08 奈落の罅

真っ暗闇の中で一人佇む。眠れない夜はもう三日続いていて、心の部屋は獏良の不安をそのまま反映するがごとく、ぐるぐると気の悪くなりそうな黒い渦巻きがあちこちに浮かんでいた。
 唇を噛んで俯く。甘い腕の主を今日も、待っている。
 三日前、目が覚めるとそこは孤独な闇色だった。手ひどく扱われた残滓が残る身体を起こしてあたりを見回しても、皮肉な笑みと嘘の味がする接吻けは落ちてこない。ただひどく不機嫌な声が頭の中に響いただけだった。
『さっさとその腑抜けたツラをどうにかしろ。遅刻すんぞ』
 そう云われ、てっきり消えうせてしまったのかと思っていた獏良はほっと胸を撫で下ろした。
 しかし、掛けられた声にはついぞ聞いていない剣呑な響きが含まれていたことが、気になるといえば気になった。千年パズルと邂逅したあの日、初めて聞いた時のあくどい揶揄もいつもの甘さもない、隠しきれない苛立ちがそこかしこに散っている。
 どうしたの、と問いかける前に、すぐに思い当たった。昨晩のことが尾を引いている。
 一方的な交わり。あの目の執着。自分が気づいたのだからバクラも察したのかもしれない。そして距離を置きたがっている。遠ざけられていることを自覚して、つきり。胸が痛んだ。
 何か云うべきか惑っていると、強く背中を押されるような感覚を覚えた。そうして何一つ言えないまま、獏良は現実の世界で目を覚ましたのだ。
 見慣れた自室の天井がまず目覚めを出迎えて、半開きのカーテンから朝日が覚醒を促す。闇に慣れた目には眩しすぎる光。ここよりもずっと、心の部屋で交わる空間に身体が馴染んでしまった。
 腑に落ちない気分で登校し、それから、姿を見ない日々が続いている。
 眠る前に、引き込まれるわけでもないのに自主的に、心の部屋へ下りた。これも日常化している。
 そこでバクラをじっと待ってみたが、毎度聞こえるのは声だけだ。
『今日は大人しく寝な。添い寝してやる気分じゃねえんだ』
 同じ言葉を二度聞いた。一回目は何も云わずに頷き、結局眠れず。二回目は少しごねたら強引に身体に引き戻された。
 そして今夜。遂に気配すら、無い。
(…おかしい)
 戸惑いに目を伏せて、獏良は右手をぎゅっと握った。
 バクラの思惑は解っている。嘘の甘さと偽りの好意。支配するためにやっていることなのだ。こんなことをされても逆効果にしかならない。どんどん不安になるだけだ。その不安を煽ることが目的なのか――いきなり距離を置いて突き放し、恋しくさせてからまた抱きしめるつもりなのか。だとしたら効果的だ。きっとどこまでも堕ちてしまう。
 ただ、このタイミングが気にかかる。衝突してから日も経っていない。
(見限られた?)
 両手で頬に触れてみると、頬が硬く引きつっていた。無表情のつもりでいたが、恐らく情けない表情を晒しているだろう、そう思う。こんな顔をしている時にはいつだってバクラが背中に被さってきた。闇の中から冷えた手を伸ばして、不安をさらっていった。それがない今、獏良は自分の心の均衡の保ち方がわからない。人任せにしすぎて、いろいろなことを忘れている。
 自分自身が抱えたバクラへの執着は自覚している。だがその逆は、バクラが目の奥に隠し持っていたそれには、彼自身きっと気づいていない。
 気づいて欲しくなかった。きっとそれは、邪魔なものだ。
 嘘をつくこと偽ること、人を騙すことに欲望は障害だ。押さえ込んでも膨れ上がる。バクラが自分に執着している、だなんて酷い自意識過剰なのかもしれない。けれど確信して思ってしまったのだから仕方ない。見覚えのある暗くて重い感情は見間違えるはずも無いのだ。どこにそう感じたのか定かでは無いけれど――ああ、もしかしたら、彼も寂しかったのかもしれない。そんな風にさえ思う。
 自分の為に他人を欲し合っているなら、これは愛じゃない。だから、執着。
 それに気づいてしまったから、遠ざけられた?
 計画が変更されたのかもしれない。甘い嘘で手懐けるより、放置して心を砕いてからっぽの器を手に入れた方が効率的だと判断したのかもしれない。憶測が頭の中をぐるぐる回る。息が苦しい。
「…ねえ」
 闇を見上げ、獏良は初めて、口に出してバクラを求めてみた。普段は絶対にしない、自分からの誘い。
 受動態から能動態に切り替えることはとても恐いことだ。拒絶された時の痛みは計り知れない。その恐怖を振りきって声を出すほど、獏良は焦った。
「ねえ、返事してよ」
 返事が無い。
 両の掌と背中に、いやな汗が滲んだ。闇は依然変わらず不穏に渦巻いている。
 いつもと違う。獏良の内側で、三日前の目覚めに感じた不安が数倍に膨れ上がった。どこかに亀裂が入ったような、ぴしりという自壊の音が耳に響いた。
 いなくなった。見捨てられた。また一人になった。いらなくなった。
 思い出す言葉は繰り返された甘い睦言。
『一人にしねえよ、宿主サマ』
 そんな言葉は嘘だとちゃんと解っている。けれど、裏切られるまでは嘘ではない。予め決まっている絶望を理解しながら溺れていったのは、騙されることを望んだから。有限でもいいと、先のことなんかどうでもいいと目を閉じた。
 終わりはもっと先にあると思っていた。抵抗し続ける左手がある限り、友人の笑顔に胸を痛める代償に、嘘は真実であり続けると信じていた。優しくしてもらえると信じていた。
 それが狂う。焦る。身体が震える。歯の根がかちかちと鳴る。亀裂。
 ――噴出す恐怖。渇いた喉を割いて、勝手に迸る。
「答えてよ、バクラぁっ!!」
『…そんなデケェ声出さなくても、聞こえてんだよ』
 とてもとても不機嫌な声が、獏良のすぐ後ろから聞こえた。
「っ…!?」
 弾かれたように振り返る。一歩分離れたその場所に、バクラは仏頂面をして立っていた。視線は斜め下へ、酷く機嫌が悪い表情。腕を組んで舌を打つ音が聞こえる。
 その顔が不意に歪んだ。目の前が水に潜った時のようにぼやけて霞む。何故そうなっているのか獏良には解らなかった。よく見えなくなる、また消えてしまいそう。世界がぐらぐら揺れる。
 捕まえておかないと。右手だけじゃもう足りない。片手で掴んでいては嘘は居なくなってしまう。
 両手を伸ばした。指先が触れる。バクラが身体を引こうとする、接触拒否。
 嫌だ、逃げないで。
 そう叫んでいたかどうか解らない。
 初めて名前を呼んだその唇を歪ませて、獏良は泣きながら、左手と右手でバクラに強くしがみ付いた。