【♀】ヒキガネ 05 / Trouble eater.

月が笑っている。大口を開けて、まるで哄笑するかのように。
 曇って居たらいい。そうしたら月も星も見えなくて、誰も自分を見たりはしない――されど暗闇は怖かった。真っ暗な中に一人でいるのが恐ろしかった。せめて三日月、ほんのささやかな微光ならば気も紛れるかもしれない。
 でも今は駄目だ。あの切り落とした爪のような細い眉月は、不愉快な相手の唇を想起させる。
 数日前の不愉快な出来事は夜ごと甦って、今宵もナムを眠らせてくれそうになかった。
『一つ貸しにしといてくれりゃいい』
 貸しだって? 冗談じゃない。
 バクラの慇懃な笑みは頭の中で渦を巻いて、ナムの拳を震わせた。
 彼の男は同盟相手ではあるが、格下である。第二勢力を誇るイシュタール・ファミリーのボスをあのように鼻で笑うなど許されない。決して許されてはいけないのだ。
 ――それなのに。
(ボクを馬鹿にした)
 ボクを侮辱した。このボクを、イシュタールを見下げて、謝罪をさせた。
 それに甘んじた自分自身にも、発端を生み出した部下にも腹が立った。
 苛立ちの引き出しを一つ開けると、連鎖してたくさんの不愉快が口を開いていく。普段は負けぬように背を伸ばしていても、自身の至らなさはこういう時に狙ったかのようにナムを苛んだ。うまくいかない経営。部下の指揮。こうありたいと思う偶像は姉の形に実を結び、そうあれない諦めと足掻きが彼女の首を絞める。もっと姉さんみたいに。姉さんならこうする。だけどボクは姉さんじゃない。イシュタールの党首はボク――
(どうしてボクなんだ)
 決まって訪れる金縛り。嵐が来る。外ではなく内側に。
 滑らかなリネンの感触さえ心を癒す材料にはならなくて、ナムは柔らかな寝台の上で俯せ唸った。キルトを被っているせいで息苦しい。満月が嫌だ。暗闇も怖い。己の腹の内側で激しく波打つ苛立ちも恨めしい。噛み締めた唇から血が滲む。
 叫び出したいほどの黒い感情。
 それが爆裂する前に、ざわり。
 キルト越しに、ナムの背中を大きな手が撫ぜた。
 誰の仕業かは分かっている。慣れ過ぎといってもいいくらいによく知った体温の主――マリクの顔が、被ったキルトの隙間から覗いていた。
「飲むかい、主人格サマ」
 からん、とグラスと氷がぶつかり合う音が響く。
 琥珀の液体が月光を浴びて、滑らかな水面を揺らせている。その波を目にしてやっと、ナムは自身の喉が酷く乾いていたことを自覚した。
 無言で起き上がる。マリクは片眉を軽く持ち上げ、冷たいグラスを差し出した。
 ちびちびと飲む気にもなれない。ぐっと飲み干すと、いい飲みっぷりだねえとマリクは冷かしてきた。睨むとにやにや笑いながら、もう片手に持っていたグレングラントを瓶ごと揺らして見せる。お注ぎしましょうか。目でそう云うので、やはり無言でグラスを突き出す。
 とぷとぷと注がれるほろ苦い飴色。
 眺めながら、グラス越しにマリクを見た。
「今まで何処に行ってた。護衛の癖に」
「何って、後始末さ。主人格サマを苛立たせた原因をな」
「どっちの」
「使えねえ方」
「……そう」
 一瞬、マリクがバクラを始末していたらいい――そう思ってしまったことに、マリクは党首としての足りなさをまたしても思い知る。
 首を切られた――物理的にも、組織的にも――のは、無能な部下の方だ。ガンジャ目当てにこっそりと、ボスに無断で取引など正気を疑う。同時に、己の組織の末端が精神を犯す草に随分と侵食されていることもまた理解した。
