてめえを生かしてやるよ』
『ッ……』
『御免被る、ってか? だが、オレ様とてめえの利害は一致してるぜ』
 だから――
 と、続きを喋ろうとしたところで、男に限界が来た。
 がくんと脱力した身体が、ゴミ屑の中へと頽れる。バクラの目の前で男は意識を失った。
 そして、後の顛末は先のとおり。
 意識を取り戻した男は、了の手で小奇麗に拭われ、手当され、ここでバクラと相対していた。
「どういう心算かだって? 説明してやろうとしたところでてめえが勝手にぶっ倒れたんだろうが」
「ならさっさとその続きを話しな。大体てめえは何者だ。ファラオの手下か?」
 だったら容赦はしない、と、男は腰の後ろに手を回す。だが得物は既にバクラが没収した後だ。シンクの上に置いておいたそれをホルスターごとつまみあげ、にいと笑う。
 男は舌打ちし、警戒を解かないまま凄んで見せた。
「何なんだ、てめえは」
「ゾーク・ファミリーの名を聞いたことは?」
「……ああ、親父が云ってたな。あるかないかもわかんねえ連中だって。それがどうした」
「オレ様がそのゾーク・ファミリーさ」
 尤も証拠はねえけどなあ。
 バクラは芝居がかった仕草で肩を竦め、ひゃははと笑って見せた。途端に疑わしげな目で、男はバクラを眇め見る。
「オレ様はファラオの連中が気に喰わねえんだ。潰してやりたいが、何せウチの組織は極まった少数精鋭でな。そろそろ頭数が欲しいと思ってた」
「は、ガキの分際でこのオレ様を引きこもうってか? 生憎だが、クル・エルナ以外に与する心算はねえよ」
「そうかい。なら――」
 しゃらん、と、刃が鞘とぶつかって鳴る音。
「ここで死んでもらうしかねえなァ」
 取り上げたホルスターからナイフが引き抜かれる。オレンジの灯りに眩く輝く刃。バクラは、さも口惜しい、というあからさまな演技をして見せた。
「勿体ねえな。折角ウチの宿主サマが手当して下さったって云うのによ」
「誰も頼んでねえ。ソッチが勝手にやったんじゃねえか」
「てめえは抗争で死んだんでも残党狩りに遭ったんでもなく、ただの間抜けなコソ泥って扱いで死ぬことになる。後でちゃあんと、このフラットに盗みに入って正当防衛で殺されたって、もっともらしい事実を拵えてやるよ。
 ――マフィアとして死ねなくて、残念だったな」
 ぐ、と、ナイフを握る手に力が籠る。
 男が動いた。掛けられていた毛布を目くらましに放った瞬間、バクラは一瞬、驚愕に目を見開いた。その時間は秒にも満たなかったが、男にとっては十分だった。
 足場にされるソファ前のローテーブル。並んでいた救急箱がひっくり返り、消毒液の瓶が床で叩き割れる音。その中で痩躯を撓らせ、男が短い距離を渡る。バクラが毛布を払いのけた時、逆手に握っていたナイフは叩き落されていた。
 目の前にあったのは了が手当の時に使っていた小さな鋏。それがバクラの右目の寸前で先端を尖らせている。
 そして、男の顎にはバクラの拳銃が押しつけられていた。
 可愛らしいと表現できるほど小型の、単発式拳銃――デリンジャーだった。
「……てめえ、どこに持ってた」
「長い髪は便利だぜえ? 恰好の隠し場所だ」
 バクラは濡れた長い髪を、うなじの位置で緩く丸めてまとめていた。デリンジャー程度なら収まってもおかしくない長髪だ。そんな映画の女スパイじみた隠し方などするものかと思い、男は油断していたと見える。
 油断としてはバクラもまた、そうだ。鋏が出しっぱなしになっていたことは知っていたが、男は怪我人では到底出来ない素早さを有していた。一瞬の逡巡も含めて、これは明らかな落ち度である。
 互いに生殺与奪を握り合ったまま、二人は睨み合う。
「……てめえは何で、ファラオを憎む」
 先に口を開いたのは男の方だった。
「オレ様の理由は分かってるはずだ。てめえは何だ。まさかオレ様と同じじゃねえだろ」
「云ったとおりさ。気に喰わねえ。それだけだ」
 切っ先が眼球の手前で揺れる。少し手違えば青いそこへ、刃が吸い込まれそうだ。プディングでも切るようにすうっと。
「クル・エルナとの抗争が終わって、代替わりしただろ。その新しい党首サマが気に喰わねえ。昔みたいに派手にやりゃあいいのに、まあ手緩いこと。聞けばオレ様と同い歳のガキらしい。
 面白くねェなァ。全然面白くねえ」
「……」
「もっと面白くして欲しいんだよ。クル・エルナをブッ潰した時みてえに、いや、それ以上に、街ごと戦争になるような派手なドンパチをやらかしてえのさ――」
 ついでにてめえの復讐、手伝ってやってもいいぜ?
 まるで悪魔の誘いの声で、バクラは云う。
 男は迷っているようだった。滴るような毒意たっぷりの声が真実か否か、見極めようとしているらしい。
「嘘だって思うなら、このまま目ン玉えぐりゃあいい。まあその頃にはてめえの頭蓋骨に鉛玉がブチ込まれてるだろうけどよ」
 ひゃはははは、と、高い笑いが居間に渦を巻いた。
 男は――その笑声を聞き、噛みしめるように一度、瞑目すると――それも酷く曖昧な表情であったが、やがて開眼した時には、瞳の紫は意味を変えていた。
 鋏の切っ先がくるりと回転し、男の手に収まる。攻撃の意を収めると、バクラはおやと眉を持ち上げた。
「交渉成立ってことでよろしいかい?」
「精々利用させて頂くさ。てめえはどうやらとんでもねえキチガイらしい。まっとうな奴に縋るなんざまっぴら御免だが、気狂いとつるむなら悪くねえ」
「は、云うじゃねえか」
「――オレ様は死ぬまでクル・エルナの一員だ。だが、今はそのあるんだかないんだかわかんねえてめえのゾーク・ファミリーにお邪魔させてもらうぜ」
「気狂いはお互い様だ。悪名高いクル・エルナの生き残り」
 くつくつ笑いながら、バクラもまたデリンジャーを回転させて手のひらに収める。手慣れた仕草で髪の間に差し込むと、一見全くの丸腰だ。
 二人は再び目見交わし、そして、新しく出してきたビールの瓶を軽く触れあわせた。かちんと硬い音が響き、そうして至極あっさりとした契約が交わされる。
 男はきっと分かっていたのだろう。バクラは嘘吐きだ、信じられるものなどなにもないと。
 二人の間に確かなものなど一つもない。それ故、目的の為に互いを利用する。
 恐ろしく単純で分かりやすい関係だ。信じていないから裏切りにすらならない。もしもその銃口が再び己に向けられる時が来るとしたら、それは自身の落ち度そのもの。
 危うい関係が、返って愉快だった。弛緩したつながりなどより余程心地よい。
 かち合わせたビールの中身を飲み欲しながら、バクラは男の名を問うた。
 男はにい、と笑い――バクラと同じ名前を、口にした。
 その名はクル・エルナ・ファミリーに拾われた時、かつてのボスが名づけた名前だった。
 スリだった齢十ほどの男をファミリーに迎え、太古の昔、盗賊の中の盗賊とうたわれた盗人の名前を、彼は戴いたのだった。