【♀】ヒキガネ 03-03 / Kiddy and Hound dog.

理由もなくふと目が覚めた時、最初に目に飛び込んできたのは女の半裸体だった。
 ドアノブにかけたままの手も、滝のような豊かで長い髪が零れる首筋も、剥き出しの腹も何もかもが白い。唯一、貧相な乳房の先だけが仄かに桃色で、辛うじて身に着けたショーツと羽織っただけの男物のシャツが無ければ全くの全裸である。このフラットの床は乳白色の冷たいタイル地だというのに、ルームシューズも履かずに素足で立ち、ぼんやりとした表情を浮かべている。
 何事だ、と、盗賊王は首を傾げた。ソファの肘掛けに乗せていた所為で、筋を違えて少し痛む。全身の痛みに比べれば些細なものだったが、思わず出た、痛っ、という声で少女はこちらに気が付いた。
「………」
 恐らく寝ぼけているのだろう、大きな青い目を半分瞼の裏側に隠して、おぼつかなく瞬きをする。
 それから数秒かけて首を傾げた後、いきなり少女は、
「ぅわっ!?」
 朝も早くから大声を上げて、その場にぺたんとへたり込んだ。
「何だおい、うるせえ女だな」
「だっ、えっ、誰!?」
 どうやら昨日のことをすっかり忘れているようだ。盗賊王は痛む身体をなんとか持ち上げ、ソファの背もたれ越しに、あられもない恰好の少女――確かバクラはやどぬしとか呼んでいたか――を見下ろした。
「朝っぱらからぎゃあぎゃあ喚くんじゃねえよ。てめえが手当したんじゃねえか」
「手当……あ」
 漸く思い出した、というか完璧に目が覚めたのか。やどぬしと呼ばれる少女はシャツの前を掻き合わせて盗賊王を見る。
 運び込まれた時のことは覚えていないが、おぼろげに、この少女に手当をされたことは記憶していた。人形のような細い指が血を拭い、包帯を巻いていたのを霞んだ視界で眺めていた気がする。
 顔を見たのは今が初めてだ。
(成程、こいつが)
 あいつが云ってた『秘密』の対象か。
 ゾーク・ファミリーを名乗る、盗賊王と同じ名前をした男。彼は手を組んでから手短に実情を喋りはじめた。ファミリーと呼ばれてはいるが実際の構成員はたった一人しかいないこと。その目的。そして、
『宿主にばらしたら、その場で殺す』
 そう、最後に云っていた。
 ぞっとするほどの冷淡な瞳で盗賊王に釘を刺す、その対象がこの娘らしい。同じ顔をしているから恐らく双子か兄妹か、いずれにせよ血縁であることに間違いはない。
 しかし、あの底知れない男が入念に言い聞かせてくるほどの女。どれだけいい女かと期待していたのだけれど、目にしてみればなんとも貧相な女、否、少女であった。齢は十六、七ほどだろうか、その割に全く乳臭さが抜けていない。顔のつくりはちょっと目に掛かれないほどに綺麗な癖に、足りていないのだ。主に肉が。乳と尻に。
 痩せっぽちで、あばらまで浮きそうな細い身体。こんな弱々しい生き物を囲っている奴の気が知れない。
 しかしながらボスの云いつけは絶対である。秘密は秘密にしておいてやろうと思う盗賊王だ。
「てめえ、名前は」
「え、りょ、了、だけど」
「そうかい。――しばらくここに厄介になるからよ、よろしく頼むぜ」
「へ!?」
 軽くひらひら、と挨拶。了は先程よりも大きな声を上げた。
「ちょっと、どういうこと!? 厄介って」
「云ったまんまの意味だ。てめえの連れがオレ様を雇ったのさ、『仕事』の手伝いにな」
「だからってうちに住むなんて……バクラ!」
「あん?」
 反射でつい返事をした。一呼吸の後、了が呼んだのは自分ではなく双子の片割れの方だと盗賊王は気が付いた。
 返事をした盗賊王を了は見て、なんであなたが返事するんだと眉間にしわを寄せる。同じ名前らしいぜ。説明してやると、細い眉がますます困惑に下がった。
「あなたもバクラ、なの?」
「らしいな。云っておくが親戚でも同郷でもねえぞ。ただの偶然だ」
「そう…… でもボクがバクラって呼ぶのはバクラだけだからね。あなたのことじゃないよ」
 立ち上がった了は、極力足が見えないようにシャツを引っ張り、刺々しい声でそう云った。
 青い瞳は盗賊王を見ているが、そこに友好的な情はない。当然だ、出会ったばかりの男――それも明らかに脛に傷のありそうなならず者、である。警戒しない人間がいたとしたら確実に頭の螺子が何本か抜けている。