 こちらの道を歩む者は、長く過ごせば過ごすほど酒か女か麻薬かの何れかに心を奪われる。そのどれでもない者は、血に飢えては毎晩獲物を探している気狂いだ。そんな中毒者たちに規制など通用しない。がんじがらめのロウで縛れば足掻くのが人、だから首輪はきつくても緩くてもいけない。その匙加減を今も手探りで探している。
 上手くいかない現状を嘆いていても、誰も助けてはくれない。否、助けられてはいけない。それがイシュタールの名を継ぐ者としての矜持であった。
 注がれたウイスキーを、今度は軽く一口。年代物の濃い辛さが胸に染みた。
「バクラが良かったかい?」
 まだ引きずってるのか。そんな揶揄を言外に云われた気がして、腹が立つ。
「お望みならひとっ走りして、首を持って帰ってやってもいいぜ」
「馬鹿を云うな。あれは手を出していい相手じゃないぞ」
 少しだけ落ち着いたナムを見て取ったマリクは、くるんと半回転してベッドの脇に腰かけた。グラスは一つ。瓶から直接酒を煽って、濡れた唇を舐める。
「ボスのご命令なら聞くけどなぁ。主人格サマ個人としては、どうなんだ?」
「……」
「へまをした部下はもう肉達磨。それで気が晴れるならいい。でも違う。主人格サマを侮辱した相手はまだ一人残ってる。
 屈辱を与えた相手に、それ以上の屈辱を与えたい――そんな風に見えるけどねえ」
 ついと差し出した指が、ナムの鎖骨から豊かな乳房までを寝間着の上からいやらしく辿る。マリクは楽しげに、そして下品極まりない様子でべろりと舌なめずりをした。
「その極上に柔らかい胸の内側で、ガチガチに硬くなった美味そうな本音。片付いたらさぞかし気持ち良く眠れるだろうなァ」
 人の苦痛を美味と感じる異常者の笑みは、どこまでも深い。
 こいつは鼻が利く。時に利き過ぎる――異常性を、そして己が暗闇を受け止めたくなくてナムは視線を逸らした。敵味方構わず発揮されるその嗅覚は、しばしばナムが必死に押し殺した暗い願望や欲望をあざとく見つけ出しては舌先に乗せる。如何しよう、叶えたいならご命令を。そんな風に、誘ってくる。
 彼はナムの護衛。そして、手足。
 ナムの内側に巣食う闇を喰らって、ナムが苦しまないようにする。それが役目。
 だから何もかも忘れて彼に一言命ずれば、今蟠っているこの闇も晴れるだろう。血と制裁を以てして――けれどそれは、一時的なもの。
 後に襲いくる後悔。砕かれる矜持。その時自分では党首であることを無くす。
 流されてはいけないことを嫌というほど知っているからこそ、ナムは逸らした目をもう一度、マリクに強く向けた。党首としての厳しい瞳をだ。
「必要ない。あれはまだ使える駒だ。同盟相手に手出しは許さないぞ」
「本当に?」
「二度は云わない」
「バクラとのことは、もういいと?」
 探る視線には沈黙を。氷が解けて水底にぶつかる音が、二人の間で小さく広がる。
 交差する紫の瞳。
 たっぷりの静寂の後に、マリクはひょい、と身体を起こした。またあの慇懃な笑みを浮かべて、すっと目を細める。了解と唇を動かして。
「主人格サマがそう願うなら」
 そのとおりにしよう――云うが早いか、手の内側からグレングラントが滑り落ちた。ごとん。重たい音を立てて落下し、赤い絨毯に派手な染みが広がっていく。
 咎めるより先に、視界を奪われていた。紫の瞳の中に、驚いたナムの顔が映り込んでいる。
 唇は濡れて熱かった。酒気を帯びた息が、舌と舌で練り合わされて濃く変わる。
「お前っ……」
「我慢はよくないぜぇ? せめて気晴らししたらどうだい」
 囁きの意味が分からないほど初心でない。むしろ何度もその『気晴らし』をナムは繰り返してきた。嫌なことがある度に、誰にも八つ当たり出来ない子供じみた腹いせを、交わることで晴らしてきた。獣のように犯されることで何もかも忘れられた。誰にも知られないから安心して声を上げて、マリクの乱暴な腕の中で悶えられる。暴走する感情のままに爪を立ててもびくともしない硬い背中に、全てを委ねて声を上げられる。
