【同人再録】柳を折るひと【R18】

発行: 2012/08/11
たびたび自分を心の部屋へ閉じ込めて居なくなるバクラへ、こっそりとある「おまじない」をかける宿主。
身体の繋がりはあるものの心の通わないバク獏の、薄めの薄暗いお話。


 
揺さぶられる前後運動。
 そこに快感があるのかどうか、獏良には正直良く分かって居なかった。
「あ――ぅ、あ」
 母音の悲鳴が他人のもののようだ。
 汗の玉が雨のように降ってくる。弾む吐息。首を擽る髪の房。湿った音。まぐわうのは二つの白い塊――自分と、他人と。
 覆いかぶさった男の顔を、獏良は生理的に潤む瞳で見上げた。
 鏡の向こうで見る同じ顔が、自身では浮かべることのできない表情――皮肉を全身で体現したかのような表情でもって笑っている。
(バクラ)
 ――に。
 心の部屋で犯されるという日常を、今日も繰り返している。
 相手は男で、自身も同様。凸と凸が交じり合う不条理は、始まりの原因が思い出せないが故に終わりの場所も見いだせなかった。雌の器官など持ち合わせているはずもなく、バクラが穿つのは本来受け入れる場所ではない箇所だ。
「ひ、ぅ」
 打ち付けられる度にぬるついた音が響く。どのような体液でもって濡れそぼっているのか考えたくもない。精液は無論のこと、唾液も血液もありうる。バクラは常識はずれが故、排泄器官に口をつけることにも抵抗は皆無だった。
 抜き差しされれば、獏良の喉から悲鳴が上がる。
「やぁ、あ、ッう、」
 その母音の連続音が気持ちいいのか気持ち悪いのか。
 どちらの感情から生まれたのか、獏良には分からない。もうずいぶん長いこと、こんな関係を続けているのに。
(いい加減、名前がついてもよさそうなのに)
 思いながら、獏良は内側から溢れてくる正体不明の感覚を猫の鳴き声の如く絞り出す。
 そうすると、
(みっともないって云うんだろう)
「みっともねえ声」
 ほら、当たった。
 腰を打ち付けながらも器用に顔を寄せてきたバクラが、思った通りの言葉を吐いた。言葉に絡まるのは熱い吐息。耳元で囁かれてひどくぞくりとする。これも、快感なのか悪寒なのか。
「嫌そうな面がいっとう似合うぜ、宿主サマ」
 ひどい言葉だ。なのに唇が渇く。舐めると唾液から官能の味がした。
 ならばこれは気持ちが良いのだろうか。そう考え、すぐに違うと思い直した。この味はバクラが唇を寄せてきた時に移ったもので、自前のそれではない。この身からそういったものが分泌されるなら、そもそも考え込んだりしていない。
 そして、
(どうせお前だって、他のこと考えてるんだし)
 そう知っているから尚更、真実心を向ける気にはならないのだった。
 顔を背けた獏良の心は、セックスよりも自身の内面に向いていく。バクラの行為の裏側にはいつだって、ひどく冷めた企てがあった。快感を与え、肉欲の鎖で獏良を縛るのが目的。くたくたに蕩けたその身体から心へと快楽が感染して、そうして出来上がる便利な人形だけが必要だ。
 その為の下ごしらえはえらく入念に行われていた。優しい言葉と手酷い行為を交互に出し合い、所謂飴と鞭を駆使して獏良を苛む。
 『宿主サマ』
 と、呼ぶ後に続く言葉。
 こっち見ろよ。可愛い奴。ひでえ面。みっともねえ。たまんねえな。
 短い言葉を挟み込み、苛めて甘やかし、甘やかして苛める。
