【♀】ヒキガネ 06-09 / LadyPanther and WhiteKitten.
どうすれば彼女を止めることが出来るのか。バクラと会わせずに済むのか。了は必死で考え、そして、来ない理由を懸命に並べ立てて見せた。
嘘はひとつも云っていない。もともと偽ることは苦手だ、不慣れな嘘などすぐに暴かれて逆効果を招くに決まっている。
バクラは来ないと思った。それは、来てほしいという願望とは全く別のものだ。
来るとしたら、バクラではなく盗賊王の方じゃないかと思う。彼と出かけていて連れ攫われてしまったとなれば、その方がよっぽど考えやすい。血の気の多い人だから、自分がこんな姿にされているのを知ったらものすごく怒るだろう。自惚れでもなんでもなく、深く愛されていることを知っているが故の予測である。
了は、誰にも傷ついて欲しくはなかった。バクラにも盗賊王にも、無論、目の前で何故か立ち尽くしているナムにも、だ。
争いや諍い、血が流れるのは嫌いだ。それは相手を慮っての意味ではない。単純に、自分の周りが穏やかではないのが嫌なのだ。了は自分のことをよそにしてものを考えることは出来ないし、自己犠牲もやり方すら分からない。そんな自分の性質を悪いことだとも思わない。
世の中にはたくさんの人がいて、己を優先する者、他人を優先する者、まちまちだ。それがうまい具合に重なり合って社会が成り立っているのなら、自分が変わる必要はない。
了は了の幸せの為に、言葉を連ねた。
ささやかな平穏を壊さない為に、バクラはここに来てはいけない。了は自分の力で、この状況を切り抜けねばならなかった。
(どうかバクラが来ませんように)
来て欲しいけど、助けて欲しいけれど、そういうことをする人じゃあないから期待するだけ無駄。今回ばかりはボクが悪い――
(……帰ったら、ちゃんと謝らなきゃ)
マフィアのボスを目の前にして、既に帰宅できることを考えられるこの精神。おかしいだろうか。矢張り螺子は二つ三つどころか大量に外れているのかもしれない。
楽観的だが、どうにかなると思っていた。
ナムも様子がおかしいようだし、何が効いたのか分からないけれど後もう一、二言来ないとゴリ押ししたら、案外縄を解いてくれるんじゃないか。
そう思って口を開いた時、がごん、と、倉庫の扉が開く音がした。
「ッ……!」
項垂れていたナムが顔を上げ、了の背後を凝視する。その瞳の様子で、了は恐れていた事態が実現してしまったことを悟った。
こつん、と響く靴音に聞き覚えがある。
バクラの革靴。踵を滑らせて歩く癖を、耳が覚えていた。
「バクラっ……!」
「うるせえ黙れ」
何で来たのばかじゃないの、という叫びは、底知れぬほど不快そうな声に気圧されて沈められた。こんなに不機嫌な声は聞いたことが無い。
了は思い知る。
ああ、これが、『ゾーク・ファミリーのボス』なのだと。
「よお、イシュタール。随分と舐めた真似してくれたじゃねえか」
物怖じせずに靴音が近づいてくる。地面に転がされた了は振り向くことが出来なかった。見慣れた爪先が視界の端を横切り、そして背中が――了のことなど顧みずにナムに向かって行く。
ナムは立ち尽くしたまま、バクラを眺めていた。
その目に狂気の炎は見当たらず、燻ってさえいなかった。
「もっとも、舐めた真似って思ってんのはそっちの方か? グールズのとのアレ、バレちまったんだろ」
「……ああ」
もう知ってるよ。
と、ナムは力ない声で云う。あれほど余裕の笑みを浮かべていたというのに、頬にはその欠片も残っていなかった。言うなれば自嘲と諦め、悲しげな表情が張り付いている。
バクラはそんなナムを視認して、少しばかり訝しく思ったようだ。距離を詰めるのを止め、裸電球を挟んで向かい合う。
「なぁに腑抜けた面してやがる。オレ様とやり合う心算なんだろ?」
「そう、だね。そのつもりだったよ。でももういいんだ」
云って、ナムは自らの手で腰のホルスターを外した。警戒するバクラの目の前で、黒革のそれをドラム缶の上に置く。闘争の意思がないことを、身を以て証明する動きだった。
