【♀】ヒキガネ 06-05 / LadyPanther and WhiteKitten.
女の腕は細く、掴んだらそのまま折れてしまいそうなくらいに脆かった。
マリクは女という生き物を二人しか知らない。ナムとイシズ。それ以外の雌はその他大勢の扱いで、正直、どれも同じ顔に見える。そんな彼であるから、まずターゲットの顔を覚えることから始めた。
ナムが昏い光を目に湛えて口にした命令は、バクラの情婦を捕えること。
酷く簡単な、それでいて退屈な仕事だった。死体を連れ帰れ、処刑しろ、ではなくて飽くまで生け捕り、餌なのだとナムは云う。
大男を連れて呑気に買い物をしている最中に、目を盗んでかっ攫ってやった。どこに向かっているのかは分かっていたので、雑貨屋のドアベルが鳴る前に腕を掴んで非常口へ引きずり込んだ。暴れた女には少々痛い目を見てもらったが――生け捕りとはいえ多少の傷なら構わないというナムの命令だ。故にマリク準拠での多少、でもって暴力を行使したら、目を閉じて動かなくなった。もっともあんな紙のような白い肌、傷つけたところで楽しくもなんともなかったが。
女を抱えて非常口から逃走。その時間は五分もかかっているまい。リシド程ではないが隠密行動もきちんと躾けられてきたマリクである、造作も無かった。非常口に張っていた蜘蛛の巣が髪に絡んでも小さい蜘蛛が口に入っても、特に気にすることではない。
(なんとまあ、あっけない作業だ)
女をナムに献上すると、彼女は相変わらずの鬱屈した炎を抱いて、下がれとだけ云った。
ここから先はスタンドプレイで行きたいらしい。なればその通りに致しましょう、と、マリクは人っ子一人いない雨の倉庫街を、傘もささずにパーカーだけ被ってぶらぶらしている。これも一つの『護衛』のうちだ。
(つまんねえなあ)
――と、アスファルトにずりずりと足裏を擦りつけるだらしない歩き方をしながら、マリクは思う。
気は進まなくても仕事は仕事。
それに、ナムは今明らかに精神を乱している。
己のやっていることの重大さを理解できないほどに頭に血が上っている。そんな彼女の共犯者でいることは楽しかった。綺麗な顔を歪ませて激情に振り回され、当り散らす己が主を見ていると、ぞくぞくと背中から興奮する。きっとこれがイトオシサというものなのだろうとマリクは思った。
普通、を、知らない。
一般論、にも、興味が無い。
自分にとっての当たり前が他人にとってそうではないことだけは自覚している。そんな中で唯一、このアイジョウとかいう感情が、自身の持つ一般的な感情なのだろう。
負の感情に振り回されるナムを見ていると興奮する。性的にすら欲が滾る。心臓を鷲掴みにされたかのように鼓動が高ぶる。ほらこれが普通だろう、そうさオレは主人格サマをアイしているんだ――彼はそう認識していた。
苦悩。懊悩。涙。怒鳴り声。八つ当たりに暴力。ああ、全てがイトオシイ。
それすら歪んでいることに、マリクは一切合財気が付いていない。ひずんだ男は鼻歌交じりに水たまりを蹴飛ばし、雨の倉庫街を徘徊する。
その背中へ、
「――よお、イシュタールの犬」
同じように傘をささない盗賊王の声が、静かに投げつけられた。
◆
了の目に最初に飛び込んできたのは、濡れたアスファルトの地面だった。
続いて黴臭いにおい。頬を押し付けた箇所のじっとりとした湿気。痛む肩、手首。
五感が順番に覚醒し、了は細い息を吐いた。ひゅう、と木枯らしのようなその音すら、この場所は鋭敏に響かせる。
暗くてよく分からない。点滅する橙の灯りだけが頼り。
状況がつかめないまま呆然としていると――こつん、という音と共に、視界に靴先が入り込んだ。
「手荒な真似をして悪いね」
声が高いところから降ってくる。了は首を持ち上げてそちらを見、初めて、自分が両手足をくくられて、硬い地面に転がされていることに気が付いた。
見上げた先には逆光を背負った黒い人影。声質で、相手が女性だということを理解する。
「……だれ?」
了の誰何に、彼女は陰惨じみた笑みを浮かべた。
「ボクはナム。バクラの知り合いさ」
彼女の、ナムの口振りはそうと分かるほど皮肉に満ちていた。
目が慣れてくると漸く分かる。彼女は黒いスーツに身を包んだ、背の高い女性だった。肌や瞳の色は盗賊王とよく似ている。醸し出す異国の雰囲気にも近いものがあった。
けれど彼女そのもの、内側から滲んでいる気配は、バクラとよく似ていた。人を寄せ付けない、奇妙な壁――そして硝煙の匂い。
ナムはくるりと踵を返し、近くに転がっていたドラム缶の上に腰かけた。
「いや、ゾーク・ファミリーのボスの知り合い、かな。何せ彼は、個人としては一切関わり合いになりたくないタイプだから」
「ゾーク……? 何それ」
「あれ、知らないのか」
全く聞いたことの無い単語に首を傾げた了を、ナムは意外そうな瞳で眺めた。
その目にあるのは熾火のような感情。そして、了の知らないことを知っている、それを暴露する喜びに満ちた加虐の色でもあった。
「知らないであいつの情婦をやってるなんて、呆れるね。それともキミの前では優しい男だったのかな、バクラは」
だとしたら実に気持ちの悪い光景だ。
その言い草に、了は不快に眉を寄せた。一体何なんだこの人は、バクラがどうとか、ゾーク何とかとか、意味が全く分からない。