 党首で居なくて良い時間。交わることでまた、内側の闇をマリクに喰わせているのだと知っていた。
 それとて一時的な忘却行為だ。だが、今はその甘美な誘いを突っぱねられない。
 ナムは先程とは逆に、逸らした瞳をそのまま閉じた。
 了解、と囁いたマリクが、ナムの手の中の酒を奪い取る。
 サイドテーブルに置かれたグラスの中で、二つの氷が蕩けた断面を癒着させていた。
 

「マリク様」
 丁度ナムの部屋から出てきたマリクの背中に、静かな声が降ってきた。
 振り向いた先にはリシドが、相変わらずの真面目な表情を浮かべて立って居る。無言にして雄弁なその目に、しかしマリクは軽く手を振った。
「主人格サマへの報告は必要ないぜぇ。もういいってよ」
「よろしいのですか」
「いいって云ったんだから、穿り返すような真似は余計なお世話さ、リシド」
 それに、たっぷり気晴らしして頂いたからなぁ。
 未だ服を着ずに上半身を晒したマリクは、ことさら見せつけるように背中を反らせて見せた。そこには新旧含め派手な五指分のひっかき傷が伸び、縦横無断に彼の背中を彩っている。ナムと同じ背中の刻印だが、爪痕の所為であちこち歪んでしまっている。
 一番新しい傷は両肩から背中にかけて斜めにくっきりと。血の痕さえ滲んでいる。今しがたナムにつけられた傷だった。
 それを目にしたリシドは、暫し沈黙を貫いた。何か考えているのか、従者の瞳は少しだけ揺らぐ。
 躊躇と静寂。
 結局、言葉を発さずに目礼し、調査報告をまとめた書類の複製だけを手渡したリシドはその場を辞した。
 リシドはリシドで、ナムのことを思っている。誰よりも忠実なイシュタールの従者である彼は、党首としてだけではなく個人として、とても彼女が大切なのだ。恋よりも確かな、それは親愛と名付けられて相応しいものだろう。
 報告書の中身は、ナムに黙って探らせたあの揉め事の真相と、ついでにバクラの身辺。少ない時間でここまで調べ上げるとは大したものだ。尤もこの街で、イシュタールの息が掛かっていない機関など中央を除いてほとんど存在しないのだけれど。
 読みやすい文字――この地にとっては異国である遥か故郷のそれだ――で書かれた報告書を、マリクはざっと流し読む。偽りの匂いは嘘ではなかった。どこにでものぞき穴は存在していて、バクラが一言も漏らさなかったバスケットの存在は文字となって明るみに晒されている。肝心の中身までは暴けなかったが、重要なのは切欠と原因だ。
 ナムが詫びる必要などなかった。まんまと騙された主人格サマは、ここ数日悔しさでろくに眠れなかったというのに。
(やってくれるねえ、バクラ)
 ぱん、と報告書を指で弾いて、マリクは不穏に目を眇める。
 相応の復讐を行う際に重要なファクターになるであろう情報。――しかし。
『必要ない』
『あれはまだ使える駒だ。同盟相手に手出しは許さない』
 そう云ったのはナムで、そして、ボスだ。
 望むなら差し出した。望まないなら存在さえ教えない。
 脆くか弱い、ナムの心。砕けぬようにするその為だけに自分は存在している。
 彼女が必要ないと命ずるのなら、これは必要ないものだ。
 手の中のレポートを紫の瞳が見下ろす。細かな筆致で書かれたその中に、バクラとよく似た少女の写真が添えられている。
 マリクはふうんとだけ鼻を鳴らし、それらを粉々に破り捨てた。
 回廊の窓から紙屑を捨てた時、白む空の中でも満月はなお笑っていた。