「彼女を連れて帰るといい。部下との一件も、ボクから云うことはもう何もない」
「――何だって?」
「云った通りの意味だ。お前がボクを謀ったことは許し難いが、彼女は関係ない。さっさと連れて帰ってくれ」
バクラはまだ、腰のホルスターから手を離さない。警戒の目でナムを睥睨する。
「そう云われて、ハイソウデスカと信じられるとでも?」
「疑り深いな。ボクはもうお前とやりあう資格もないんだ。後ろから撃たれるのが嫌ならボクの手駒にもそう命令するよ――おい」
言葉の最後は、耳に装着したインターカムに向けられていた。赤いランプが小さく点いて、誰かと通信しているのが分かる。
「ボクだ。もう終わったから戻ってこい。……そうだ、交戦中? 知るか」
一方的な通信だった。ランプが消え、ナムはバクラを静かな目で見やる。これでいいだろう、と低い声で云って。
バクラは暫く腑に落ちない、という表情でナムを睨んでいたが、沈黙が長く長く過ぎると大きなため息をついて肩を竦めた。とんだ茶番だぜ。悪態をついて、そして漸く、了を見下ろす。
底冷えする、冷たい目だった。
「立て」
そう云われても、足首を括られているのだからどうしようもない。もぞもぞと芋虫のように身体を動かすと、再びの溜め息と共にバクラがしゃがみ込んだ。袖口から薄刃のナイフが現れ、手首を拘束する縄がぶちぶちと切断される。あとは自分でやれと云わんばかりに刃物を放られ、妙に鋭いそれに難儀しながらも了は足首を解放した。
立ち上がった時に、くらりと眩暈。長い間固められていた手足が上手くいうことをきいてくれない。
それでもバクラは振り向きもせずに、了を置いて出口へと向かって行ってしまう。もつれる足を叱咤し、了は慌ててその後を追った。声を掛けることも躊躇われるくらい、その背中は苛立ちを背負っていた。
「あ……」
何となく気に掛かって、了は外に出る前に一度だけ、ナムを振り返った。
彼女は寂しげな、空虚な表情でもって、去ってゆく二つの長い影を見つめていた。
(――どうして)
何故、ナムは急に争いを止めたのだろう。
あんなにバクラを憎んでいたのに、謝罪してもらうと牙を剥いていたのに、今は見る影もない。了が連ねた言葉のどれかが彼女の心を動かしたのは間違いないようだけれど、それがどれなのか自身にも分からなかった。
少しも歩くスピードを緩めないバクラを見失わないよう、了は小走りで背中を追う。考えごとをしながら歩いたら本気で置いて行かれそうだ。あまりにも矢継早にことが起こって頭が真っ白なまま、声も掛けられずにひたすらついてくしかない。
雨は止んでいたが、アスファルトは濡れていた。
水溜りを蹴散らして歩くバクラの横顔は、月が分厚い雲に隠れている所為で確認できない。怒っているのは分かる。それ以外の感情が燃えているようにも見えて話しかけづらい空気だった。
怒っている。
勝手に危ない目にあった了に腹を立てている。
それでも、迎えに来てくれたことは嬉しかった。本当は飛びつきたいくらいに嬉しい――なのに出来ない。翻るコートの裾さえ掴めない。
悲しいほど気まずい空気のまま、二人は倉庫街を後にした。
路肩に停められたバクラのフィアット。そのボンネットに腰掛けた盗賊王が、軽く手を上げて挨拶してくる。何故かあちこち傷だらけで、その癖ご機嫌な表情を浮かべているのが不思議だった。
◆
――そして。
「……よろしいのですか」
倉庫に立ち尽くすナムに、静かに掛けられる声。
振り向いたナムの目には、沈痛な面持ちで狙撃用のライフルを手にしたリシドが映っていた。銃口を下に向けて――だが、つい今しがたまで、それは自分の頭に照準を合わせていたのだろうとナムは理解する。
もしナムが、何の罪もない了を私情でもって害していたら、きっと撃たれていた。それが姉の命令だということも分かっているからこそ、リシドを責めたりはしない。
首肯の代わりに踵を返し、ナムはリシドと共に倉庫を出た。
シャッター脇には、負傷しつつも満足そうな様子のマリクが胡坐をかいて二人を待っていた。