【♀】ヒキガネ 06-08 / LadyPanther and WhiteKitten.

「――来ない、だって?」
 了が口にした言葉に、ナムはゆるりと顔を上げた。
「笑えない冗談だな。何を企んでる?」
 たった今、そう、ほんの数秒前まで怯えの色を濃く刻んでいた青い瞳。その目はまだ状況に恐怖しながらも、まっすぐにナムを見上げている。白い髪を散らばせ、四肢の自由を奪われてなおこのような表情を浮かべられることに、ナムは少なからず驚いていた。こちら側の人間ならまだしも、この了とかいう女は日の当たる場所に生きている人間だ。こんな覚悟めいた顔付きができるような、強い意志を持っているようには見えない。
 何を企み、どうしようとしているのか。
 見極めるべきは相手の裏側。そんなばればれの嘘を吐き出すその理由。
 バクラがここへたどり着く前に懐柔しようとしているのか。もしそうなら見上げたものだ。ただの女がマフィアの党首相手に説得など、どんなに弁が立っても不可能に決まっている。
 ナムは足を組み替え、余裕の表情でせせら笑って見せた。
「云っておくけど、もし万が一その通りだったとしても、キミを無事で解放する理由にはならないよ。髪の一房じゃ足りないなら、次は耳か指か――命に関わらない部分をプレゼントするまでさ。どれだけキミが小さくなったら、バクラは来てくれるだろうね」
 脅しではない。イシュタール・ファミリーは勢力が大きくなってからはそのような血腥いやり方から遠ざかっているものの、ナム直下のグールズ・ファミリーは指折りの武闘派集団である。時には暴力の差を見せつけるべく、残虐行為も躊躇わない。その統率者であるナムもまた、自らの手を血で染めることを恐れなどしないのだ。
 了は唇を噛み、震えを抑えようと自らを奮い立たせている。少し突けば折れる――所詮は一般人、すぐに命乞いを始めるだろう。余裕の表情は揺らぎもしない。
「……ボクとバクラは、小さい頃からずっと一緒に居たんだ」
 唐突に、了はそんなことを呟いた。青い瞳をほんの少し、郷愁めいた風に細めて。
「天音と父さんがいなくなってからも、バクラだけはそばにいてくれた。酷い奴だし、口も性格も悪いけど、絶対にボクを一人にはしなかった」
「へえ。ならやっぱり来るんじゃないかい? キミはゾークのお姫様なんだから」
「違うよ。絶対に来ない」
 話が見えなくなってきた。ナムは訝しげに眉を寄せる。
「ボクが頼んだんじゃない、あいつが勝手に、ボクに何もさせないようにしてたんだ。閉じ込めて、嘘ついて、マフィアをやってることだって秘密で、何して稼いでるかも知らなかった。
 すごく楽だったけど、つまらないとも思ってたよ。外の世界が知りたかった」
「意味が分からないな。要は囲われていたってだけじゃないか」
「家族だから」
 かぞく。
 小さな唇から発せられた言葉は、ナムの鼓膜に染みるように沈んだ。咄嗟に浮かびそうになる姉やリシド、マリクの顔――ナムは首を振って、不必要な回想を打ち払う。
 関係ない。今、自分の家族のことは関係ない。話しているのは了だ。
「家族だから、たった一人の双子の片割れだから、嫌で嫌で仕方なくても、ボクを養わなきゃいけない。閉じ込めたのは、ボクが一人であちこち歩き回って、これ以上面倒くさいことにならないようにしたいから。そう思ったから、だからボクも、大人しく云うことを聞いてた」
「その話、今何の関係が――」
「でも、それが違うって今は知ってる」
 遮られる。
 何なんだ、この妙な独白は。
 了の目はナムを見ながら、別のどこかを見つめていた。それはバクラなのかもしれないし、バクラの右腕の男かもしれない。いずれにしても恐怖は薄れ、長く語れば語るほど、青い瞳は澄んで行った。
 適当なことを喋って場を持たせ、何かを待っているのか。もしや既にバクラがこの倉庫内に忍び込んで、二人は共謀して奇襲を狙っているのか? 咄嗟に気配を探るが、水が滴る音と窓を打つ雨音しか聞こえず、部外者の存在も感知できない。
 そんなことがあるわけがない。もし定刻を守らずバクラがここへ着いたとしても、倉庫の周りには鼻の利く番犬が付いている。バクラが来たら即連絡を入れるようにと命じた。左耳のインターカムは沈黙したままだ。ならば番犬に――マリクに何かあったか。それもあり得ない。あの男が誰かの手に落ちるなど、ナムは今まで見たことが無い。
 ざわざわとした落ち着かなさが、喉の奥を詰まらせる。
(計画通りだ、何も問題ない)
 それなのに何故、こんなにも不安に陥っている?
