【♀】ヒキガネ 06-04 / LadyPanther and WhiteKitten.
つい先ほどまでは星すら眺められそうな夜空だったというのに。
窓の向こうでは激しく風が吹き荒れ、容赦のない雨粒が硝子に体当たりをしてくる。道路の並木は枯れ柳のように左右に揺れ、時折光る空は不穏な唸り声を上げた。安普請のフラットも、これ以上強く風雨が続いたら屋根に穴でも開きそうだ。
ばきり、と。
そう、まるでそんな、どこかが壊れたかのような激しい音が――雨に濡れた盗賊王とバクラの間で響いた。
「――どの面下げて」
戻ってきやがった。
盗賊王の頬を殴りつけたバクラは、抑揚のない声で一言、そう云った。
拳はじんと頬に響いた。後から痛みが長く続くタイプの、嫌な一撃だった。
バクラの細腕では盗賊王を殴り倒すことは出来ない。それどころか、動体視力の差も相俟って避けることも十分可能である。
だが、盗賊王はそれをしなかった。敢えて直立不動の姿勢で制裁を受け止めた。
それは命令を違えた己が受けるべき当然の処置であり、また、バクラがボスである以上、そもそも避けることなど許されないのだった。
誰より、殴られるべきだと盗賊王自身が理解している。
――ほんの少し、そう、ほんの十分程度。
(目を離しちまった)
たとえ一秒とて了から離れてはならなかったのに――狭い店が何だ、それでも添うべきだったのだ。平和ボケしていた自分自身の油断を、盗賊王は思い知る。
ただの気の所為で、バクラが執拗に護衛などつけさせるものか。心地よい微温湯のような生活に慣れて、すっかり牙を錆びさせていた。復讐鬼だった頃の己が今の自分を見たら、眉間を打ち貫きたくなるくらいに情けなく滑稽だったろう。
それほどに上等だったのだ、この生活は。了という存在は。
殺気立った盗賊王の魂を、人肌の温度で腑抜けにさせるほどに。
「言い訳はしねえ」
灯りを落としたままのフラット、その真ん中で盗賊王は低く云う。
「オレ様の仕事だ。了はオレ様が探す」
「必要ねえ」
宿主の居場所なら知ってる。
すげなく拒否したバクラは、盗賊王の脇をすり抜けて、靴音高く玄関へと向かって行った。後ろ手に捨てた手紙がタイルの床へと舞い、同封されていた髪の毛もばらばらと散った。走った稲光に一瞬照らされたそれは、光の粉を塗したかのように美しかった。
しゃがみ込み、それを拾い上げた盗賊王の顔付きが変わる。瞳が赤味を帯び、湿気た空気が怒気に当てられて熱を持ちそうだ。
対照的にバクラは冷え切っていた。氷と表現して差支えない、冷たすぎる声音と表情。彼はもう、振り向きもしない。
「向こうはオレ様一人をご指名だ。汚名を返上してえなら、てめえのその足りねえお頭でようく考えてから行動しな」
二度目の失敗は許さない、と、言外にそう云った、ボスの言葉は辛辣だ。
今はその方が余程いい。バクラは合理主義者であるが故に、今盗賊王を詰るよりも事体の解決を優先した。盗賊王もまた、ここでだらだらと叱責を受けるよりもさっさと行動を起こしたい。後から詰られるならばいくらでも。了にもしものことがあれば――こめかみに鉛玉では済まないだろうから。
「てめえは来るなよ」
念を押して、靴音が遠ざかる。今しがた盗賊王を殴った手でドアノブを回したバクラは、コートの裾を翻し、一人闇に消えた。
取り残された盗賊王を、二度目の稲光が照らす。
了の安否。己の慢心。屈辱。
全てに腹の煮やした盗賊王をあざ笑うかのように、手紙はかさかさと床で震えていた。
◆
黴臭い匂いが充満する倉庫内で、ナムは一人瞑目していた。
高い天井からぶら下がる裸電球が、絶命しそうな点滅を繰り返している。不意に暗くなり、また明るさを取り戻し――そんなことを繰り返して、今にも命を絶やしそうだ。
まるでボクのようだ。
