【♀】ヒキガネ 04-02 / Lunatic.

二階の突き当たりを右。
 そう示された部屋の扉を、ボスとしての礼儀で軽くノックする。
「なに」
 刺々しい声の誰何。端的に名前を告げると、声は何も返ってこなかった。即ち、入って良いとのお許しである。
 磨かれた真鍮のドアノブを回す――バクラのフラット玄関とは比べ物にならないほど、その高級な扉具は滑らかに回った――と、赤絨毯の広い部屋に、ナムは不機嫌な顔で座っていた。
 市販品では決して表現できない、精緻なディティールのスーツを着こなした女党首。褐色の肌に銀がかった金髪、細い首筋はマフィア稼業など似合わないくらいに整っている。窮屈そうに布地を押し上げる豊満な乳房も相俟って、モデルなどの方が余程似合いそうだ。
 しかしその美貌も、不機嫌さで三割ほど下落している。苛々としているのがあからさまに見て取れた。
「ご無沙汰だな」
 マリクに告げたものと同じ気安い挨拶を、バクラは送る。ナムはぎゅっと眉間に皺を寄せたまま、久しぶり、と社交辞令を返した。
「何か用? アポもなしにいきなり訪問するなんて、ずいぶん不躾じゃないか」
「ちょいと急ぎの用件だ。タイミングが悪かったのは後ろの奴からもう聞いたぜ、ご機嫌斜めらしいな」
「お前余計なこと云うな。さっさと戻れ」
 バクラにではなくマリクに鋭く言い放つナム。マリクはへいへいと気の抜けた声で応じ、バクラの背後を離れた。執務机に座るナムの右隣に、猫背を直さないまま控える。
 ナムは手にしていたペンをくるりと回し、用件は、と問うた。
「そいつが云った通り、ボクはとても機嫌が悪い。手短に頼むよ」
「その前に何があったのか教えて頂けねえ? こっちも地雷を踏みたくないんでな」
「関係ない。ウチの事情をお前に流すわけがないだろう」
「主人格サマは、傘下で揉め事があったのがお気に召さないのさ」
「おい!」
 右隣の軽口を、ナムが鋭く叱咤。マリクは悪びれず肩を竦めた。
「いいじゃねえか、どうせバクラも同じ用向きで来たんだろぉ?」
 にやにや。性質の悪い粘着質な笑みがバクラに再び向けられる。バクラが片眉を持ち上げるだけの反応を返すと、笑みはさらに深くなった。
「グールズの連中が勝手に取引をしたみたいでね、しかも失敗。金は持っていかれてしまったらしい。それで主人格サマはお怒りなんだ」
 バクラ、お前じゃないのかい?
 眇めた紫の瞳が、何もかも見透かすようにバクラを映す。
 バクラは何も話していない。言葉の端から掬い取られることもないよう、当たり障りのない会話しかしていない。それでもマリクは易々と真実を見つけた――否、嗅ぎ取った、という表現が正しいだろう。
 マリクは悪事に鼻が利く。隠し事や暗事を本能的に見抜くことに長けている、らしい。
 証拠や理由といった確かなものなどなにもなく、されど彼は第六感だけでそれを掴みとる。盗賊王との会話で厄介といったのはこのこと――未熟なナムより、マリクの方が余程煩わしい。
「……本当なのか、その話は」
 マリクの嗅覚を誰よりも信じているナムは、剣呑な視線をバクラに向けた。
「失敗した連中は全員、話が出来る状態じゃない。どこと何を取引していたのかも謎だ。まあ何を手に入れようとしていたか想像はつくけれど――バクラ、お前がウチの連中に手を出したのか?」
「手を出したなんてとんでもない。その逆さ」
 突き刺さりそうな視線をそよ風とも思わず、バクラは扉に背を持たれて手を振った。さも心外、といった表情を浮かべて。
「確かにグールズと取引したのはオレ様だ。だが、難癖をつけてきたのはそっちの方だぜ。問答無用で荷だけ狙われちゃあ、こっちだってそれなりに対応するしかねえだろう?」
「なら、金はどういうことだ」
「知らねえよ。オレ様はてめえの部下に襲われて、それを片付けた足でここに来てんだ。大方通りすがりのチンピラにでも盗まれたんじゃねえの?」
「……」
「マリクにばらされるまでもねえ。オレ様は真実を話した上で、どうしてくれるんだと文句を云いに来たんだ。イシュタールのボスじゃなく、グールズのボスとしてのてめえにな。
 本来ならそちらさんの耳に入る前に伝えたかったんだが、流石は第二勢力を誇る組織、情報が早え」
 ナムは何も答えない。バクラの言葉が真実かどうか、見極めている顔だった。
 バクラは何ひとつ嘘など云っていない。先に攻撃をしかけてきたのはあくまでもグールズ側だ。抗争が了の持たせたバスケットの中身を疑ってのこととバクラの過度な挑発が原因だということを伏せていただけで、手を出したのは向こうである。
 金についてはバクラは一切知らぬことだが、恐らく後を任せた盗賊王の仕業だろう。この邸を訪れるその間に、金と、本来グールズ・ファミリーに引き渡す心算だったガンジャと、それから空っぽのバスケットを持って、盗賊王は姿をくらませたと見える。
(余計なことしやがって、あのバカ)
 その金の問題さえなければ、もっと確実にナムを詰れたと云うのに。
 まあどちらにせよ、喋り過ぎなければこれで知らぬ存ぜぬを貫ける。例えグールズの取引人が口を利ける状態になっても、証拠など何も残っていないのだから。