 瞳を左右に泳がせ始めたナムに気が付かず、了は尚も唇を開く。誘拐されている人間が出して良い声ではない、どこか遠くへ向けた言葉を。
「あいつはボクを外に出したがなかったのは、ボクの為だって。家族だとか関係なく、ボクを、守ろうとしてくれてたんだって、もう知ってる。こんなことになったのはバクラの所為じゃない。ボク自身の所為だもの」
 街の暗部で生きてきた者に、そんな甘ったるい関係性など通用するものか。こんな茶番に心を揺らされるべきではない。散らばる思考、そんな気持ちの悪い馴れ合いなど聞きたくない。
 耳にしたくもないのに、声はよく響いた。
 それなのに了はまだ続ける。ただの一般人が、マフィアのボスを相手取って。
「きっとバクラは怒ってるよ。ボクが勝手なことをして、捕まって。折角守ってやってたのに自分から危ない目に遭いに云ったって。
 そんなボクを、バクラが助けに来るわけがない。たとえ耳や指を切り落として送りつけたって、絶対に来ない。
 バクラは、きっとこう云うよ。
 ――自分の不始末は自分で片付けろ、って」
 きっぱりとした、それは断言だった。
 でまかせだというナムの主張が、この時初めて――ぐらりと傾いだ。
(違う、こんなのは狂言だ。ボクを惑わそうとしている)
 ナムは青い目から瞳を逸らし、首を振って否定した。
 守る? あの男に限ってそんなことがあるものか。了の云っていることは彼女自身の願望を決めつけているに過ぎない。そうあって欲しい、愛する男が、己を守ってくれていたんだという都合のいい妄想を並べているに過ぎない。
 バクラという男を、ナムはよく知っている。正真正銘のトリガーハッピーで、その癖頭が回って常人ぶる、厄介な同盟相手。それだけだ。暗部に生きる人間が誰かを守りたいなんて思うものか。
(――だったら来ないんじゃないか?)
 ナムの頭の中で、ナムの声で、唆すような疑問が湧いて出た。
 守らないなら、来ないんじゃないか。人質なんか意味ないんじゃないか。バクラがナムの思う通りの人でなしだったら、自分の女がさらわれた程度で足を運ぶだろうか。捨て置いて――否、逆にこの状況を利用して、イシュタールに不利な状況を作るべく画策するんじゃないだろうか?
 そういう男だと、ナムは身を以てよく知っているではないか。どうして自分は、人質を取るだなんて生ぬるい方法を選んで、それが成功すると思ったんだ?
 どうしてそんな単純なことに気が付かなかったんだ? イシュタールの党首が、このような――少し考えればすぐに思いつきそうなことなのに。
「ちがう、ボクは」
 小さく呻く。頭を押さえて首を降るナムを、了は訝しげな目で見上げていた。
 ナムが知るバクラ像と了が語るバクラ像は、一致しないようで一致している。了が正しければバクラは来ず、否定しても結局、ナムの思うバクラが正しければ彼は来ないのだ。揺らぐ心に合わせて、急速に指の先が冷えていく。
(違う、騙されるな。ボクは正しいことをしてるんだ)
 ナムはぐっと、腰に吊ったホルスターを押えた。
 イシュタールの党首が代々受け継いできたその銃には、背中に彫った党首の証同様の紋様が刻まれている。これを手にしていることこそが、イシュタール・ファミリーの統率者の証。そう、自分は党首として正しいことをしているのだ――そう言い聞かせる為に強く握ったグリップは、氷のように冷たかった。
 冷え込んだ空気の所為だ。それなのに非難された気分になる。
 間違っている、と云われたような気がした。
 イシュタールのボスとして、やって当然の報復活動。それがただの大義名分だと、言い訳だと誰かが頭の中で云った。
(報復? 一般人を巻き込んで、人質にして脅すことが?)