 両の腕の長さより先に獏良が逃げ出さない――逃げ出せないように。
 されど決して抱きしめたりはしない、悪巧みが得意な悪魔。
 そんなバクラが気づいていない誤算は、言葉も行為もどれ一つとして効果的に、獏良の心を溶かせていないことだった。
 身体は反応する。心の表面だけなら何かを感じることもある。嬉しい悲しい、そんな風に思うこともある。けれど一度として、獏良の心の芯が揺り動かされたことはなかった。
(ひょっとしたら、最初のさいしょでボクの心は限界を超えてしまったのかもしれない)
 初めてバクラと出会った時に。
 頭の真ん中でぐらぐらと揺れるあの愉悦の声を聴いた時に。人ならざるものの手で心を掴まれた瞬間に、自分の心は許容量を超えてしまったのではないだろうか。何せ相手は邪悪そのものだ、吐息は毒を含み手のひらは温度を奪う。とっくの昔に心は死んで、反射を返すだけの人形になっているのではなかろうか。
 もしそうなら、バクラは自分が作り上げた人形に魂があると勘違いして、一生懸命腰を振っていることになる。
(あ、それちょっと愉快)
 思ったなら、ふと吐息が漏れてしまった。くふりと笑う音が零れ、耳聡いバクラは唇を舐める。
「なァに笑ってんだよ。余裕じゃねえか」
「そ、んなこと、ない」
「どうだか。随分慣れちまったなァ、男咥え込むのも」
 ずるん、と、最奥から性器が引き抜かれる。腹の内側がおかしな風に疼く感覚からして、その通りに慣れてしまっているのだろう。
 今自分自身がどんな格好になっているのか、獏良にも想像がつく。バクラの表情を鏡代わりに察すれば、相当なことになっているようだ。力が入らなくなった膝はだらりと開き、その間にバクラを受け入れ、鬱血だらけの首と胸とだらしなく開いた唇、濁った瞳――バクラ好みの、堕落そのもの。
 一度引き抜かれた雄はまだ漲っている。唇同様に締まりのない入口に再び押し付けられた熱は、意地悪く肉色の縁を苛めてくる。
「やめ、ッ、て、よ、するならさっさと」
「分かってねえな、堪能してんのさ」
 思ってもいないことをバクラは云う。嘘吐き、と動かした唇は見咎められることはなかった。
 苛められていた入口が広がり、再び内部が満たされる。圧迫感にさえ慣れた身体はまるで別人のもののように感じられた。狭い肉の道はバクラの性器の形そのままに広がり、内臓が凹凸の形まで覚えている。
「顔は背けんなよ。ちゃあんと見せな」
 バクラが獏良の腰を掴む。がっちりと固定されてからの侵入されるのはひどく息苦しかった。穿つ動きは始めは深く大きく、終わりが近くなれば小刻みになる。前屈みに細かな前後動を繰り返し、中に吐き出しておしまいだ。いつものパターン、今日もまたそうなるだろう。
「く、ぅあ、あ、ッ」
 閉じ方を忘れた口から勝手に漏れる、官能の声。
 気持ち良くなんかない。否、分からないのに、身体だけがバクラ好みの反応を返す。こんなのはセックスではなく他人の穴を使った自慰行為だと冷めた部分が呟いて、全くその通りだと思った。
 心の通わない肌と肌の交わりなんて何も生まない。アスファルトの上に種を撒いて水をやるようなものだ。それとも根気強く続けていれば、土の無い場所にも根は張るのだろうか。いずれ突き抜けて、アスファルトの向こうにある大地に届くだろうか。
 そうして花を、咲かせるだろうか。
(無意味な、ことだ)
