10 わたしはあなたの虚言を喰らう

いま、境界線を自分の意思で踏み越えたのだと獏良は悟った。
  踵の向こうに一本のラインがあり、今までずっとその向こう側にいた。迷いながら揺れながら、それでも踏み止まっていた。超えることはできないと思い込んでいたけれど、やってしまえば随分とあっけなく、そして簡単なことだった。
  左手の抵抗を跳ね除け飛び越えた先で捕まえたバクラの体温はいつもより僅かに熱く、腕の中で吸い込む空気は夜の匂いがしている。上げた視線は再び逸らして、もう一度、きつくしがみつく。
  闇に跪いて抱き合う、まるで恋人のような姿。
  口にした言葉をそのままおうむ返しに取引?とバクラが呟いた、擦れた声に甘さはなく、気だるい当惑が漂っているように感じられた。
『どんな取引だ』
「お前のすること、協力してあげる」
『あァ?』
「黙って見ない振りとかじゃなくて。…ボクが、ボクの意思で、皆を騙したり裏切ったり、ひどいこと、するんだ。その方がずっと上手くいく」
  自分でも驚くほど冷静に、そんな言葉が唇から零れていた。
  重ねあった身体の触れる部分から、互いの鼓動が聞えてくる。どくどくと早鐘を打つ心音を聞きながら、獏良はバクラの表情を思った。かたく抱き合っているせいで顔を確認することができない。絶句しているのか考えているのかそれともほくそえんでいるのか、いずれにせよ、表にあらわれる顔かたちの表情よりもこの音の方が余程リアルで正直だ。裏切りを提案した途端に、どくん、と鳴ったのはどちらの心臓だったのか。
『どういう風の吹き回しだ?』
  そんなことをしててめえにどんな利益があるってんだよ、と、バクラは言った。
  裏切りを愉悦と感じられる精神がもし獏良の中で育っていたら、行為そのもので取引は成立しただろう。だが生憎、獏良は背徳を楽しむ気持ちは無かったし友人を騙す行為はやっぱり.苦しみを伴うものだ。
  板ばさみはもう辛い。壊れてしまう前にどちらかを選ばなければならなく、それはずっと先延ばしにしてそれこそ見ない振りをしてきた現実だった。この身体で、この運命の中で生きていくならば選ばなければならない。
  欲しいものがあるなら手を伸ばさなければ捕まえられないことを、獏良は知ってしまった。何も無くさずに手に入れられるものではないことも知ってしまった。
  ならば――選ぶのは、
「その代わり、お前には嘘をつき続けてもらうんだ」
  選ぶのは、友情ではなく自己愛に決まっている。
  突きつけた交換条件に、バクラが息を止める音が重なった。二の句どころか一の句も告げない嘘の化身に向けて、獏良は更に言葉を連ねる。
  胸に猫のように額を擦り付けて、滴るほど甘い声で。
「ボクのこと、一人にしないで。お前の全部、ボクにちょうだい」

 

 

 沈黙は長かったのか短かったのか、時間の経過をあらわすものが体内時計以外に存在しない世界で、獏良はただ抱き合ったまま答えを待った。
  境界を踏み越えた先の決断は闇を震わせて響いた後、二人の間で天秤を揺らせている。選んだ選択に対する回答はバクラの舌の上でまだ形にはならない。辛抱強く待つ間、獏良は心音を数えて目を閉じて待った。途中で数が分からなくなり、五十の後に二十と数えてその後に三百とちぐはぐな数字をカウントしていく。
  千の単位に手を出す前に、くつくつ、と、笑い声が響いた。喉で笑う嫌味な音色は少し上ずって、どこか何かを抑え込んで、結局抑え切れずに溢れたような、それは間違いなく彼の素そのものの声だった。
『嘘でも愛して欲しいってか?』
「気持ち悪いこと言わないでくれる? ボクは一人にしないでって言ってるの。恋人ごっこしてって言ってるんじゃないんだよ」
『似たようなモンじゃねえか』
「そうかもしれないけど、そんな可愛らしい感情じゃないよ。ボクは自分のことしか考えてない」
  抱き合って囁きあうには凡そ似つかわしくない会話だった。獏良はバクラの胸元に額を頬を押し付けて、バクラは獏良の背中に両腕を回して引き寄せている。同じ顔をした鏡面世界で顔を上げると、瞳に映るのはどこか似通った笑みを浮かべた互いの姿だった。
『それにしたって、随分と高望みなんじゃねえのか? てめえの協力とオレ様自身、つりあいがとれると思うかい』
「大切な友達を裏切るんだよ。足りないくらいじゃないのかな」
『王サマがたの信頼やら友情やらと引き換えってことか。なら仕方ねえかもなァ』
  喉の笑いは止まらない。何がそんなにそうさせるのか、バクラは暫く嫌な音を立てて笑い、掌をじわりと動かした。蜘蛛が這う動きに似た愛撫で腰を可愛がられて、勝手に爪先が震える。今すぐ中に欲しいと思わせてしまう、この手指には毒が仕込まれているに違いない。悶えながら、獏良はなおも口を開いた。
「お前が欲しいから友達を売るんだ。お前がいなくなったりするのが嫌だから、お前のつく嘘が嘘になるのが嫌だから、交換条件を出したんだよ」
  そう、自分はもう引き返せない――確信して思う。
  この身体を使ってバクラがしようとしていることが果たしてどれだけ醜悪で惨たらしい計画なのか、それは獏良には考えも付かない。漠然と、きっと最悪にひどいことをするんだろうと思っているが、その想像よりも更にとんでもないことなのだろう。もしかしたら世界中を敵に回すことになるのかもしれないとさえ思う。
  罪悪感を全く覚えないわけではない、むしろ悪化している。恐らくこれからもずっと、獏良はこの痛みに耐えていかねばならない。遊戯と、城之内と、本田と杏子と――自分を受け入れてくれた彼らと並んで歩きたわいもない話をする度に、重責は増えていく。細い両肩に容赦なく罪は降りかかる。
  それでも獏良は耐え切れない。半身の喪失を受け入れることは出来ない。
  見捨てられたのではないかと思い込んだ瞬間の、足をつけた場所が一瞬にして消失し底抜けの奈落に落下するような恐怖――あんなものはもうこりごりなのだ。
  だから、獏良はバクラを選ぶ。友より、世界より、何もかもより優先して。
(ボクは操り人形じゃなくて、共犯者になるんだ)
  擦り寄った先には冷たい体温があった。生きてきた中でいっとう執着した甘い嘘が、この体温から生まれるのだ。そう思うといとおしさに似せた執着心がぞわぞわと肥大していくのが分かる。
   嘘が欲しい。バクラは嘘の塊だ、だからバクラ自体が欲しい。ずっとずっと嘘をつき続けて欲しい。
  唇に乗せるには余りにも狂おしい言葉を、獏良は舌先で転がしてからこくりと飲み込んだ。
(一緒に破滅するまで、その嘘を食べて生きるって、そう決めたんだ)