錆脚 01

その瞬間、とにかくただ猛烈に熱くて熱くて、痛みはさほど感じないまま恐らく喉から絶叫していた。
  あと覚えていることは、目の前のバクラが自分を見上げて、アメジストのような目をまん丸にして間抜けな顔をしていたこと。そのあと汚れた頬に縦に伸びた傷跡が歪んで、こんな顔をみるのはいったいいつ振りだろうと、自分の身体のことなど一切忘れて了はそう思った。
  逃げ出した彼の肩に俵みたいに担がれて、揺れる視界にあたりの罵声。金属が擦れる音。走るバクラの泥だらけの足跡にぼたぼたとそう少なくない血の塊がいくつも落ちてああこれはあいつから出たものなのかボクから溢れているものなのかそれとも両方なのか、まじりあって一緒のものになってしまっているならそれはそれはたちの悪い血液になるんだろうな。そんなどこかずれたことを考えていたのだ。
  急に世界が真っ暗になって、反転。
  短いような長いような昏睡のあと、寝台の上で目が覚めた。
「…いきてる」
  呟くと共に、ものすごく喉が絡んだ。了はのろのろと手を伸ばし、寝台の脇かどこかに水を探した。杯一杯でもかまわない、とにかく喉に何か気持ち悪いものがこびりついて固まったような感覚を流したい。
  寝台脇の台に水盆があった。だがそれは赤黒く濁った布が浸けられてとても飲めたものじゃない。
  ここがどこだかさっぱり分からないけれど、とにかく水――探しに行こう。了は指先一本動かすのも非常にだるい身体を引き上げて、板張りの床に下り立とうとして、そして、できないことにようやっと気がついた。
  左膝から先が全く消失している。
「…?」
  衝撃を受ける前に、え、なんで? と、えらく不思議な気分になった。
  身体の上に掛けられた毛布が、身体の線にそっておうとつを作っていて、左膝からむこうがぽっかり無くなっているのだ。ためしに感覚で足の指を動かしてみようとしたけれど、右の指の先は痙攣する程度、左は、ないのだから動くはずもなかった。
  どうしてだろう、どうしてだろう――硬い寝台の上で身体を捻って下半身を眺めながら、了は思い出そうとした。
  そうだ、自分は斬首されるバクラに向かって飛び出して行ったのだった。
  振り上げた斧が下ろされる前に真正面から突き飛ばしたら、バクラは転がって自分は転がり損ねて、そう磨がれてもいない金属の塊のような刃に足を打たれたのだ。皮膚と筋肉がめりめりと割かれて、骨がぐしゃりと砕ける感覚をなんとなく覚えている。どれだけ強い力で叩き斬られたのかは分からないけれど、暴力の塊を押し付けられた脚はたぶんその場でもげていた。そして、バクラが拘束されたままでのた打ち回り鮮血を吹き上げて痙攣する自分の口の中にすばやく布を詰め込んで、無理やり悲鳴と舌を噛むことを押さえられて担ぎ上げて逃げた。そうだった。
  なぜそんなことをしたのかと問われても、よく覚えていない。
  記憶をさかのぼって考えてみた。バクラが盗みをはじめとする悪質な犯罪者だったことは確かで、そして何の因果かそんな犯罪者に拾われていままで生きてきた。罪の片棒を担いだこともあったから、いつの間にか二人組みの極悪人ということになっていてある日二人一緒にへまをして掴まった。すぐさま斬首刑にまでことは進み、自分の首よりもバクラの首のほうが先に地面に転がることが何だかとてもすごくいやで、それで頭から刃の下につっこんでしまったのだ。助けたかったのではなくて、その首が転がり落ちて泥だらけになるのを見るのが嫌だったからだ。だったら自分が先に転がってしまえと思ったのだった。
  現実にはうまくいかず、錆びた刃は了の足に振り下ろされた。そして、片足を失って生き残った、そういうことなのだろう。
  困ったな。了は思った。これでは満足に走り回ることはできなくなってしまう。バクラの手伝いをすることもできない。助けられたことを恨めしく思った。その恨めしいことをした相手は一体どこへ行ってしまったのだろう、ランプの油の匂いが染み付いた薄暗い部屋のなかに、褐色の背中は見当たらない。