 ぐるぐるぐる、思考は巡る。揺さぶられて突き上げられて、されるがままに獏良は乱れる。風に翻弄される路上の紙屑のように。
 そうしてほどなく訪れる熱の解放。自身の指では届かない場所へ、塊が叩き付けられる感覚――これも既に、慣れてしまった。
「ぅあ……」
「中出しされて感じるようになっちまったか?」
 笑い声は近くて遠い。
 勘違い、ではない。少なくとも身体はそう感じている。
 今の獏良は心と身体が全く別のものだ。ぶるりと震えあがり、漏らした精液に意思など関係ない。全く以て人間として壊れている。そうしたのは目の前で薄ら笑いを浮かべている男なのだけれども。
「ま、今日もお疲れさんってことで」
 まるで売女に金でも投げるように、バクラは事後に冷たい言葉を吐いた。
 今もしもここで、ちくりとでもいい、胸が痛んでいたら。
 或いは交わりを快楽だと、きちんと認識できていたら。
(そうしたらもしかしたら、バクラを好きになれていたかもしれない)
勿論、現実そうなってしまえば辛いことだらけだ。想う相手に想われないというのはひどく悲しいことだ。テレビの向こうや文字列の中にしか見たことの無い恋愛感情というものは、獏良の中にも知識として存在している。それでもこんな風に漠然としているよりはましなのではないだろうか。逆の立場からすれば、こんなに苦しいのなら好きになんてならなければよかったなどと云うのだろうけれども――所詮、隣の芝は青い。
 恋ではない。
 愛ではない。
 気持ち良くも不快でもない。だから苦しくも無い。ただ蟠るぼんやりとした不安。獏良は狭間でか細い息をする。
 繰り返し、思う。
 こんな自分は、とっくの昔に人形に変わっているのではなかろうか。
(ああでも、まだボクは人形じゃない)
 点滅する思考が吐き出す答えはしかし、ぱちんとノーをはじき出した。バクラの欲しがる肉人形。完成している? いや、していない。心は凍えているけれど、たった一つだけ、獏良の中で熱を持っている感情がある。
 セックスもどうでもいい。キスさえ何も感じない。独占欲すらない。だから嫉妬もしない。
 ただ一つ。
 バクラに対して、期待していること――願っていることが、一つだけ。
「――ッ」
 吐き出しそうになったそれを、獏良は唾ごと飲み込んで掻き消した。
 それとも、今伝えたら何か変わるだろうか。こみ上げる受動態の精のように、堪えきれずに吐き出したら不安は無くなるか?
(わかんない、よ)
 肉体の刺激を苦痛と感じない獏良は、そこで初めて、自身の不安の吐露として苦しげに唇をゆがめた。
 既に身を起こし、乱れた着衣を直し始めたバクラがそれを見ることはない。ことが終わればバクラはすぐに、心の部屋を去ってしまう。疲弊した獏良の心はそのまま闇色の牢獄に監禁される。そして、空っぽになった肉体を行使しバクラは悪巧みと悪意の糸を巡らす仕事に向かう。忙しないのだ。
 獏良は横向きに頽れたまま、ジーンズのジッパーを上げ、コートに袖を通すバクラの背中をぼんやり眺めていた。
「……ばくら」
 と。
 呼んで、振り向いたその先を、獏良は見つけていない。
 伸ばしかけた手を――翻るコートの裾を掴もうとした手を、ぎゅっと拳の形に握る。
「何か云ったか」
 今更振り向いたバクラの目には、事後そのままに打ち捨てられた獏良が闇の泥濘に横たわっているとしか見えないだろう。
 それでいい? それがいい?
