【♀】ヒキガネ 06-13 / LadyPanther and WhiteKitten.
「……ばかじゃないの?」
「面目ねえ」
心底呆れました、という顔をする了に、盗賊王はソファにだらりと寝転がったままあまり心を込めずに答えた。
窓から差し込むオレンジ色の陽光。雨雲はすっかり消え去り、石畳の水溜りは微睡み始めた太陽を映して煌めく。嵐の過ぎたすがすがしい夕暮れ時である。
そう、夕方。
もう一日が終わろうとしているのだった。
「朝帰ってくるって云ってたのに」
軽く頬を膨らませ、了の手が硬い腿をぺしゃんと叩いた。ソファは寝転がった盗賊王が占領しているので、冷たいタイルの上にラグを引っ張ってきてそこへ座っている。膝の上には救急箱。あちこち打撲の痕が残る盗賊王の手当をしているのだ。
結局、マリクとの決着はつかなかった。
というか、お互い記憶が曖昧になるほど酒を浴びて有耶無耶になった。
酒に強い男同士の一騎打ちである。結果、互いに未曽有の泥酔を初体験することとなった。アンタたちいい加減にしなさいよと女主人に放り出されたところまでははっきりしているが、その後はぼんやりとした記憶しか残っていない。外に出た時点で既に明け方近くだった気がする。
それでも尚、つかない勝負に痺れを切らして、よしやっぱ殴り合いで決めようぜと訳の分からない第三ラウンドを持ちかけたのは向こうだったか。どちらだったとしてもお互いノリノリで同意したのだから同罪だ。
揃いも揃って泥酔状態。狙いも何も定まらず二人の酔っ払いは縺れて絡み合い、何故か訳もなくおかしくてしょうがなくて、顎が外れるくらい笑った。ゴミ捨て場に頭から突っ込んだり、振り回した木材的な何かで己の頭をぶつけたり。それを指さして爆笑した方が水溜りですっ転んで木箱の角に股間を強打して悶えたりと、もう散々だった。
そうしてぐだぐだのまま晴れやかな太陽が東の空に昇り、流石に限界が来て倒れていたら、マリクが誰かに連れて行かれたのだ。まだ勝負ついてねえぞぉと呂律のまわらない口で文句を云ったが、マリクを担いだがたいのいい男は難しい顔をして無視をした。クソハゲコノヤロウと暴れたけれど無駄だった。
どうしようもないので、何とかふらふらになりながら帰宅。その時点で既にブランチの時刻である。バクラと了がどうしているか確かめもせず、限界を超えた盗賊王はばたりとソファに突っ伏し――ちなみに二人はその頃、一つベッドで三ラウンド目を終えて爆睡していたらしい――そして先程目覚めたのだ。
「流石に呆れた」
と、腫れあがった肘に湿布を張りつけ、了は溜息を付く。
「そりゃボクだって起きて待ってたんじゃないけどさ。ソファに俯せてるんだもん、死んじゃったのかと思ったよ」
「でもよ、オレ様はてめえの足でちゃあんと帰ってきたぜ。その分勝敗はオレ様の方に軍配が上がると思わねえ?」
そんな風に主張したら、了に冷ややか極まりない目で睨まれた。ちょっと傷つきそうなくらいの絶対零度。バクラの冷視線によく似ていた。
「……ちゃんと帰ってきてくれたんだから、いいけどさ」
心配したんだよ。
了は視線を弱め、今度は拗ねた風にこちらを見上げてくる。
呆れたり怒ったりすねたりと、青い瞳はいつもどおりくるくるとよく表情を変える。目元を真っ赤に色づかせ、薄い瞼を腫らせていなければ、最高に別嬪だなとしみじみ思う盗賊王である。
――何故泣いたのかなどと、野暮なことを聞く気は無い。
了はバクラとやり合ったのだろう。そしてこうして平素の通りに盗賊王の手当をしているのだから、恐らく負けたのはバクラの方だ。そのバクラはもう夕方だというのに未だに惰眠を貪っている。疲れたというより、単に夜型で、日が出ているうちは寝る時間と体内時計が決まっているからである。
大人しく手当をされながら、盗賊王は目まぐるしく過ぎ去った事件を思う。
攫われた了。己の手落ち。差し金はイシュタールで、その犬と闘争。その後どうなったのかの情報は皆無だ。了を取り戻せた時点で盗賊王の中でこの事件は終了していたが、双子はそうではない。つけなければならない決着があるのは分かっていたので、空気を読んで、そうして今はここにいる。
ボスが起きれば、何があったかくらいは報告してくれるはずだ。それまで黙っている程度の甲斐性はある。惚れた女のこと、知りたい気持ちはあれど、赤い目元を見ていたら追及する気が無くなった。
(ま、いざとなったらオレ様がなんとでもしてやるし)