(どうしてボクは、彼女を連れてこいとあいつに命令したんだ?)
 分からない。自分自身が、分からない。
 かたかた震える右手を左手で隠す。こんな無様な真似を見られて付け込まれてはたまらないと、了に見つかる前になんとか震えを押えた。
 脳裏に甦るのは、書架での出来事だった。
 叩き付けたファイルから零れた了の写真。幸せそうに笑っている横顔と彼女についての情報。マフィアの男を持ちながら、一般人として平凡に暮らしている。血腥さとは無縁で、静かに家で料理をしたり掃除をしたりするのが当たり前の生活。愛して、愛されて、穏やかに――か弱くて綺麗な、少女じみた了の姿を、ナムはどう思ったのだったか。
 微かに感じたあの苛立ちは。その理由は。
 平凡な女だと馬鹿にしながら、ほんの少しだけ、羨ましいと思ったのではなかったか――
「違う!!」
「っ……?」
 頭を強く振りかぶり、ナムは叫んだ。驚いた了が肩を震わせる。
 違う違う違う、そんなことは思っていない。こんなのはただの気の迷いだ。云い聞かせても一度撒かれた種はみるみるうちに芽を吹き根を張り、あっという間にナムの脳内を埋め尽くした。
 強くありたい。姉さんのように。そこらへんにいる女みたいに男に守られるだなんてまっぴらだ。ボクは一人でも生きていける。だってボクはイシュタールの党首なんだから――その想いで圧死させた幼い頃の記憶が枝葉となって伸びていく。
 少女であることを許されなかった幼い頃、男であれと育てられたあの頃。確かに殺したのだ、女と云う部分を――そんなものは要らなかったから。イシュタールの中で生きる為に何ひとつ必要ないのだから。
 厳しい父親の叱責。重たすぎたグリップ。血の臭いが嫌いだった。街を歩く度、すれ違う少女のスカートが蝶の翅のようにひらひらと翻るのが眩しかった。真っ黒のスーツが嫌で、あんな風に綺麗な恰好をして、リボンを揺らして歩きたかった。そんな少女時代が、確かにあったのだ。
 了は、そのすべてを持っていた。
 自分と同じようにマフィアの男を持ちながら、ナムにない全てを持っていた。
 悲しいくらい妬ましくて――憎たらしいくらい、羨ましかった。
(じゃあ、ボクがしたことは)
 脳内で整頓され、反論の余地もなく並べられた己の本音。ナムは愕然とする。
(ただの、子供じみた僻みで、バクラに制裁を与えようなんて、そんなのは全部建前だって)
(彼女のことが羨ましくて、彼女みたいになりたかったって)
 きっかけは確かにバクラだっただろう。全てが嘘ではなく、バクラの謀りが無ければそもそも起きなかったことだ。
 されど彼女を、了を無理やり連れ去ったことは、完璧に報復から逸脱している。
 決して私情を交えてはいけない、暗部の生き物が――日の光を妬んで手を出した。
 イシュタールの名が重荷だと思いたくなかった。それだけは、気づかない振りをしていたかったのに。
「……はは」
 乾いた笑いを漏らし、ナムはグリップから手を離した。
 体温を吸ってぬるくなったはずなのに、そこは依然冷たくて。自分が党首としてあまりにも至らず、あまりにも未熟であることを、認めないわけにはいかなかった。
 或いはイシズは、こうなることを全て予感していたのではないだろうか。
 試練。
 ナムは党首の器を試され、そして、了を巻き込んだ時点で、既に結末は決まっていた。