(分からない)
 分からないまま、獏良はねばつく唇を微かに開いた。
 そして呟くのだ。いつものように、いつものとおりに。
 音に出来ない陳腐な願望と不安を裏側に貼り付けた、呪詛のことばを。

「いってらっしゃい」

 彼がその言葉に答えたことが、一度たりとも無くとも。 

—————–

 
 いってらっしゃい。
 いってらっしゃい。
 イッテラッシャイ。
 何度聞いただろうか。何度無視しただろうか。
 獏良の思考、思惑。そんなものは見ただけで理解できるはずなのに、その言葉を吐き出す瞬間の胡乱な音階から、どうしても真意を読み取れなかった。
(どういうつもりで、あんなことを云う)
 と、端に悩むことがあっても、どうせ大した意味などないと深く考えることを放置し、結局バクラは一度として獏良に向かい合うことはなかった。
 必要が無かったのだ。
 獏良が取り留めのない思考を持っていたことは知っていたが、結果、彼が従順であったことに変わりはない。盤面を作り上げた細やかな指先は称賛に値する腕前であったし、偶に逆らうことはあれど、手管を駆使すればいつでも思い通りになった。どんな人間でも肉欲の前には膝を折る。それが寂しがり屋の子供ならばなおのことだ。
 ここではない世界へと、器の遊戯達は旅立った。これから最後のゲームが始まろうとしている。
 獏良がどのような思惑を胸に溜めていたとしても、転がった賽は坂道をくだるだけ。誰も止めることなど出来ない。
 天秤に弾かれ傷ついた獏良を、砂糖をまぶした嘘で可愛がるのも――これで、最後だ。
「分かってるな、宿主」
 着乱れた服を正すことも無く、だらしなく開いたまま寝そべる獏良の頬を、バクラはいやらしく撫で上げた。
「いつも通り、ここで良い子にしてな。オレ様が良いと云うまで目を瞑って黙ってろ。邪魔するなよ」
「わかってるよ」
 散々声を上げた所為で、喉はひどく絡んでいるようだ。か細い返事は是。立ち上がりバクラは目を細めた。上々の仕上がりである。
(これが最後だと知ったら、やかましく泣き喚くんだろうけどな)
 然したる感動もなく冷静に、バクラは思った。構われなくなったら寂しくて寂しくて発狂する、可哀想な操り人形。まったく主はどちらなのやら。やどぬし、という呼び名は、皮肉が効いていて気に入っている。
「終わったらまた可愛がってやる」
 嘘を平然と吐くと、獏良は少し笑った。
 綺麗な形の薄い唇が、うんと云う。その笑みは追従のそれ――では、なく。
「いってらっしゃい」
 何もかも見透かしたかのような、うすら寒ささえ含んでいた。
 零れた呟きはやはり胡乱だった。まるで祈るような、それでいて児戯のような、曖昧な声。
「いってらっしゃい、バクラ」
「――」
 耳に馴染んでしまった見送りの言葉が、今日もまた鼓膜に触れた。
 どうでもいい。それもこれもあれもどれも。全ては一つの目的の為に動いている。
 だから足を止める、理由など、ない。
 分かっているのに、踵はまるで心の闇の泥濘に捕らわれたかのように、動かなくなった。
「ど、」
 うだって、いい。
 その言葉の意味。真意。繰り返したのは何故かだなんて。
 初めからどうでもいいと思っていたから追及しなかった。明日の天気くらい、自分にとっては関係の無いことだ。
 だのに青い瞳の奥、縋るようなひと匙の感情がバクラの足を引き留める。
『いってらっしゃい』。
 百は聞いた気すらする、見送りのことば。
「宿主」
「ん?」
 初めてだった。
 去り際の送り文句に応じたバクラを、獏良は不思議そうに見上げた。
「どうしたの? 急いでるんじゃないの」
 ああその通りだ。急いでいる。分身が器たちの相手をしている間に相応しい舞台を作り上げねば。あの出来のいい仮想空間のテーブルが待っている。こんなところで油を売っている場合ではない。冷静な部分が引き留めるのを、また違った冷静さが上塗りして囁くのをバクラは聞いた。