などと思ってしまうのは、単にどす黒い感情が胸の内側で炎を噴いているからだと知っている。無機物に自己を投影するだなんて子供じゃあるまいし。たとえあの電球が切れたって、それは単に内部構造の寿命が尽きた、ただそれだけだ。
分かっていても、ちらつく灯りが鬱陶しい。瞼を透かしても分かるほどの点滅がひどく煩わしく感じる。倉庫に捨てられた錆だらけのドラム缶に腰かけて、ナムは意識を灯りの外へと向けることにした。
思い出したのはつい昨夜のこと。マリクを罵倒した瞬間の手の熱さだった。
『どういうことだ、説明しろ!』
真っ赤な絨毯に叩き付けたファイルの音。そして、思い切り打ったマリクの左頬の音がまだ耳に残っている。
書架に並んでいた見覚えのないファイルを開いたら、中から出てきたのはナムの知らない事実だった。ゾーク・ファミリーとのいざこざの真実。そうして芋蔓式に導かれる全ては、ナムの拳を震わせるには十分だった。
己がバクラに謀られ、騙されたこと。その筆致から、調査をしたのはリシドだということ。リシドが知っているということは、無論イシズの耳にも入っているだろう。それなのに、ナムには一切知らされなかった。このファイルを見つけなければ、もしかしたら一生気づかないままだったかもしれない。
苛立ちの炎はバクラに向けて燃え、そして、悔しさもまた同じ温度で跳ね返ってナムの胸を焼いた。
『どうして誰もボクに教えなかったんだ!』
居合わせたマリクに怒鳴りつけた。八つ当たりだと分かっていても止められない。悔しくて、悲しくて、みっともなくて、あらゆる負の感情がナムの中で爆発していた。
『お前は知ってたのか、このこと!』
『勿論知ってたさ。オレは最初っから、バクラは嘘を吐いてるって思ってたからなあ』
『だったらどうしてその場で云わなかった!?』
もう一度叩いてやりたい。頬を摩りながら悪びれないマリクのにやけた顔が、いっそうナムの苛立ちを煽る。
『みんな説明してやんなきゃ分かんねえのかい。オレの役目は護衛だぜ? 主人格サマに危険が及ぶような真似はできねえのさ。それに姉上サマの命令もあったしなあ』
『姉さんの……?』
『姉上サマからリシドに、このファイルは主人格サマの目につきやすい場所に置いておけって命令があったわけだ。それをオレが実行した』
『――』
二度目の驚愕は、ナムの怒りを頂点まで燃やしあげて――そして、マグマが冷えるようにひどくひどく、凍らせた。
姉さんが、そんなこと。
言葉にならないナムの前で、マリクはくるくると指を回す。
『試されてんだよ、主人格サマは。党首として相応しいか、ってよお。流石のオレも姉上サマにはそう気軽に逆らえないし、とりあえず云う通りにしといたってわけだ』
マリクの声が、その長い指の動きと同じように頭の中でぐるぐる回った。試されている――党首――姉上サマ。姉さん。
ナムが最も憧れ、そうありたいと願う人物。誰より厳しい目でナムを見、その行動を監視する姉。恥じぬ妹でありたい、相応しい党首でありたいと常に願い続け、努力してきた。神聖視しているといっても過言ではない。
そんな姉が自分を試した。
(……おかしいことじゃない。党首なんだから)
ならばこの、泣きだしたいくらいの悲しさは何なのか。
(ああ――そうだ)
(ボクは、ボクだけが無知でいたことが、許せないんだ)
そんな子供じみた感傷はこの場に必要ない。それでも、のけ者にされたという感覚はナムの頭にこびりついて、容易に剥がれてくれそうになかった。
嘔吐感に似た激情のやり場が見つからない。俯いたまま唇を噛んでいると――ナム自身が叩き付けたファイルの中身がばらけて床に散っているのに気が付いた。
忌々しい真実の記述。そして、バクラによく似た少女の写真。
――昏い焔が再び、熾火のようにちろりと舌を出した。
『……おい』
『何だい、主人格サマ』
『お前、しばらくボクの護衛を外れろ』