 じりじりとタイルの上を後ずさり、少女は盗賊王から距離を取った。とはいえそう広くないフラットのこと、盗賊王が少し身を乗り出して長い腕を伸ばせば、容易に細い腕へと手が届く。掴んだらそのまま折れそうな細い二の腕は、寒さではない意味で微かに震えていた。
「それよりあいつ、どこ?」
 いないの、と、強張った唇が云う。
「さっきでかけてったぜ。お前、一緒に寝てたんじゃねえの?」
「バクラはいつも音とか立てないででていくんだ、分んないんだよ」
 辺りを見回す。外出用のジャケットがポールに掛かっていないことを確認した了が、かくんと首を項垂れた。如何にも脱力、といった風情だった。
「また勝手に決めて……」
「何だ、オレ様が居るのがそんなに不満かよ」
「あなた個人がどうっていうんじゃないよ。知らない人をいきなり住まわせるっていうのが意味わかんないって云ってるんだ。それに……」
「それに?」
「明らかに危ない人が近くにいて、嫌な顔しない人って少ないと思うよ」
 運び込まれた時の泥だらけ屑まみれの姿。そして全身の怪我、顔の傷。なるほど、荒事に無縁の人間から見たら明らかに不審者である。さもあらん了の反応に、盗賊王はしかし、にやりと笑った。
 嫌な顔をされるのは嫌いではない。綺麗な顔の女ならば尚更だ。もっと嫌がらせをしたくなる。荒んだ生活の中で育った加虐心が腹の内で燻り出した。
 追われている最中はろくに女の匂いと肌にありつけなかったけれど、少年と呼ばれる年頃から既に色事に足を突っ込んでいた盗賊王である。身近に半裸の女がいて手を出さないなどと男がすたる、くらいに思っている。顔はともかく身体は全く好みではないけれど、この際贅沢は云っていられない。要は穴があればいいだけで、あとは組み伏せる快感で充分マイナスを補うことが出来そうだ。
 くつくつ、と笑って、盗賊王はぐっと大きく身体を起こす。腹の傷がひきつれて痛んだが、か弱い女を手籠めにする程度の運動ならば無理はなさそうだった。
「な、何?」
 急に動いた盗賊王に驚き、了は更に身を固くした。咄嗟に後ずさろうとするその身を、素早く伸ばした腕で捕まえる。思った通り、華奢で折れそうな手首だった。
「ちょっ、離――ひゃっ!?」
 叫ぶより早く、盗賊王は了の身体を引き寄せていた。
 引っ張り上げればたやすく浮いて、そのまま背凭れを越えさせ己が腕の内側に。受け身も対処も出来ない少女は全く簡単に、そして勢いよくソファの座面に転がった。逃げられないように片足を跨いでしまえば、女の身ではまず脱出不可能。引きこんだ時に大きく開いたシャツの隙間から、目に痛いほど白い乳房が零れ、微かに揺れる。
 そのささやかな柔肉を、盗賊王はじとり、と揉み上げた。
「ッ!」
「つまんねえ乳だな。もちっと肉つけろ肉」
「何考えてるんだ! 嫌だ離して、バクラぁっ!」
「呼んでもあいつはここにはいねえよ。なに、ちぃっと付き合ってくれりゃあ手荒な真似はしねえって。ここんとこご無沙汰でよ」
 大人しくしていれば気持ち良くしてやる。そう囁くと、了は嫌悪感も露わに盗賊王を睨みつけた。泣きだしそうに怯えている癖に、なけなしの気丈を震える唇に貼り付けて叫ぶ拒絶。それがなかなか心地よい。
 暴れようとする片手首はそのまま座面に縫い付け、揉み甲斐のない乳房を手のひらでにじる。全く味気のない。こんな足りていない肉体の何がバクラは楽しいというのか。それとも底抜けに女の趣味が悪いのだろうか。或いは――
「ひょっとして、あんま可愛がってもらってねえのかァ?」
 だったらこの、育っていない発育不良の乳房も頷ける。女は弄られれば弄られるほど豊満に変わっていく生き物だ。この貧しさは愛撫が足りていないとかそういうことだろうか、と、我ながら下衆いことを考える盗賊王である。
「オレ様が育ててやろうか? そうしたらこの俎板みてえな乳もちっとはデカくなるだろうよ」
「ッ……ふざけないで!」
 その瞬間、ぱん、と、いい音が居間に響いた。
 傷のない方の頬を、了の平手が叩いたのだ。
「……やるじゃねえか」
「離して」
「嫌だね。女に命令されてはいそうします、なんてみっともねえ真似、誰かするかよ」
「ボクは離してって云ってるんだ。本当に怒るよ」