ただ、直感的に理解していた。やはり彼女はバクラと同じ種類の人間だと。
纏う服装が似ている、なんてそんな単純な理由ではない。スーツ姿の人間なんて街中に溢れている。長く長くバクラと一緒に居た了だから分るのだ。
「キミは…… 何なの。ボクはどうしてこんな恰好になってるの、バクラに何の関係があるの」
「質問ばっかりだな。まあいい、教えてあげるよ。何せキミは何も知らないようだからね――了、だっけ? 可愛らしいお嬢さん」
「!?」
相手が名前を知っていることに了は驚く。バクラの知り合いならおかしくはないのかもしれないが、第一その知り合いというのだって一体どんな。ああもう意味が分からない。思考が状況にちっとも追いついてくれない。腕の痛みも考えることを邪魔してくる。
歯痒い了の前で、マリクは笑った。
暴露の悪魔に魅入られたような、ぞっとする笑みだった。
「バクラはゾーク・ファミリーのボスだよ。俗に言うマフィアだね。無論ボクもその一人さ」
「マフィア……」
混乱する脳に、ナムの言葉が突き刺さった。
まるで針が通過するように、その四文字が頭の中で響く。マフィア――それが何なのかくらい、了とて知っている。この街で生きていればいやというほど耳にする単語だ。大抵は悪評の中にあって、暴力事件や賭博、傷害、強盗、酷い時は殺人まで。女子供が夜に一人で出歩くことを恐れるのは、彼らが夜の闇に生きるものだからだ。
バクラは云った。あんまり外をぶらつくな。
こうも云った。最近物騒だから。と。
その物騒そのものが、バクラだった。そういうことに、なる。
「案外驚かないんだね」
ナムが薄い笑みのままで云う。それとも、怖くて声も出ないのかな。と。
(そうじゃない)
恐怖だとか、驚愕だとか、衝撃的な感覚ではなかった。
ああ、そうだったんだ――
そんな風にすんなりと、真実は了の胸に収まった。
バクラの仕事。何をしているのか教えてくれなかった。何度問うてもはぐらかされて、昼夜関係なく出て行って、時には数日返ってこない日もあった。そうして月に一回、まとまった金を了に投げてよこす。
隠し事。
曖昧なままにして、了は知らない振りをした。きっと良くないことだと云う予感だけはあったから、知りたくなかったのかもしれない。無関係でいたかったのかもしれない。了自身のささやかな道徳心を侵すくらいの悪事をしていたなら、きっと彼と仲違いをしなければならいと思ったから。
それに――ああ、それに。
その秘密は、本当は、バクラの口から云って欲しかった。
「どうしたんだい、悔しそうな顔して。普通なら泣いたり嘆いたりすると思うんだけど」
ナムの笑みが薄れ、不機嫌な様子がにじみ出てくる。
彼女はきっと詰りたかったのだろう。何も知らない了に隠された真実を広げて見せて、そして混乱する様子を目にしたかったのだ。そう思わせる程度には、彼女の目は黄昏に染まっていた。
「つまらないな。――まあ、キミの気持ちなんて心底どうでもいいけど。
続きの質問に答えてあげるよ。キミがそうやってそこに転がってるのは、餌だからさ」
「餌……」
「バクラを呼びだす餌だよ。あいつはどうにも融通が利かないからね、向こうから来てもらえるように、おいしい餌を用意することにしたんだ」
「……バクラに何かするつもり?」
「冗談。何かされたのはこっちの方だ」
途端、ぎろりと鋭い紫が了を射抜いた。
何とか強気を保とうとする了を怯ませる恐ろしい視線は、怨嗟に満ちていた。綺麗な顔立ちをしているのに全てを台無しにして、ナムは唇を歪ませる。
こんな顔をさせるほどのことを、バクラはしたのだ。
そして、その餌に了は酷い目に遭っている。攫われたその時、後ろから音もなく忍び寄った影に口元を押さえつけられた。誘拐者は笑っていた――一瞬、犯人はナムかと思ったが、口を覆った手は男のそれだった。
その男に首の後ろを叩かれ、そして意識を失った。怖かった――本当に、自分は死ぬんだと衝動的に思った。
今更その恐怖が甦って来、了は小さく震えた。目ざとく見つけたナムが瞳を細め、怒りの意を少しだけ和らげる。
「キミに恨みはないけれど、利用させてもらうよ。大丈夫、殺したりはしない。キミもバクラもね」
「バクラに何をさせようとしてるの」
「大したことじゃない。謝ってほしいんだ、ボクの溜飲が下がるまで誠心誠意、心を込めてたっぷりとね」
ナムは了から視線を逸らし、長い睫を薄く伏せて云った。
「云っておくけど逆恨みとか下らない理由じゃないよ。最初にボクを騙したのはバクラだ。これは正当な報復行為だ。何も間違ってない――何も」
その言葉はまるで、己に言い聞かせているかのようだった。
整った褐色の指を曲げ、口元に押し当てて呟いている。ボクは間違っていない、正しい、そうやって自己暗示を繰り返す横顔は、怨嗟のそれよりも恐ろしかった。
了の背中に冷たい汗が這う。この人はどこかおかしい。
バクラも盗賊王も勿論おかしいし、そんな彼らを愛している自分も頭の螺子がいくつか外れていると思っているけれど、そういう意味ではなく、彼女は危険だと了の本能が告げている。
ナムをバクラに会わせてはいけない。
バクラの為ではなく、バクラを失いたくない自分自身の為に、了は震える唇を奮い立たせた。
「バクラは来ないよ。来るわけがない」