 全ては盤石。急ぐ必要はない。だったら今ここで、今まで放置していた疑問を解いてから向かったっていいではないか。些細なことだが何が災うか幸うか知れない。数分の問答を厭うほど余裕が無いわけじゃないだろう。
 金色の天秤が揺れた時と同じように、バクラの頭の中で事象が並ぶ。
 そうして導かれた答が、バクラの膝を再び闇色の地面に着かせたのだった。
「その台詞、何の意味があんだよ」
 いってらっしゃい、と。
 何故繰り返す。何故幾度も、こちらが答えないことを分かっていて。
 無機質であやふやな、泡のような声で呟く理由は、何だったのか。
 問うと、獏良はひとつ瞬きをして――
「今更だね」
 と、溜息のように云った。
「ずっと無視してた癖に、何で今そんなこと云うのかな」
「別に意味はねえよ。このオレ様が質問してやったんだ、てめえは大人しく答えてりゃあいい」
「何様だよ。ああ、オレ様か」
 くすくすくす。
 場に全くそぐわない様子で獏良が笑った。
 交わりの残滓は色濃い。濡れた唇と目元と噛み痕だらけの胸元を曝して、造りだけは綺麗な獏良が漏らす音色は柳の葉が擦れ合うそれに似ていた。
 力の無い指先がつい、と伸ばされ、バクラの襟元の乱れを直す。
 薄色の唇が、また小さい嘆息を漏らした。
「本当にもう、お前って空気読めない」
「てめえにだけは云われたくねえな」
「云いたくないんだよ。だから云わなかった。お前も聞くなら早くやってよ。そしたら――」
 そしたら、何か変わったのかもしれないのにさ。
 憂鬱そうな呟きはバクラに向けられていない。自分自身に対して告げているように聞こえた。
「そりゃ最初は期待もいっぱいしてたけど、最近になって大分諦められた。やっとそうなれたのに、ひっくり返すとか最悪だよ。
 でもいいや。それこそ今更だしね。今云わないと一生云えないかもしれない」
「さっきから独り言なのかオレ様に云ってんのか、どっちかにしやがれ」
「おまじないだよ」
「はァ?」
 襟に触れていた手がぽとりと落ちた。
 真っ暗闇の心の部屋は獏良の心境をそのまま映している。いつからだろうか、泥濘が増えていた。此度もぱしゃんと波紋が響き、水のような闇の飛沫が小さく散った。
 どろついた心の内側。何を意味しているか――不安、だろうか。
 ぽつぽつと語る抑揚のない声は、寝言に良く似ていた。
「おまじないってどういう字を書くか知ってる? 呪い、って書くんだ」
「だから何だよ。てめえはオレ様を呪ってたのか?」
「そう。お前に呪いをかけてやったんだ。ボクは」
 言霊というものがある。
 発された言葉そのものに力があるという考え方で、日本独自のものらしい。想うだけではなく音として発することで森羅万象に何らかの影響を及ぼす。科学とは正反対の、オカルティズムに近い法則だ。
 非科学的な存在であるバクラはそういった魂や見えぬ力を否定しない。だからこそ一瞬、喉が詰まった。
(その言葉に)
「何の呪いを、込めたんだよ」
「難しいことなんかしてないよ、そのまんま」
「イッテラッシャイが何だってんだ」
「ばかだなあ、まだ分かんないの?」
 一瞬、獏良の頬が泣きそうに歪んだ。
 すぐに元のあやふやなそれに戻ったが、バクラの目にはきっちりと映っていた――できれば見逃したかった。
 獏良の独白は続いていく。平坦な口調とは裏腹に増えていく泥濘。心境の変化は、この空間では雄弁すぎる。
「いってらっしゃいって云われた人は、いってきますって云わなきゃいけないよね」
「まあ、一般的だな」
「いってきますって云ったら、ただいままでがセットでしょう? ボクが欲しかったのはそれ」
「……訳分かんねえ」
「簡単だってば。お前が何処に行っても何をしても、ボクのところにだけ帰って来るように、ボクは呪いをかけたんだ。
 何でかなんて聞かないでね。それが分かれば苦労はしないんだからさ」
 ――と。
 獏良が笑った。薄紙のような笑みだった。
「別にお前のことを好きだとか愛してるだとかそういうんじゃなかった。単純に、お前の帰る場所になりたかった。