床で散らばるファイルを拾い、軽く埃を払ってナムは云った。
爆発するような怒りはもう通り過ぎた。自分でも驚くくらいに、精神が平坦に変化している。心が一度死んだ、そんな感覚だった。どこかで導火線がばちばちと爆ぜるような幻聴を聞いた。
『そいつは無理だね。オレの仕事を奪われちゃ困る』
『黙って命令通りにしろ。邪魔なんだよ』
押し殺した声でそう吐き捨てる。
そう、邪魔だ。誰も彼も皆邪魔だ。誰にも頼ってはいけないのが党首。頼られるのが党首。いつまでも周りの有能さに甘えていた自分が愚かだったのだ。
だから、誰の力も使わない。
『ボクはボクの力だけで自分の不始末を片付ける』
『あーあー、悪い癖だぜ、主人格サマ。そんなだから姉上サマに手痛い評価されちまうのさ』
『うるさい。そんなに姉さん姉さん云うなら、いっそ姉さんの護衛になれば――』
なればいい、と云おうとしたところで、強く腕を掴まれた。ずっと俯いていてろくに目にしていなかった、マリクの顔がすぐ目前に迫っていた。
見たことも無い表情をしていた。目も口元もいつもどおりにだらしなく笑っているのに、どこか違う。矜持を傷つけられたような、まるで鏡を見ているような、そんな感覚がした。
同じ色をした紫の瞳。目の奥だけは笑っていない。
『冗談だろ、主人格サマ』
爬虫類に似た舌で唇を舐めて、マリクは云う。
『オレは別に、イシュタール家の奴なら誰でも良くて護衛をやってるんじゃねえぜ。あくまで主人格サマの影としてここに居る。そこんとこ、忘れてほしくないねえ』
『っ……』
『オレの力は、主人格サマの力だ。リシドとも姉上サマとも立場が違うって、ちゃあんと分かってくれてるかい? もともとオレは『主人格サマの代わりに』なるはずだったんだ。あっさり解雇だなんて寂しいことはしてくれるなよ』
腕を掴んだ手のひらに、ぎり、と強い力が籠った。
ナムでは決して得られない、男のみが持つ恵まれた腕力。女ではどんなに求めても手に入れられず、癇癪を起していた歳若い頃の自分を、ナムは苦々しく思い出した。
その力は、意図しない形で手に入れた。マリクという存在自体がナムの腕となり足となった。嬉しくて悔しくて、その時も複雑な喜びを感じたものだと思う。今この瞬間と、まったく同じ感情だった。
『……お前は』
絞り出すような声で云う。マリクの目はナムだけを見ていた。
党首でも、一族の主でもなく、ただの一人の人間としてのナムを見ている。
何故だろうか、胸のあたりが、ぎゅっと痛んだ。
『お前は、ボクの命令には何でも従うのか』
『勿論』
『どんな汚いことでも?』
『今更』
淡々、と、当たり前のことに応える様子でマリクは首肯した。
オレの力は主人格サマの力だ。その言葉が、じわりと染みる。たった一人で、誰も巻き込まず――何せ相手はバクラ率いるゾーク・ファミリーである――全ての落とし前をつけようと思っていたけれど、彼は、彼だけは、連れて行ってもいいと思えた。
これから自分がしようとしていることは、間違っているのかもしれない。相反して、間違いなどないとも思う。自分はマフィアで、血の掟の中に生きる者。屈辱には屈辱で返し、己に刃向かう愚かさを知らしめることが正しいのだと、頭の左右で全く違う言葉が点滅する。
少しだけ逡巡し、やがてナムは選んだ。
そして姉に、イシュタールに告げる。
――試すなら試せばいい。ボクはボクの思う通りに、この不愉快な謀略に相応の終止符を打つ。
腕を捕える手を外し、ナムは爛々と光る眼をマリクに向けた。
『それなら、お前は――』
下した命令に、マリクは笑った。仰せのままに、と。
そうして、彼は命ぜられたままに連れてきたのだ。あの写真に写っていた、バクラに良く似た女――ゾーク・ファミリーのボスが寵愛する情婦を。
その女はナムの目の前で、今まさに意識を取り戻そうとしていた。