そんな緩やかな沈黙に、しかし了は何かを察したようだった。包帯を巻く手を止めて、あのね、と、可愛らしい唇を開く。
「バクラには、ちゃんと云っておかなきゃって思って」
「あん?」
こちらがない気を効かせて黙っていたのに、了は自分からことの結末を語ろうとしているようだ。
真摯な様子に、まだぐらつく頭も冴える。決意を秘めた青が盗賊王をまっすぐに見つめていた。
そして、
「あのね、ボクね。
――マフィアになったから」
しん、と。
了の宣言に、あたりの空気が静まり返った。
「……悪ィ、よく聞こえなかった。何だって?」
「だから、マフィアになったの。ボクが。バクラはいいって云ったよ」
「………」
あまりのことに口をぽかんと開ける盗賊王に、了は真面目な顔をして語った。
昨夜、バクラと語らったすべてのこと。ゾーク・ファミリーの存在や一度は捨てられそうになったこと。必死で抵抗して、二人の傍に居たいと訴えたこと。バクラが本当は自分のことを心配してくれていたこと。
そして、これからもずっと、今までのように三人で居る為に、了は一般人の肩書を捨てる覚悟をしたのだと、長い言葉で語った。
「ボク、立派なマフィアになるって決めたんだ」
「………」
「だからいろいろ教えて欲しいんだ。マフィアって何をするの? 悪い噂はよく聞くけど、実際のところよくわかんなくて。とりあえずいつもどおり、ご飯とか掃除とかはちゃんとするけど」
そう云って首を傾げられたところで、限界だった。
盗賊王はわなわなと震える肩を、遂に隠しきれず――
「ッ……最っ高だぜ、てめえって奴は!!」
腹の底から大笑いをして、思い切り了の細い身体を抱きしめた。
予想外にも程がある。マフィアになるだって? 何も知らない普通の女で、穏やかな生活を愛して、秘密にも気が付いていないくらいだったのに? 初めて盗賊王がこのフラットに転がり込んだ時、危なっかしい人はお断りだと目を三角にしていたあの了が?
「ちょ、痛いよ! っていうかバクラの方が痛いでしょ! 手当!!」
腕の中で了がじたばたと暴れる。子猫のような柔らかい髪をぐしゃぐしゃにかき混ぜても尚も足りない。ほっぺたに思い切り噛み付いてキスしてやった。やめてよと上げる声、それすら愛おしい。
了は全てを知って、そうして全てを捨てて、今の生活を守ったのだ。
そこまでするほど、自分とバクラと共にありたいのか。健気さが盗賊王の胸を一杯にさせる。マフィアって何するの? だなんて世間知らずで無知な癖に、とても目は真剣で。こんなに馬鹿で可愛い女は、きっと世界中どこを探し立って居ない。
ふざけてなどなく、本当に了はマフィアになりたがっている。そうしないと傍に居られないという、たった二人の男の為に。
ぎゅうう、と、心臓を締め付けられる。愛しさなんて擽ったい感情に振り回されるのは情けなかったが、そんな自分の体裁など数年前に了に惚れられ惚れた捨てた。とにかく可愛くて愛しくて仕方ない。
「っっとに、てめえはよう! 了! ああクソ、滅茶苦茶いい女じゃねえか!」
「わけわかんないよ! まだ酔っぱらってるの!?」
「酔いなんざ一発で覚めたっつうの、どうでもいいからちょっとヤらせろ今すげえてめえを可愛がってやりたくなった!」
「え、え、え、何!? なんで!? ちょっと――」
「うるせえバカ静かにしろ!!」
きん、と、鼓膜を突き抜ける叱責が居間に響いた。
了と盗賊王は揃って耳を押えて顔を上げる。ベッドルームの扉に手を掛けたバクラが、ものすごく不機嫌な表情を浮かべて二人を睨みつけていた。
「朝っぱらからギャアギャアうるせえんだよ! こっちはまだ寝てんだ、ヤるなら静かにヤれ!」
「バクラ、もう夕方だよ」
「オレ様が起きた時間が朝なんだよ! ったく、猿かてめえは」
がりがり、と頭を掻き、バクラは忌々しげに盗賊王を睨みつけた。寝足りない様子で、それでももう一度ベッドに戻るつもりはないらしく、裸足のままでキッチンへと歩いていく。背中には派手な爪痕が刻まれており、昨夜の一戦の激しさを物語っていた。
だが、そんな男の勲章もボクサーパンツ以外のものを身に着けていない恰好と相まっては、非常にだらしなく格下げである。冷蔵庫を漁る姿は、とてもファミリーのボスとは思えない。
怒られた二人は顔を見合わせ、そしてぷす、と笑いあう。
「ようボス、新入りの紹介はしてくれねえのか?」
