【♀】ヒキガネ 06-07 / LadyPanther and WhiteKitten.
相手がろくな武装をしていないことに気が付き、盗賊王はふうんと鼻を鳴らした。
「イシュタールにも面白い奴がいるじゃねえか。やっぱ喧嘩は身体でやってナンボだよなあ」
ぐっしょりと濡れたモッズコートを脱ぎ捨て、盗賊王の手はリヴォルバーではなく腰の後ろのナイフホルダーに伸びる。銀色の留め金を外し、くるりと一回転させてから左手で構えて右手を添えて。
ぴったりとした黒のVネックシャツに雨が染みていく。ワークパンツはすぐに色を濃く変え、雨の分だけウェイトが増える。それすら好都合、体重を乗せた重量感のある拳こそが彼の最大の武器だ。足場の悪さも、裏路地を逃げ駆けた経験のおかげで弱みにはならない。
対するマリクもにやりと笑い、しかしパーカーのポケットに突っ込んだ両手を抜かないままだった。代わりに擦り減ったスニーカーの足裏で、転がっていた錆びた鉄パイプを踏みつける。てこの原理で跳ね上がったそれを掴む時に、初めて片手を引っ張り出した。
「誰かと思ったら、あの女と一緒に居た奴か。でもお前はお呼びじゃないぜえ」
鉄パイプで肩を叩き、弛緩した口調でマリクは云う。
「主人格サマがお求めなのはゾークのボスだ。お前は要らない」
「そんなこたあ分かってんだよ。オレ様だってイシュタールの雌猿には興味ねえ」
ぴくん。
盗賊王の挑発に、マリクの眉が跳ねあがる。
「よく聞こえなかったなァ。主人格サマが何だって?」
「雌猿っつったのさ。ゾークの女に手ェ出すなんざ、正気の沙汰とは思えねえ。よっぽどのバカ女か死にたがりかのどっちかに決まってる。
――何だ、てめえの女貶されて怒ってんのか?」
だとしたらお前も相当な色惚け猿だな。
暴言は続く。激しい雨音でも掻き消せない嫌味な言葉の羅列に、マリクの表情がすう、と変わった。
軽薄な笑みが薄れ、代わりに嗜虐の表情が浮かぶ。肩を叩くパイプが動かなくなり、ぐるんと首が半円を描いた。
すわりの悪い首が収まった時、目には生ぬるい殺意が浮かんでいる。
矜持を傷つけられた不愉快に、しかしマリクは笑っていた。きっと感情の全ての基本が笑みなのだろう。敵意で哂い、悪意で嗤う。楽しげに、憎々しげに。
相手の挑発はお手の物である。盗賊王もまた笑みを浮かべたまま、じりりと距離を詰める。
マリクのことは、存在だけはよく知っていた。常にナムと共に行動しているイシュタールの狂犬、恐ろしく鼻の利く危険人物とバクラが口にしていた。
そして、先程の言葉――あの女と一緒に居た、と聞いた時、了を連れて行ったのはこの男だということも理解した。
事実ひとつあれば、刃を向けるには十分だ。既に火種は弾け、導火線を舐めている。了を攫われた責が己にあるのならば助け出すのもまた自分でありたいが、その役目はこの身に課せられていない。今頃ここに向かっているであろうバクラ――否、ボスの仕事だ。
ナムはバクラを呼び出し、何がしかの交渉に了を使う心算だろう。その時にこの男がナムの傍に控えていたら何かとやりづらい。それならばこの場で足止めという名を借りた個人的なお礼を叩き付けてやった方が好都合である。来るなとバクラに云われたが、云ったバクラ本人とて、盗賊王が大人しく云うことをきくとは思っていないだろう。伊達に長年、片腕を務めさせていただいている訳ではない。
頭の片隅に、了の安否がちらつく。すぐさま駆け出し、了を探したい気もある。
だが、そんな格好悪い真似を男がするものではないとも思った。
(オレ様が惚れた女がそうそうくたばるわけねえだろ)
第一あいつは呆けた見た目の癖に妙に頑固なのだ。ナムが手こずる顔が目に浮かぶ。すこぶる愉快な様子だった。
盗賊王は信じているのだ。了がそこいらの一般人の小娘のように泣き叫んで利用され、最後には始末されるようなつまらない女ではないということを。
故に、今集中すべきは可愛いいとしい女のことより、目の前で牙をむき出した狂犬一匹。
「主人格サマを馬鹿にするってのは、オレを馬鹿にするってことと同じだぜ?」
ぶん、と、雨風を切る鉄パイプ。アスファルトを掠めて火花を散らす。
「で、オレを怒らせた奴は全員例外なく肉達磨になるって決まってる。
――さァ、まずはどっからがいい? 腕か? 足か? それとも股にぶら下がってる×××かい? ミンチになるまですり潰してやるよォ」
口汚いスラングを吐き出して、マリクはげらげらと笑った。それからぐっ、と膝を曲げ――体格からは想像がつかないほどの跳躍力で、一気に間合いを詰めてきた。
雨の紗幕の力で霞む視界に、マリクの笑みが肉薄する。右端で風切り音。咄嗟に頭を縮め、横凪の一撃をやり過ごす。同時に隙だらけの軸足へ足払いを狙う。
しっかりとした手ごたえがあった。が、マリクはにへらあと嫌な笑みを浮かべ、力に逆らわずに身体を横に流した。すかさず叩き込む拳は、しかし雨を蹴散らしただけ。鉄パイプを支柱に見立て、見たことも無い回転する身体捌きで、マリクは盗賊王の攻撃を受け流した。
「っ……」
即座に襲いくる、側面からのハイキック。肘で受け止め、回転してもう一撃。重さはないが、的確に頭を狙ってくる。
滅茶苦茶に鉄パイプを振りかざして来た時はそこいらのチンピラのようながら空きの動き出会った癖に、急に捌き方が変化した。恐らくマリクはきちんとした体術を身につけている。ただの特攻馬鹿だと思っていたが、これは考えを改めた方がよさそうだ。
盗賊王は技術的な体術の手ほどきを受けたことが無い。クル・エルナ・ファミリーで喧嘩に明け暮れて覚えたスラム式の乱闘術が武器だ。対多数ならともかく、一対一では不利を感じる。特にこんな、きちんとした体術をつけた動きをする相手には。
(相性最悪じゃねえか)
バックステップで距離を取り、盗賊王は舌を打つ。相手は猿ではない。そして、見た目ほど重さが無い。
ウェイトとスタミナではこちらに分がある。ならば多少のダメージ覚悟で懐に飛び込んで顎狙いだ。愛用のナイフは刺す斬るよりも牽制に。使用するなら柄での一撃が有効。
思っていたよりも手こずりそうな状況に、しかし唇は吊り上っていた。
(久々に楽しくなってきやがった)
最近どうにも平穏で、小競り合いといっても雑魚ばかり。飛び道具ばかりでまったく粋ではない。遠くから狙って撃って何が楽しいというのか。矢張り喧嘩は身体でやらないとつまらない。
そんな純粋な闘争の楽しさに瞳を輝かせているのは、どうやらバクラだけではないらしい。悪意を滴らせていたマリクの横顔にも、先程とは違う色が滲んでいた。
「愉快愉快。こいつは楽しめそうだねぇ」