03 虚飾、重ねて虜囚

一度堕ちはじめてしまえば、後は簡単な話だった。派手な抵抗をしなくなった己の宿主を闇の姿のまま見下ろして、バクラは密かにほくそ笑む。
  当初の予定では、もっと早く取り込む心算だった。なよやかな見た目のせいで誤解したが、獏良という少年は意外と意志が強くしぶとい。だがそれも、結果だけを見れ取るに足らない些細な問題だ。
  人間はひどく脆い。根元を一箇所崩してしまえば、放っておいても自壊を始める。口から出る得意の嘘――出るに任せる甘言と手緩い接触を繰り返すだけで、獏良が以前のような頑なな態度を見せることはなくなった。
  尤も、この先で手を抜いては元も子もなくなるのも事実。完全に陥落しきっていないのは、左手の反応を見ていれば解る。その腕はバクラに決して触れようとせず、身体の奥まで甘く犯している最中ですら、絶対にすがりつこうとしない。右腕は物欲しげに伸ばされるというのに、傷跡を確かめるように握り締めた左手はただ震えるだけだ。
  中途半端に手を抜けば、再び抵抗が始まるだろうとバクラは思う。そうしたらまた、喧しく泣き出すか騒ぎ出すか、いずれにせよ面倒な事態を引き起こすことは間違いない。
  全てが都合のいいように、計画どおりにシナリオを進める為に、獏良にはまだまだ、もっと深くもっと奥まで、闇に浸かってもらう必要がある。生意気な左手が、指の先まで動かなくなるまで。そして出来上がったマリオネットに意図という糸を絡み付けて、自由に動かせてこそ初めて意味がうまれるのだ。闇の意思も、肉体がなければ何も出来ない。
  そのために吐き出す優しい嘘と甘やかしならば、いくらでも思いついた。可哀相な宿主の心の部屋はいつだって隙だらけだ。わざわざ覗かなくとも手によるように理解できる、傲慢な脆弱性。そこを丹念に撫でると、獏良の身体はすぐに開いた。その時、甘ったれた感情に苛立っても、決して表情に出してはいけない。
  今宵もまた、同じことの繰り返しだ。
  接触を求めながらも誘うことの出来ない獏良が、心の部屋で一人膝を抱えて蹲っている。どうせまた、学校で友人と過ごしている間に、左手の抵抗に触発されて罪悪感を増したのだろう。闇からヒトガタへ姿を代えて、面倒臭いことこの上ないがバクラ自ら迎えに行く。
  細い背中から無意識に滲み出ている「構え」の主張に、咄嗟に舌を打ちそうになった。
  その苛立ちを胃の奥に押し込んで、冷えた肩にねっとりと、手を這わせる。振り向く表情にはもう驚きもなく、ただ無言でバクラを見上げた。同じ形をした顔に違う光を宿した目で。
「…何しに来たの」
  ぼそりと呟いた声に、バクラは内心で笑い声を上げた。
  陰鬱な口調で呟くこの声!これが日中、オトモダチと楽しそうに話してる奴と同じものだとは思えない――決して口に出してはいけない嘲りを込めて大笑いをしたい気分だ。
  諦めと抵抗。どろどろの矛盾と自己嫌悪の上に隠匿の苦しみを混ぜた暗い色が、白く綺麗な顔を台無しに歪めている。何しに来たと問う唇を持ちながら、右手は既にバクラの髪を掴んでいる。
  無表情のようで不安そうでもあった。執着と憎悪がそうさせている。
  バクラは笑った。唇を吊り上げて、甘く唇を開いて。
『ご挨拶じゃねえか。愛しい宿主サマに会いに来ちゃあいけねえのか?』
「嘘ばっかり。本当はボクのこと、好きでもなんでもないくせに。お前が欲しいのは宿主としてのボクなんだろ。ボク自身には何の興味もないんだ」
  そう吐き出して、すぐに獏良は顔を顰めた。
  口に出したことを後悔する表情だった。自分自身の発言に対する否定が欲しくて口走った言葉を自覚して、自己嫌悪で泣き出しそうに唇を噛む。
  食いちぎれてしまうその前に、バクラはその唇を舐めてやった。
『つまんねえこと言うんじゃねえよ、オレ様の宿主は、お前だけだぜ』
  途端、涙で潤んだ獏良の目がきっとバクラを睨み付けた。逸らさずに見ていれば、一、二、三。三秒で意思の光が弱くなる。もの言いたげに濡れた唇を震わせて、瞼が閉じた。
  そのまま口唇ごと覆い尽くすように噛み付くと、細い喉の奥で安堵の鳴き声が洩れた。塞がれたから何も言えない、言わなくていい。そうやってバクラは逃げ道を作ってやる。先に待っているのが奈落への落とし穴だというのに、獏良はそこに向かって逃げた。そして、走る足を邪魔する罪悪感は、全て目の前で奪い取ってぺろりと飲み込んでやるのだ。
  宿主の苦痛はオレ様が全部おいしく頂いて、ハイおしまい。
  後には、人恋しくて不安で仕方ない少年が一人残るだけだ。
  お前の苦痛はなかなか美味いと言ってみせたなら、どんな顔をするだろう――そう思いながら、バクラは獏良の着ているシャツを剥ぎとった。白い身体は闇の中で乱れてこそ映えるのだ、無粋な布は必要ない。
「お前なんか、きらいだ…っ」
  闇の中で衣擦れの音が響く。片腕だけで縋りついた獏良が、肌をまさぐられて喉を反らせた。
(支離滅裂だぜ、宿主サマ)
  本当はもう、とっくに気づいているくせに。
  縋る身体をうまく抱き込んで、バクラは悟られぬよう鼻で笑った。その息に耳元をくすぐられたのか、捕食される前の小動物の動きで腰が震え上がる。正直な身体は交わりへの期待を隠し切れない。
「きらいだ、おまえなんか、お前なんか」
  うわ言のように吐き出して、獏良はしがみついた肩に額を擦りつけた。爪が食い込むほど握り締めた左の拳は、決してバクラに触れないように遠ざけられている。
  ――直にその左手も開く。
  両手で求めるその瞬間が待ち遠しかった。そうしたら全部思い通りになる、全部手に入る。白くて美しくて、それでいて中身まで汚れきった、バクラのための傀儡人形。
  その為に、その瞬間の為に、嘘つきはいっとう残酷で効果的な嘘を舌先に乗せた。
『好きに言いな。どう思ったって、オレ様は宿主サマのお傍にいるんだからよォ』