 これが、ほんとの宿主に成り損ねたボクの、唯一無二の存在になりたかったボクの、格好悪くてみっともない呪い」
 でももう叶わないから、お前にばらしてもいいんだ――
 と、獏良は息を吐いた。
「やど、」
「帰ってこないんでしょ」
 呼びかけを遮って吐き出される答。見てれば分かるよと、何でもないことのように獏良は云った。
「何回お前にこういうことされたと思ってるんだよ。いくらボクが鈍くたってね、そういうのはちゃんと分かる。今日は妙に優しかったしね」
「……は。とんだ狸だぜ」
「何とでもどうぞ。だからね、さっきのが最後の呪い」
「叶わないんじゃなかったのかよ」
「それとこれとは話が別。もしかしたらどうにかなるかもしれないじゃないか。お前がやろうとしてることを諦めて、ボクを選んでくれるかもしれない」
 それこそ夢だ。あるわけのない絵空事と分かっているのだろう、獏良の瞳に自嘲が宿る。
 なんてね、と首を傾げると、年齢不詳のあどけなさが目立った。
「お前はボクを選ばない。絶対に」
「分かってンなら無駄な足掻きは止めるこった。さっきの呪い、取り消したけりゃそうしていいぜ」
 バクラの舌は勝手に意地悪を連ねる。傷ついたようには見えず、獏良は曖昧にうん、とだけ返した。
 健気でもない。自愛に近い。これは依存か執着か。
 否、どれでもない。
 声と同じ泡の如くうたかたの、名前のつかない感情だ。泣きわめいて置いて行かないでと訴えるでもなく、信じて帰りを待つ訳でもなく、そのどれもが正解でどれもが間違っている。ひとつに絞れない獏良の願いは泥濘に現れては散った。
 ああ、これもまた狂気だ。
 幼子が無邪気に秘めた純然たる呪い。甘く煮詰めた砂糖菓子のような、まさしく狂気の沙汰だった。
「お前がいってきますって返してたら、きっとボクはお前のことが好きになってた。だからほっとしてる。いなくなるお前を好きにならなくて済む。でも同じくらいがっかりしてる。もしお前を好きになれていたら、ボクは――」
 その先を聞きたくなかった。咄嗟に、バクラは獏良の喉を掴んでいた。
 丸く見開かれる青い瞳に、鏡映る自分の顔を見る。
(どうしたい)
 ――分からなくなった。
 映り込む表情は無。その癖妙にざわざわとする。獏良がしていた惨めな呪いに効果はない。もともと帰る場所などありはしないし、仮令それが必要だとしても名前限りの宿主風情がその場所になれる訳がない。只の器が不相応な願いを持ったものだと、嘲りすら感じる。
 帰る場所。
 例えるならば故郷のように、いつだって受け入れてくれる場所。
 ――そんなものは、要らない。
「っ、く、」
 無表情に締め上げ続ける中で、苦しげなうめき声を聞いた。
 バクラは己が五指を見る。白い喉首に食い込む蜘蛛の足のような指。帰る場所になりたいと望んだ呪い主は空気を求めて震えていた。瞳には苦痛と諦観。青色が「やっぱりね」とでも云いたげに細められる。
「そう、でしょ、おまえはボクのこと、人形って、それだけで」
 見透かした物言いが、癪に触った。
 全部分かっている、分かった上で願ったんだと。
(それこそ何様の心算だ、宿主)
 翻してやりたく、なった。
 最後の意地悪。呪い返しをしてやりたくなった。相手はじきに用の無くなる器人形。遠くない未来、その頭上にも訪れる消失――悲願が叶えば獏良も無事では済まない――その瞬間まで苦しむようなとっておきの置き土産を。
(オレ様相手に見透かした面したてめえに、最高の呪いを掛けてやろうか)
 諦観の青い瞳を、期待と隣り合わせの絶望で埋めてしまえ。
 バクラは密やかに笑んだ。
 これは悪意から生まれる行為だと、実行に移す前に再確認する。決して、ひと欠片の人間らしさが獏良に報いてやろうとする優しい嘘ではない。行うのは手酷い悪魔の仕打ちだ。善なるものなど何一つ、この唇から生まれることはない。
 だから、
「っ……、う!?」
