09 鉄柵内の攻防

少しばかり距離を置きたかった。だから席をはずしていた、ただそれだけ。
  だというのにこの状況は何だ。獏良はついぞ耳にした事もない派手な嗚咽を上げて自分を罵倒している。嘘つき嘘つきうそつき――もう何度言われたか解らない。数えるのも面倒になる回数だということは確かだ。
  理由は解っている、相変わらず隙だらけで穴だらけの獏良の心。見捨てられたと勘違いした恐怖で理性が爆発し、ぶつけられる熱量は涙の分だけ熱い。
  何度も何度も、一人にはしないと甘い言葉を植え付けてやったというのに、孤独に三日も耐えられない脆弱な魂は震えて怒り罵声を浴びせる。確かにここ最近は故意に接触を避けていた。あの気持ちの悪い感覚が、獏良から感染した厄介な感情が遠ざかるまでの一時処置としての行動だった。少し離れるくらいなら問題ないだろうと線引きをした、その判断から間違っていたらしい。
  忌まわしい左腕にしがみ付かれている。降りかかる涙は冷えた身体と裏腹に、火傷しそうに熱い。
  そうだ、こういう時こそ頭を撫でる時だ。たっぷりと意図を込めて、嘘の分だけ甘く甘く、長い髪を梳いてやればいい、バクラは固まっていた拳を一度軽く開閉し、さて第一声は何と囁いてやるべきかと考えながら、細く長い髪のひと房に手を伸ばした。
  だが、甘く指を絡ませることは叶わなかった。
  泣きながら、獏良がバクラの左頬を拳で打ち抜いたからだ。
『ッ何しやがる!』
  肉を打つぱしんという派手な音が響き、一瞬遅れて、じん、と痛みが痛覚神経にまで伝わる。怒鳴りざまに怒りまかせに胸倉を掴み上げる――今まで見せかけの優しい態度に隠していた本心そのものの動きでもって軽い身体を引き上げると、獏良はその手に両手をかけて爪を立てながら、負けず声を張り上げた。
「こっちの台詞だ!どこに行ってたんだよ、何で来ないんだ、ボクはあんなに呼んだのに!どうして一人にするんだ!」
『こっちにだっていろいろと都合があんだよ!四六時中テメエの面倒なんざ――』
「一人にしないって言った!うそつき!嘘だって解ってたけど、でも、そう言ったじゃないか!」
  支離滅裂な言葉を吐いて、それから先の言葉は抑える気もない喧しい声を上げて獏良は泣きじゃくった。余りの剣幕に、バクラは掴んでいた胸倉を離してしまう。細い両手はすぐに手折れて、膝が砕けるままに、獏良は闇の中にへたり込んだ。
  果たしてこれは喜んで良いのか悪いのか、バクラは半ば呆然と考える。
  依存の度合いはこれ以上もないほど高い。三日も離れられない精神、現れてやったとたん安堵を通り越して泣き叫ぶ声、どれを取っても申し分なく、恐らく何を要求したところで獏良がバクラを拒絶することはないだろう。嫌がるそぶりを見せたなら、別離をほのめかしてやればいい。それだけで脆弱な宿主は先ほどのように怒り狂いながらすがり付いてくるだろう。
  けれどこの感覚はいただけない。絶叫を通り越して枯れた喉からしゃくりあげる音を零す獏良を見下ろしていると、余計なものがあふれ出す。この所為で逢瀬を取りやめたのに。
  泣く姿など何十回も目にしてきた。状況はどうあれ、辛いと泣く、気持ち良いと泣く、寂しくて泣く――見飽きているはずなのに、胃のあたりが落ち着かない。苛立ちが増す。ああなんだってこいつはこんなに泣くんだ、今は傍にいるんだからいいじゃねえか面倒臭い。そう叩きつけてやりたいのに、口は痺れて声帯は乾いて、何も言えない。
  耳が痛い心臓も痛い。どうすればいい、こんな状況で。
  こんな状況なのに――何故自分は、わざわざ膝をついてまでして獏良を思い切り抱えてしまっているのだ。
『…泣くんじゃねえよ、ガキか』
  腕の中で獏良がひくんと一度しゃくりあげる、その振動が伝わった。
  嵐が去った後のような静寂が闇にしとしとと落ちる。驚いたのか、落ち着いたのか、原因は解らないが獏良はうそのように泣き止み、バクラの腕の中で大人しく抱きすくめられていた。
「…なんで抱きしめてるの」
『知るかよ』