 そして何より、無様な失敗をしでかした構成員が目を覚ますまで優しく休ませておくほど、イシュタールは甘くない。イシュタール家の別名は墓守――それだけ死者と関わってきたということだ。弔う側としても、始末する側としても。
 いかにも被害者、の表情を浮かべて黙るバクラを、ナムは疑わしげな目で睨み続けた。
 隣のマリクは相変わらずの締まりのない顔で状況を眺めている。この男が何か云うとまた面倒なことになるが、そのつもりはなさそうだ。
 彼の役目はナムを守ること。
 敏感な嗅覚でもってこの場で「バクラは何かごまかしている」とナムに申告したなら、バクラは迷わず、謂われない濡れ衣を着せられたゾーク・ファミリーのボスとして敵意を示す。マリクは今のバクラの装備ならば捌き切れる自信があると云ったが、バクラが身体中に隠し持っている凶器は胸のリヴォルバーとデリンジャー、手首のナイフだけではない。本気になればナムに傷を負わせることは可能だ。そしてマリクは、かすり傷ひとつでもナムに許してはいけない――護衛とはそういう存在なのだから。
 たとえわずかな可能性でも、危険があると分かっていてマリクが口を開くはずがない。分かっているからこそ、バクラは嫌味な笑みをナムではなくマリクに向けて見せた。全て察しているであろうこの男に向かって。
「……分かったよ」
 そんな水面下のやり取りに気が付けないナムは、矢張りまだまだ未熟であった。マリクの嗅覚に全幅の信頼を置くあまり、何も云わない彼の反応を見て判断したのだ。
 大仰に腰かけていた真紅のベルベット張りのチェアから背中を浮かし、ナムは姿勢を正してバクラに目礼する。
「部下が無作法な真似をして悪かった。後日改めて御詫びに伺おう」
「なあに、素直に認めて頂ければ文句ねえさ。一つ貸しにしといてくれりゃいい」
「『謝罪』は必要ないと?」
「このオレ様が、詫び金を欲しがるような懐の浅い男に見えるか? 党首様の真摯なお言葉だけで充分さ。
 ――ま、今後は部下の手綱をキッチリ取ることだな。今回は手心を加えたが、次はそうはいかねえぜ」
「云われるまでもない。躾はきちんとするさ」
「そうあって欲しいモンだ」
 用件はこれで済んだ。と、バクラはひらり手のひらを振って見せた。
 なんて馬鹿な女。高笑いをしたらどんなに気持ちがいいか。
 党首が党首に向かって頭を下げるなど、屈辱以外のなにものでもあるまい。悔しげに歪み、更に不機嫌になるナムの綺麗な顔は爽快だった。名前負けと云わざるを得ない、お前は党首の器じゃねえと指をさしてやりたい気分だ。
 だが、表情は飽くまで真剣に。フラットに辿り着いてからたっぷり嘲ってやることにしよう――盗賊王にいい土産話が出来たものだ。ナムに借りを作れた、これは大変な収穫である。
 退出の意を告げると、マリクはまた、あのひょいひょいとした酔っ払いのような足取りでバクラの背中についてきた。
 扉が閉まるその隙間で見た、唇を噛むナムの顔が実に傑作であった。
 

「バクラ、まぁだ何か隠してるだろう?」
 邸の門扉に寄りかかり、マリクはようやっと口を開けたといわんばかりにその唇を吊り上げた。
 手渡された可愛い双子をホルスターに戻しながら、バクラはふんと鼻を鳴らす。
「いいや? オレ様はお前の主人格サマに、云いたいことは全部云ったぜ」
「しらばっくれるねえ。オレの鼻はお前から胡散臭い匂いがするって訴えてるぜえ?」
 すう、と、高い鼻梁をバクラの耳元に近づけ、マリクは尚も続けた。ねっとりとした舌先を触れる触れぬの境界で遊ばせながら。
「本当のことを云わなきゃ、嘘にはならない。お前がよく使う手だ」
「失礼なこと云うんじゃねえよ。オレ様ほど正直な人間もそうはいねえ」
「それこそ嘘だ。ああ匂う匂う、腐った林檎みたいな甘ぁい悪事の匂いだ。ゾクゾクするねえ。主人格サマがお怒りでなきゃ、このままもう少し邪悪な味を楽しむんだが」
 気持ちの悪い舌なめずりを耳元で奏でる、マリクは気狂いじみた笑い声を上げた。怖気にバクラが振り向く前に、その長身が半回転。距離を取って背中を向ける。
 それからぐりん、と振り向いて、
「オレはこれから、ご機嫌斜めのボスを宥めて差し上げなきゃならないんでね。
 ――またいつでも来ると良い。お前が来ると、邸中がざわざわして心地良い」
 と、非常に気味の悪い歓迎を告げてきた。
 バクラは地面に唾を吐き、御免だぜと云い捨てる。
「もう二度とお邪魔したくねえな。オレ様はヒステリックな女が嫌いなんだ」
「夜は可愛いもんさ。おっと、こういうことを云うとまた怒られちまう」
 じゃあまた。
 まるで仲のいい友人のような気安さで云い捨て、マリクは邸の中へと帰って行った。
 その軽い足取りの先には、屈辱でよりいっそう不機嫌になった彼の『主人格サマ』が待っている。あの喧しい女をマリクがどう懐柔し大人しくさせるのか、バクラは方法を考えてみたが――指折り手数えてもろくな手管がないことをすぐに察して、その思考を追い払った。
 どうせ色事を考えるなら、ヒス女よりも、フラットで帰りを待っている双子の片割れを思った方が余程いい。
 外はもう夕闇。昼過ぎには帰ると告げた埋め合わせが必要かどうか思案しつつ、バクラはイシュタール邸を後にした。