11 イドの解放

とんでもない言葉が漏れたその唇に思い切り噛み付いてやりたい。衝動的に突き抜けた欲求を迸る手前で押し込めると、欲はおかしな笑い声に変わった。嘲笑とも自嘲ともつかない音が闇を揺らす。
  今しがた投げ込まれた思いがけない取引がどの程度の利用価値を持つか、笑いながらバクラは思考した。考えるまでもないことだった。
  正直、さして糧にもなりはしない。当初の予定通りに骨抜きにしてしまえば結果は同じであるし、獏良が協力者として働こうが抵抗しようが、掌握した心を少し操作してやれば――嘘の上塗りさえしてしまえばすむ話だ。言うとおり、楽にはなるし上手くいく確率は上がるが、取引の材料になるほどの価値があるかと問われれば怪しい。
  それでも、考えるまでもないことなのだ。理論立てて冷静に思考する部分とは別の箇所で、既に了承してしまっている。
  むせ返るような愉悦がそこにあった。背中がぞくぞくと震えるようだった。
  何故だとかどうしてだとかそういった部分は解明できない。ただ、獏良が完全にこちら側に落ちたことを、お前が欲しいと欲望まみれの唇を舐めて口にしたことにひどく満足している自分がいた。
  白くて綺麗な傀儡人形。糸がなくても勝手に踊る、正しく理想どおりに。
  尾骨まで下りていた中指で背骨をつうと撫ぜた。細い身体が震え上がる。辿り着いた先で長い髪に触れ、柔らかで癖のある感触を楽しみつつ、バクラは口を開いた。
『オレ様と寝るのはそんなに悦かったかい?』
  吹き込む言葉は耳孔を犯す為に、擦れて低く。思ったとおり湿度の高い溜息を吐いて、獏良が身をくねらせた。伸びた手が甘やかに、バクラの肩に爪を立てる。
「…そうかもね。気持ちいいのは、本当」
『何だ、えらく素直じゃねえか』
「ここで強がり言ったって全部筒抜けなんだから、言わない。もういいんだ、そんなの」
  それより答えを聞かせてよ。
  菓子をねだる子供のような声で、獏良が言った。硬く抱き合っていた姿勢はいつのまにかずるずると崩れて、細い両膝は互い違いに噛み合い両腕は抱擁以外の意図をもって絡み始めている。
(答えだって?)
  鼻で笑いたい気分だった。そんなもの決まっている。たぶん獏良にももう分かっている。
  そのくせ明確な答えを求める唇は塞いでしまえ。二度目の欲求は抑えきれず、バクラは長い髪を力任せに掴むと上向けざまに口唇に深く噛み付いてやった。
「ぃ、ッ…!」
  勢いに負けてぶつかった歯と歯ががちり、音を立てる。閉じた歯列にねちこい挨拶をくれてやると、あっけなく開いた。誘い出すまでもなく獏良の舌先が無防備に差し出され、絡む。じんとした痺れに頭の芯を揺らされているのはお互いさまのようで、くたりと眼を閉じた獏良は睫の先まで震わせていた。
  舌を噛み切ってやりたい、それくらいたまらない表情だ。白い肌を内側から赤く染めて、くぐもった悲鳴を唇の端から漏らしている。触れるのは、三日ぶり――ああ、三日もこの身体に触れていなかったのだ。
  認めざるを得ない。どうしようもなく、自分はこの真っ白で真っ黒な宿主に惹かれている。見ない振り気づかない振りももう限界だ、触れたくて啼かせたくて仕方がない。友情と執着の間で苦悩する顔もたまらなければ油断しきって眠る顔も悪くない。お前なんか嫌いだと言いながら縋られた時など打ち震えて快感を覚えていた。
  あの日、頬に触れられた時に手を弾いた。気づかれたくはなかったからだ。
  離せと言われて苛立った。離したくなかったからだ。
  ごまかすことは出来ない。なんてみっともない姿を晒しているのか。それでも、もう逆らう気はない。それこそ獏良が言ったように「もういい」のだ、そんなものなど。
『取引なんざ、後ンなって踏み倒されて泣いたって遅いぜ』
  唇はつけたまま、濡れた唇の唾液をべろりと舐め取ってからバクラは言ってやった。とろんとした目つきでそれを受け入れながら、息も切れ切れ、獏良は眼を眇めて見せる。
「いい、よ。あとはお前の良心に期待することにした、から」
『は、そんなモン、オレ様の中身全部ぶちまけたところで見つかるかどうか怪しいもんだなァ?』
  良心などどこにもありはしない。ありはしないが反故にする気も今のところはない。こう見えても自分は気に入ったものは長く傍においておく性質なのだと言ってやると、獏良は眼を丸くして、それからうっとりするような顔で笑った。
  蕩ける笑顔に、殺したいほどかわいがってやりたい衝動が込み上げた。乱暴に突き倒して、その上に押しかかる。苦しげな表情は嫌いじゃない、むしろ好きだ。もっと見たくて、今までしなかったこと――優しく手管に丸め込んでいた時には決してしなかった荒々しい手付きで服の合わせ目を探る。三日前に乱暴した時よりももっと強引に、欠片も気遣いをこめずに暴いて現れた真っ白い肌に、当分消えない噛み跡を残してやる事にした。浮いた鎖骨を歯で折るつもりで喰らいつく。
  痛い、と悲鳴を上げながら、嫌だとは言われなかった。溢れる赤い色に、その反応に満足する。
『後悔するなよ、宿主サマ』
  見せたこともない、本能剥き出しの目つきでバクラは笑って見せた。
『取引成立だ。改めて、これからもよろしく頼むぜ、――相棒?』
  それは「彼ら」に対する侮蔑を込めた呼び名だ。魂で繋がる、清い絆を持つ遊戯ともう一人の彼への嘲り。
  信頼や友情という真っ白な光と光でしっかりと結び合うもの達と自分達は対極だった。執着と自己愛でべたつく糸が魂を絡み合わせている。だが、その結束の強さは引けを取らない。同じ皿に乗った罪を二人で喰らう共犯者は、信頼を知らない分、裏切りとも無縁だ。
  言葉に擦れた吐息を吐き出した獏良は、答える代わりに左手を持ち上げた。背中にがり、と、爪が立てられる。
  溶け合う境界線。痛みと快感。ようやっと、二つの魂が癒着する瞬間。
  まみえた瞳に宿る執着の色は、全く同じ、どろどろと渦を巻く漆黒だった。