「これも、ボクを言うとおりに動かす為にやってるんでしょ」
『さあな』
  こっちが聞きてえよ、クソが。何をやってんだオレ様は――腹の中の忌々しい舌打ちは声音に思い切り反映されて、吐き出した声は獣が低く唸るような剣呑さに濁っていた。
  自分のしていることが解らない。対処の仕方は言葉の嘘と身体で有耶無耶にするのが正解だ。今更になって冷静にその方法を思いついて、今からでも遅くはないと警鐘を鳴らす。温い抱擁など必要なく、お決まりの睦言で掻き混ぜてしまえばそれで良い。さあ耳元に気持ち悪いほど優しい声で一人にしたことへの謝罪をくれてやり、腫れた目元を舐めあげて、もうこんなことはしないと闇に押し倒してしまえ。それで全てがうまくいく。今後また同じことが起きても、同様の手口で構わない。
  解っている。解っては、いる。
  だが、出来ない――腕を解けない。
  三日間離れていた体温がここにある。冷たい体温にしっくりと馴染む、冷えた身体。
  飢えていたのは、欲していたのは、耐えていたのはどちらだ。思いたくない、違う、否定しながら真実が舌の裏側で粘つく。恐ろしいくらいの充足感に背中がぞくぞくと昂った。
  毎晩繋がっていた熱を引き剥がした数日の間、ぽっかり開いた空洞は絶えず疼いて苛立った。感染した感情に振り回されたくないと作り上げた溝に、自分自身で腹を立てる。寂しげに膝を抱えた背中に覆い被さってしまいたいのを抑えて闇のなかでだんまりを決め込みながら、決して考えまいとしていたこと。
  感染源を断っても駄目だった。返って悪化している。
  考えたくない。認めたくない。こんな弱い人間一人に、自分がそんな――
「…ねえ」
  不意にぐ、と額をこすり付けられ、獏良は喉で呻いた。
  髪にまつわるどこか荒んだ香に頭がくらくらする。両手が――そう、あの左手も一緒にたどたどしく動いて、獏良の腕がバクラの腰に巻きついた。
  かたく互いに抱き合っている。まるで三文芝居のような、在り得ない光景が闇の中にぼんやり浮かぶ。
  頭で叫ぶアラートが煩かった。違う、これは心音だ。こめかみでどくどくど、通常では在り得ない速さで血が流れている。爆発しそうな血流に息が苦しい。
  この早鐘を打つ音は、間違いなく獏良の耳に届いているだろう。引き剥がさなければ、弱みを握られてしまう。そう思う。同時に弱みって何だ、と頭を振る。心音を高くしていることの何が弱みに繋がる?
  問題なのはその原因が明かされることだ。抱き合って、その香に酩酊して、充足感に眩暈まで起こしていることを知られてはならない。ああこれでは――どちらが、依存を。
「ねえ、」
  と、もう一度、獏良が小さく呟いた。
  枯れ擦れた声に、また一つ心臓が跳ね上がる。平静を装って何だよ、と応じる、バクラの声も擦れていた。
  顔を上げずに、獏良は更に身体を寄せる。まるで心音に耳を寄せるように、その音を確かめるように。
  近づいた分だけ、獏良の音もまた、バクラに伝わった。負けずにどくどくどくどく、と、短距離を走りきったランナーのような激しいリズムは自分と同じ。重なって連続した一つの音になりそうなそれを、互いに聞く。呆然と、どこか陶然と。
  頭の中は混沌としすぎて逆に真っ白になりそうだ。とっくに出ている答えを無視して目を逸らす、その先に心音。逃げられない、四方を囲まれている。
  八方塞の窮地の真ん中で、バクラは呻いた。サレンダー、という単語が咄嗟に浮かび、打ち消す前に、くいと髪を引かれた。
  視線を降ろすと、獏良が顔をあげてこちらを見ていた。真っ赤に腫らせた目で、闇に浮かび上がるまっ青なふたそろいの視線に射貫かれる。何かに対し、意を決した瞳だった。
  駄目だ、この目は駄目だ。金縛りにあう全身、喉がごくりと勝手に鳴る。
「バクラ、」
  今まで呼びもしなかった、先ほど叫ぶように呼ぶまで決して口にしなかった呼び名を奏でて、獏良は言う。
  奪いたくなる濡れた唇が、言葉の形にひらいて、そうして、
「取引を、しようよ」