【♀】ヒキガネ 06-14 / LadyPanther and WhiteKitten.
嵐が過ぎた後の、心地よい天気は今日も継続していた。
湿気が払われた分、かえってからりと気持ち良くさえある。平日でなければ陽気に誘われた街の住人達が行く場所も決めずに笑顔で散歩に出てしまうような、そんな天気だ。
昼のピークを過ぎた穏やかなカフェテラスに、二人の女が向かい合って座っている。
テーブルには、砂糖を三杯も放り込んだミルクティーと苦い渦を巻くブラックコーヒー。肌の色を示すように、コーヒーカップに口をつける女の指先は褐色をしていた。
「そんなに警戒しないでくれ」
ナムは了に向け、少しぎこちない笑みを浮かべた。
ミルクティーのまろい水鏡に映る了の目には、猜疑とまでは行かずとも疑わしげな色が乗っている。
彼女と真っ向から対峙した記憶は今も褪せていない。ほんの数日前のことなのだから当たり前だ。
あの古びた倉庫の黴臭い匂いや心もとない裸電球の灯りまでありありと思い出せる。無論、向けられた敵意も同様である。
あらかじめ予想していたのだろう。この席に着く前に、ナムはジャケットの釦を全て外し懐を晒した。ホルスターに銃は収まっていたが、弾が全て抜かれていることを了に視認させる。害意はないんだ、と、静かな声で彼女は云った。
――あの日、渡された封筒には二通の手紙が収められていた。
ひとつは了へ。ひとつはバクラへ。それぞれ差出人の署名が違う。了を呼び出す手紙の末にはナムの名が書かれ、今日この時間にこのカフェへ来て欲しいと簡潔に述べられていた。バクラ宛ての手紙の内容は、彼が教えてくれなかったので了は知らないのだけれど。
行く必要はない、と、バクラは云った。
一度危険な目に遭っているのだから、同じ轍を踏む必要はないと。交渉は自分の仕事であってお前の出る幕でないとさえ云われた。
それを遮り、ちゃんと行くと押し切った了の頑固さは、今更語る必要もないだろう。
自分はもう一般人ではないという、ささやかな矜持が了の中に生まれていた。ゾーク・ファミリーを名乗るなら、無視すべきではない。それに、無視して再び争いが起こるのは馬鹿馬鹿しいと云ってやったのだ。
バクラは散々渋りつつも、結局は了の外出を許してくれた。玄関先で彼は、束ねた髪の中から魔法のように、ずるりと一丁の拳銃を抜き取り了へ差し出した。
『てめえみてえなズブの素人にこんなモンやったところで意味もねえが、一応持ってけ』
装填は一発。撃つ時は相手の身体に押し付けてから。引鉄が重いから気合入れて引け。それだけを教えられた。掌に収まってしまいそうなその銃の名がデリンジャーと呼ばれていることすら、了は知らない。だが、初めて手にする殺傷の武器は恐ろしくもあり、お守りのようにも感じられた。
了は、ポケットに小さな人殺しの道具を握りしめたまま、ナムと相対した。
この呼び出しに応じた理由は、二つ。
一つは、バクラを言い負かした文句そのまま――またいざこざを生まない為に。
もう一つは、あの倉庫で見せたナムの空虚な瞳、その理由を。
了は他人に興味がない。バクラと盗賊王が傍に居ればそれでいい。けれど、同年代の女性が見せるにはあまりにも空っぽ過ぎたあの目には、何だか引き寄せられるものを感じた。捨てられた犬のような目をしていたのだ。
言うなれば好奇心だった。それもとびきり危険な。
そのナムの目には、もう虚ろの影はいない。酷く穏やかで、少しの感傷を含んだ綺麗な紫色だ。
「どうしてボクを?」
汗ばむ右手はまだ、デリンジャーを握っている。ナムはコーヒーをこくりと一口飲み干してから、うん、と頷いた。唇を離したティーカップに、ごく薄い口紅の色がついていた。