冗談交じりに盗賊王は云う。バクラは牛乳のパックを口につけたまま、視線だけで振り返った。
何だもう知ってやがるのかくそが、と、雄弁な目が忌々しそうに物語る。全部知ってるぜと返したら、不意に了が、真剣な顔をしてバクラを呼んだ。
「バクラ」
「……」
「昨日云ったこと、無かったことになんかしないよね?」
縋るような声だった。バクラはじっと了を見つめ――長い時間黙った後、大きな溜息を吐いた。
パックを冷蔵庫に戻し、大きな音を立てて扉を閉める。それからずかずかと大股でこちらへ歩み寄り、ソファの脇のオットマンへ。
橙色が裾を広げた部屋で、再び沈黙が落ちる。盗賊王だけは状況を楽しんでにやにやしていたが、双子間の空気はまるで今すぐに取っ組み合いの喧嘩をしでかすのではないかと危惧するほどに剣呑だ。
――だが、
「……そこの馬鹿女に、ウチのしきたりキッチリおしえとけ」
バクラの顔には、ありありとサレンダーとの文字が浮かんでいた。
盗賊王がぶっはと噴き出す。了は手を叩いて、盗賊王とハイタッチをした。腕を上げた時にマリクにやられた打撲が非常に痛んだが、そんなものは露程気にならない。
了が笑っている。
今はとりあえず、それだけでいい。
盗賊王とて道楽でゾーク・ファミリーに居るわけではない。至上の目的を片時も忘れたことはないし、何の為にこのファミリーが存在しているかもよく理解しているつもりだ。
いずれ起こりうる復讐の闘争。そんな中に了を巻き込むことになる。
バクラがそのことを忘れている訳がない。だとしたら、分かった上で、覚悟の上で巻き込んだのだ。
それならば盗賊王は、全力で了を守ってやろうと決めた。
復讐者は何もかも捨てなければならないなんて決まりはない。以前の自分ならば全てを捨てたかもしれない。だが、背中に荷物を背負っていた方が返って足を踏ん張れるものだ――了と出会ってから、盗賊王はそんな風に考えるようになった。
自分を変えた女。自分を拾った男。
その二人が、今は自分のファミリーだ。その実感は不思議と、クル・エルナに居た時とよく似た居心地の良さを感じさせた。
「はしゃいでんじゃねえよ。それより、まだ片づけなきゃなんねえことがあるだろうが」
と、きゃいきゃいと手を叩きあう二人に、バクラの冷静な声が投げられた。
我に返った了が片づけ? と可愛らしく首を傾げる。バクラはまだ喉が渇いていたのか、ローテーブルの上にあったミネラルウォーターを手に取り、がぶりと飲んで目を細めた。
「イシュタールの連中だ。このままなあなあにしておく訳にはいかねえ」
「でも、ボク無事だし。バクラも何かしたんでしょ? おあいこってことにならないの?」
「ガキの喧嘩じゃねえんだぞ。舐められっぱなしってのは気に喰わねえ」
一歩も引くことを許さない、それはボスとしての表情だった。
ソファに再び腰かけた盗賊王は、そこでふと思い出す。つい数時間前まで飲んだくれていた相手のことを。その別れ際の曖昧な記憶を。
「忘れてたぜ。ほらよ」
云って、盗賊王は丸めておいたモッズコートのポケットから、一通の手紙を取り出した。
濡れたコートの中にあった所為でくちゃくちゃになったそれを、バクラに向かって放り投げる。ゴミを投げるなとでも言いたげな顔をしたバクラだが、その正体を見て表情を改めた。
奇跡的に、蝋印は形崩れず残っている。赤い蝋に捺された精緻な紋章。
墓守の印、である。
「マリクの野郎を迎えにきた奴が、オレ様に渡してった」
「馬鹿かてめえ。こういうモンはさっさとオレ様に渡せ」
自分が爆睡していたことを棚に上げて、バクラは盗賊王を詰る。慣れっこなのでどこ吹く風だ。
渡してきたのはスキンヘッドの男だ。酔っ払ったマリクを抱え、その男は地面に尻をついた盗賊王にこれを差し出した。ゾーク・ファミリーのボスへ渡して欲しい。静かな声でそう云った。
確かその時自分は、うるせえオレ様を使い走りにするたあどういう了見だてめえが届けろと頭の悪い文句を云ったのだ。そうしたら男はぎゅっと眉間を寄せ、勝手に盗賊王のモッズコートのポケットにそれを差し込んできた。
そのまま去っていくのを見て、ああオレ様も帰んなきゃ了が心配しやがるしと立ち上がった時点で、既に手紙の存在を忘れていた。我ながら見事な酔っ払いっぷりであった。
ともあれ、まだ全てが終わっていないことを、この封筒が物語っている。
バクラはふんと鼻を鳴らし――そして、礼儀作法もへったくれもない動きで、手紙の封を切った。