【♀】ヒキガネ 06-06 / LadyPanther and WhiteKitten.
拳を叩き付けるのはもう飽きた。バクラはフィアット500のハンドルに頭を持たれ掛けさせて、忌々しげに溜息を吐いた。
頬を殴り強く云いつけた程度で、盗賊王が大人しく云うことを聞くとは思えない。ついてくるなと念を押したが、恐らく彼は、これからバクラが向かおうとしている場所を目指すだろう。
バクラの部下にして相棒である盗賊王は、馬鹿だが愚かではない。自分のやり方でもって不始末のカタをつける為、ボスの命令を違えてでも動くはずだ。手紙には墓守の蝋印があった。真っ赤な手がかりひとつあれば、あの男は犯人へとたどり着く。
それならばいっそのこと露払いをさせよう――そう思いつき、バクラはすぐに指定の倉庫街を目指さずに、裏路地で車を停めた。
フロントミラーを滝のような雨が滑ってゆく。今頃盗賊王は、歯軋りしながら町を駆けている頃だろうか。足になるものは現在バクラが乗っているフィアットしかない。この雨の中さぞかしずぶ濡れになって居るだろうと思うと胸がすいた。
だが、それもほんの僅かだ。胃の中は不愉快に満ち満ちている。
護衛も満足に出来ない盗賊王。あっさりと奪われた了。そして、蝋印の主、ナム。
(あの女、本当にお飾りだったみてえだな)
苛立つ思考を無理やり切り換え、冷静を己に強いる。これから相対する敵のことを考えた。
ヒステリックで、未熟で、矛盾していて始末に負えない。それでもイシュタールのボスを務めようと必死になっている女、というのがバクラの認識だった。だからこそ使い甲斐がある。イシュタールへの並々ならない思い入れを盾に鉾に変え、都合のよい同盟相手として操ってやろうと手を組んだのだ。
それがどうだ。こともあろうに了を攫ってバクラを呼びだした。
バクラを呼びだした理由は、先日のゾーク・ファミリーの一件以外にない。ことが露見すればトラブルは免れないとは思っていたが、その為の先制攻撃だった。だが了にまで手を伸ばされるのは計算外だ。そこまで馬鹿な女だと思っていなかった。お世辞にも、第二勢力の巨大ファミリーのボスと思えない。木端マフィアが金欲しさに誘拐事件を起こすのと何ら変わりがないではないか。
その程度の組織ならば、手を組む利などどこにもない。
もし了に危害が加えられ、万が一、命を奪われていたとしたら――間違いなく、全面戦争の火種になる。
己が女一人で巨大勢力とぶつかりあうなど、人は笑うだろう。
バクラにとって了の存在はただの女ではない。そんな軽いものだったら早々に切り捨てている。仕事を隠し、邪魔だと思いながら傍に置いているのは、理由がある。
――十の頃、父親が失踪した。
小さな会社を経営し、古物商としてあちこちを飛び回っていた柔和な父親のことを、バクラはよく覚えている。しょっちゅう海外に出向いては子供のように無邪気に発掘作業に加わったり、得体の知れない古物を仕入れたり、出向いた先で腹違いの妹を作ったり。双子は愛されていたけれど、父親としては失格だったと今は思う。
父親の商売は富裕層にとても受けが良かった。金持ちは古き良き装飾品が高価であるというだけでこぞって購入し、良し悪しも分からず飾るもの。この街の金持ちといえばマフィアの幹部やら、息のかかっているものが殆どだ。そんな連中にも、父親は分け隔てなく、足元を見ずに商売した。どんな人のところへ買われていっても、古物の価値に変わりはないと云って。
貧乏人の穴倉のような住処に飾られても、大豪邸の広間に飾られても、輝きは変わらない。
そう云って壺を磨く、変わった父親だった。どちらかというと了に似ていた。
そんな父親が妹を連れ海外へ行ったきり戻らなくなった時、小さな会社はあっという間に倒産した。残ったのはわずかな財産と双子だけ。その頃には街の暗部に詳しい者と会社の繋がりもずいぶんと色濃くなっており、彼らは気まぐれに、双子に物を恵んだり食べ物を差し入れたりしていた。
そして、とうとう生活すら苦しくなった頃。齢十三になったばかりの頃だった。
バクラは初めて仕事をした。
自分の身体に換金価値があるということを、初めて知った。
金に困った子供が行き付く場所など、いつも同じだ。出入りのファミリーの一人がバクラを斡旋し、身体を売った。屈辱だった。他人に身体を良いようにされるなど、絶対に御免だったというのに。
だが、何も知らない了は笑っていた。金を持ち帰って、二人で久々に、暖かい食事を取った。
『ありがと、バクラ』
その時の笑顔が忘れられない。
ああ、自分にはもうこいつしか残っていないんだと思った。幼い愛情が依存に差し替わったのは、恐らくこの瞬間だったのだろう。
暗部に足を一度踏み入れたら、あとはもう落ちるだけだ。バクラは了へ一切の真実を隠して暗躍し始めた。身売りからマフィアの下っ端に、それから力をつけて、そうして、ゾーク・ファミリーと呼ばれる組織を作り上げた。
成長するごとに、破壊衝動も育った。微温湯を生きている人間が気にくわない。皆争えばいい。街じゅうが無法地帯になったらさぞかし楽しいだろう――そして、そんな荒廃とした街を支配できたら、とんでもなく気持ちがいいだろう。そんな風に思うようになった。
守るためから、破壊するために。
目的は変わったけれど、全ての始まりは了だった。
バクラにとって了は水や空気と同じで、別段意識せずともそこにあって当然の存在だった。面倒くさくても人は酸素が無いと生きられないように、邪魔だろうが何だろうが、了はバクラの隣にいなければならない。
故に、もしも失われるようなことがあれば――容赦なく銃口を向けるつもりだ。
間抜けなイシュタールのボスの額に風穴を空けてやる。少しは頭が冷えて丁度いいんじゃないかと、バクラは一人陰惨に笑った。
雨足は更に強くなっている。指定の時間が近づいてきたことを知り、バクラはハンドルから身を起こした。
目指すは倉庫街。そこにナムと了が居る。
イシュタールの縄張りの真ん中へと、フィアットは滑るように走り出した。