「やってみな。マグロより抵抗された方が燃えるってモンだぜ」
 にい、と唇を持ち上げて笑う。了の目に敵意と拒絶と恐怖が平等に広がるのが、近しい距離でありありと見て取れた。
 しかしお喋りな唇は性欲処理に必要ない。さっさと塞ぐが吉――と、盗賊王は了の噛み締めた唇を、素早く唇で塞いでやった。
 触れる、というより噛みついた唇は小さく、上下の口唇をまるごと覆い尽くしてしまえるほどだ。恐ろしく柔らかくて滑らかで、今まで抱いた商売女のあだっぽい感触とは全く違う。とろけそうな味わいにこれはなかなか、と盗賊王はほくそ笑む。
 だが、笑みは長く続かなかった。
 唇を奪われた途端のことだった。了は胸をまさぐられた時よりも大きく瞳を開き、顔を真っ赤にし、その後、別の意味で――怒りで耳まで燃やすと、
「いッ!?」
 盗賊王の顔を、綺麗な爪で思いっきり引っ掻いた。
 ――そこから先はもう、性行為など見る影もないただの取っ組み合いである。
 了は女らしさのかけらもなくあたりのものを盗賊王に向かって投げつけ、本調子でない盗賊王は若干その勢いに気圧され組み伏せるどころでもなく。朝昼兼用の軽食を買いに出たバクラが帰ってきた時、二人は部屋全体をリングにした壮絶な戦争を繰り広げていた。
 バクラ曰く、犬と猫が喧嘩しているようにしか見えなかった――との、ことだった。
 

「――あん時は随分ひでえ目に遭ったもんだ」
 金属の鈍い光沢を、盗賊王はじっと眺めつつ呟いた。
 ソファに寝転がり、逆光を受けた古い鉛は墨塗りのように黒く。くたびれたグリップはすっかり盗賊王の手に馴染み、描く曲線はもう、自分の五指の形そのものだ。
 己の指がそう変わったのか。それともグリップが変形したのか。
 この家に転がり込んだ時はまだ手に余ってたもんだ、と、思う。
 泥にまみれて硝煙の闇を駆け抜けた頃。当時は上がる息と同じくらい忙しなく危なげで、死の縁をなんとか転げ落ちずに駆けていた。こんな風に暖かい場所で呑気に寝転がれる日が来るなど、全く考えていなかった。
「どしたの、バクラ」
 傍らで寝入っていた了が、眠たそうな目を擦りながら声を掛けてくる。見咎められる前に、盗賊王は名付け親の形見であるリヴォルバーをさっと懐に隠した。
 先程まで凶器を握っていた手を開き、了の頭を軽くかき混ぜてやる。ふにゃん、と弛緩する白い頬が愛らしい。
 なんでもねえよ。ごまかして笑うと、そう、と、了は再び眠りについた。
 唇を奪った盗賊王を散々な目に――のちに確認したところ、了は身体を触られるよりもバクラ以外の人間にキスをされたことが大変ご立腹だったらしい――あわせた少女は今、盗賊王とバクラの真ん中で、抵抗もなく裸体を晒している。
 こんな風に三人で遊ぶようになってから、随分と経った。
 変われば変わるものだ。了もだが、自分も。
「不用意に得物出すな」
 了が寝入ったことを確認してから、こちらに背中を向けていたバクラが剣呑な声で云った。
 ボスは相変わらず、秘密を貫き通すことを厳しく云いつけてくる。
 そう、変わらないのはこの男くらいか。
 了がバクラにあの人のことが嫌いだ一緒に何かいたくないと大層嫌って云った時も、そのこわばりが解け始めた時も、こうして二人がかりで了を可愛がるようになった今も、彼はずっと変わらない。了に依存――溺愛といってもまだ足りない執着――を燃やしながら、その炎が灰になることはないらしいと、盗賊王が知ったのもまた、昔の話だ。
「ばれたら殺すっつってんだろ。何回も云わせんな」
「ばれてねえんだからいいじゃねえか」
「この前それで仕事の時間、宿主に知られてんだ。危機管理能力ねえのかよ」
 どうやらこちらも眠いらしい、バクラはえらく不機嫌な声のまま振り向きもしない。
 はいはいすみませんでしたとおざなりな返事をして、盗賊王も眠ることにした。
 泥まみれの過去はまだ、色濃く胸の内側にへばりついている。その記憶はこれから先、何があっても消えることはないだろう。
 同様に、今のこの時間を過ごした記憶もまた忘れることはない、そう思う。
 ――心臓に刻んだ復讐に身を投じるその日でさえ、きっと。
 その程度には、この適当な三人暮らしの幸せを、盗賊王は気に入っていた。