かちん。カップと皿がぶつかる音が、緩い喧騒の中に響く。
彼女は姿勢を正して、了に向けて、真っ直ぐに頭を下げた。
「巻き込んでしまって、すまなかった」
「え……」
「どうしても謝りたかったんだ。そして、キミには全部話しておきたい。聞いてくれるかい?」
◆
同時刻。
バクラはこれで幾度目かになる、イシュタール邸の赤絨毯を踏んでいた。
以前訪れた時は、ナムの執務室で短い会話をしたものだったが――此度は広く豪奢な応接室に通され、嫌味なほど柔らかいソファの上に座っている。
組んだ足の延長線上には、女性として完璧なシルエットを誇り、同じように座しているイシズの姿。その背後にはリシドが硬い表情を動かさずに直立している。
「イシュタールのご党首じゃなく、アンタのお呼び出しとはな」
出された紅茶に口もつけず、顎をそびやかすバクラの視線には嫌味な軽蔑が乗せられていた。
不始末をしでかした組織のボスではなく、そのお目付け役から呼び出しがかかるとは思わなかった。しかし確かに書面はイシズ・イシュタールの名で結ばれていたし、こうして訪れてみれば正真正銘、イシズ自らがバクラを来客として迎え相対している。
イシズは静かな表情のまま、そうですね、と軽く目礼をした。
「そろそろ貴方のご家族とお話しさせて頂いている時分でしょう」
「ああ。よくもあんな不躾な手紙を寄越したモンだ。誘拐犯が攫った女を呼び出すなんざ、どういう神経してやがる」
まあ、それに応じるアレも相当いかれてやがるがな。
足をぞんざいに組み替え、バクラは溜息を付く。朝方までかかって説得された己のふがいなさにはとりあえず目を瞑ろう。了が本当にこちらの道に足を踏み入れようと云うのなら、悪い勉強ではない。
倉庫で目見えたナムから殺意は消失していた。あの腑抜け状態の女ならば、万が一のことがあっても、影から様子を見るように申し付けた盗賊王一人いれば十分だろう。同じ過ちを犯すほどの能無しを片腕などと呼ばない。
それよりもこの呼び出しの真意が気にかかる。ナムではなくイシズから、そして来賓扱い。お礼参りの類の行為を目的とされているわけではなさそうだが――
沈黙が意となって、イシズにまで伝わる。彼女は伏せていた目を上げ、バクラの瞳をまっすぐに見つめた。
「私はビジネスとして、貴方とお話しする機会を頂きたいと思っています。子供の喧嘩ではなく、暗部に勤める者同士として」
「大歓迎だ。何しろそちらのご党首サマは少しばかりやんちゃが過ぎるお嬢様のようだからな」
「諫言は耳に痛いものですね――しかしその件も含めて、きちんとお話ししたいのです。イシュタール・ファミリーを束ねる者として」
「……」
バクラは無言の内で、内心の驚きを噛み殺す。
今、彼女は何と云った。
束ねる者として? それはナムのことではないのか。
イシュタールの名を背負えるのはたった一人。その責に押しつぶされそうになりながら、喘ぎながら必死に戦ってきた女の顔をバクラは思う。
バクラが決定的な言葉を待っているのを、イシズは察したのだろう。彼女は静かな、凪の海の表情を浮かべたまま、厳かとも云える声でもってはっきりと云い放った。
「ナム・イシュタールは昨日を以って、イシュタールの党首を退きました」
「……へえ?」
「ですから、間違いはないのですよ。この会談は間違いなく、ゾーク・ファミリーとイシュタール・ファミリーの、両党首同士で行われるものです。
申し遅れました。私はイシズ・イシュタール。当組織の党首を務める者です」
――そして、二人の『彼女』は語り始めた。
了へ。バクラへ。
この一連の事件を締めくくる、イシュタール・ファミリーの決断を。