 喉を締め上げ塞いだ唇からは、きっと害毒の甘さが滲んでいたはずだ。
 目と目が合い、細めると獏良はおどついた様子で視線を逸らした。あまり見かけることのなくなった狼狽に胸がすく。腕を叩かれ解放すれば、はずれた視線は斜め下を向き、バクラを見ようとしない。
「な、に、考えてるんだ、どういうつもりだよ」
「どうって、気が変わったからそのご挨拶をな。あんだけ熱烈にオネガイされちゃあ、オレ様だって考えを改めるさ」
 予想だにしなかったであろう言葉に、獏良は呆けたような顔をした。え、と響く声に震え。返すのは、笑顔。
「オレ様はちゃあんとココに帰って来るぜ」
「え、な……」
「宿主サマ。やーどーぬーし、だぜ? 字面をようく考えろよ。どっからどう見ても、最初っからオレ様の居場所はてめえン中しかねえだろ」
「そんなの嘘だ、だったらボクは何で、今まで」
 狼狽ぶりがおかし過ぎて、バクラは笑った。その笑みはきっと、陽の感情から生まれたものに見えただろう。背けたがる獏良の顎を掴んでそっと引き寄せ、唇を軽く寄せてやる。
「正直、戻る気はなかったんだけどよ――やっぱりオレ様は、此処がいい」
 此処、と、指を指すのは獏良の胸。
 指の腹を押し返す柔らかさはなく、痩せた胸は肋骨のおうとつまで浮かす。そこを丁寧にたどると、獏良は今までに聞いたことの無い悲鳴を上げた。
「う、うそだ、嘘だって云ってよ」
 突然すぎる申し出について行けず、獏良の顔から諦観の仮面がぼろぼろと剥がれていく。痛快な気分だった。唇を震わせ、獏良は後ずさる。追いかけて追い詰めて、そうしてバクラは初めてかもしれない抱擁を与えてやった。
「やっ……」
 咄嗟に拒もうとして、身体が強張る。
 嘘くさくないように丁寧に背中を撫ぜれば――やがて、身体と声から緊張が抜けた。どうして、と問う声は涙声だ。
「なら、どうして…… なんでそう云ってくれなかったんだ、いってきますもただいまも、一回も云わなかったじゃないか……!」
「云うまでもねえからだ。てめえにオレ様しかいねえように、オレ様にだっててめえしかいねえんだよ」
「っ……」
「これ以上は云わなくても分かんだろ? 鈍くたってそれくらいは分かるっっつったのはソッチだからな」
「違う、そんな、そんなの…… ボクは」
「信じろよ」
 ――そして、最後の駄目押し。
「とっくに惚れてくれてンのかと思ってたぜ、宿主」
 涙声は、声ではなく滴になって、遂に溢れた。
 怯え震えていた手が、バクラの背中にきつく爪を立てる。
 声を上げて獏良は泣いた。歓喜の証の滴は暖かく、黒いコートの生地に染みてゆく。その温度はしかし、バクラの凍りついた心を溶かす力はなかった。
 抱きしめ、互い違いになる表情は伺えない。耳元で囁くバクラが嘲笑っていても、獏良に見破ることは出来なかった。
「オレ様は帰って来る。だからいい子で待ってな。
 帰ってきたら、今まで苛めた分、帳消しになるくらい可愛がってやるよ」
「バカ、馬鹿だ、お前もボクもっ」
 そうして泣きじゃくり、悲鳴が嗚咽に変わるまでの間、バクラはずっと笑っていた。優しく背中を撫ぜ、甘い慰めを囁き、落ち着くまでの時間を与えてやった。
 獏良は幸せな涙を流し続ける。その手のひらから、唇から、触れる髪の一房からでさえ、呪い返しの毒が染みていくのも知らずに。
「バクラ、ばくら、ばくら、お願いだから」
「ああ、分かってんぜ」
 求められるその先を、バクラはよく知っていた。
 泣き腫らした顔を上げた獏良の目元に溜まる涙を舌先で舐め、ついでにもう一つ口づけ。
 やんわりと腕を外させ、今度こそバクラは立ち上がる。
 もうつくことのない膝の辺り、ジーンズをくいとひっぱる獏良の頭を撫ぜて。
 呪い返しの滴る唇を、開いて。
 獏良が送った呪いの、答えを。

「――イッテキマス」
 

(苦しめよ、宿主)
 死ぬ瞬間にオレ様のことで頭腐らせて。
 お前は最期の最後まで希望して、希望して、絶望して、死ね。