  不思議と痛みはなく、了は苦労して上半身を起こし毛布を取り除けてみた。足にはぼろきれとも布のかたまりともつかない包帯に似たものがぐるぐると厳重に巻かれていて、使い込まれた証に赤茶けたしみがぽつぽつと汚く浮かんでいた。どこかで見慣れた色だと思っていたら、バクラが着ていたチュニカと同じ生成色だった。
  左足は少し痺れて感覚が薄く、ひたりと裸足のつま先を板張りの床についてもあまり冷たく感じなかった。片足があるのだから飛び跳ねて動けるだろう、そう思ったけれどこれではひとりで立ち上がることも難儀だ。左右を見回すとバクラが背負っていたなまくら刀がぞんざいにたてかけられていた。ディアバウンドという一般人には不可視の獣を飼いならす彼は武器を必要としないけれど、体裁を保つために持ち歩いていたものだった。たしかどこかの行き倒れから剥ぎ取ったもので、鞘から抜き放っても完全にさび付いて使い物にならない。だが了の杖となるには丁度いい長さだった。
  柄にすがって立ち上がり、一歩一歩、亀よりもおそい速度で了は扉に向かって歩いた。
  さあ開こう、とこちらも包帯まみれの腕を伸ばしたとき、ぴたり。動きが止まった。
  扉の向こう、恐らく繋がっているであろう廊下から、聞きなれない声と聞きなれた声の両方が近づいてくるのを耳が拾い上げたからだ。
「じゃあ旦那、あの御仁はここに置いていくんで?」
「当たり前だ。あんな目立つのを連れて歩いたら三歩進む前に見つかっちまう」
  あの御仁、と言われてもぴんとこなかったが、あんなの、と言われてそれが自分を指していることを了は理解した。たびたび、あれだのそれだのというぞんざいな呼ばれ方をされていたからだ。
  足音と共に声は近くなる。声を殺して、了は会話に聞き耳を立てた。
「まあ金さえおいてくれりゃあうちはどうとでもしますがね。本当によろしいんで」
「構いやしねえ、適当に使ってくれ」
「しかし勿体ない。片足が無いとはいえ、ここいらじゃあ珍しい毛色ですよ。旦那もえらく可愛がっていたそうじゃあないですか」
「…片輪のガキじゃ勃つもんも勃たねえよ」
  声は板一枚を挟んですぐ向こうまで近づき、そして、扉の前で止まることなくまた遠ざかっていった。第三者の誰かが馬の手配についての説明を続け、バクラが金の袋を投げる音が聞え、そして階下に下りてゆく足音が響く。完全に何も聞えなくなってからそれでもしばらく、了は錆びた杖に掴まったままぼうっと立ち尽くしていた。
  置いていく。適当に使え。片輪。言葉を繰り返して考える。
  そう、つまり自分は捨てられたのだった。
  確かに片足では役に立たない。といっても今までそう役に立つ手伝いをできていたわけでもないけれど、バクラひとりでもできることの手間をほんの少し楽にする程度で、あと出来ることといえば冷え込んだ夜に暖を取る人間湯たんぽになるくらいしか――それだってはるかに了の方が体温は低かったけれど哺乳類というのはくっついていればじんわりと温まるものだ――できなかったけれど、とうとうそれもなくなった。片足を無くした了を寝台に引き上げるつもりはない、そういうことだ。
  部屋を見回せばバクラの荷物は何も無かった。背負い袋も外套もなにかもかもが無く、ついでに言えばごくささやかな了の荷物も無かった。不具のからだがひとつ、錆びた剣ひとつ。それだけが残された。
  さしあたってこれからどうしよう。立ち尽くしたまま考える。食べていくためには仕事をしなければならない。けれどこの足で動き回って働くことも出来ない。ついでにいえば女性がするような作業、料理や裁縫、金物の手入れもなにひとつできない自信がある。以前バクラにどうにかしておけと穴の開いた背負い袋のつくろいやその他諸々の雑務を放り投げられたことがあったけれど、あまりの出来の悪さにもういいと諦められたことがあったからだ。
  何も出来ない、ということは食べていくことができなくなり、恐らく自分は餓死して死ぬ。
  どうやら足と一緒に思考も痺れているらしい。そう結論を見出してもなにも感じなかった。結局何も思いつかずに、了は硬い寝台の上に仰向け倒れ込んだ。墨を流し込んだような真っ暗な窓の向こうでちらりちらりと光る松明の明りとランプでつくられた影はくろぐろと渦を巻いて、けれどその影はバクラの形にはなったりせずに、いつまでもゆらゆらと不安定に揺れていた。