サード・セプデンバーは夢を見ない【2014獏良生誕SS】

 絶頂と失墜と。
 吸った息を吐くことも吸うこともできずに詰まらせて、次の瞬間に吐き出す時、まるで一度死んだような気分になる。生まれかわったような、なんて気持ちの良さとは正反対の気怠さと鉛のように重くなる四肢の感覚を、獏良は胡乱な意識で感じていた。
 心の部屋でこうしてバクラと身体を重ねることに、何の意味があるのだろう。
 熱を打ち込まれ果てる時、射精するその時さえ、これが快感なのかどうか獏良には未だに分からない。無理やり引き上げられて叩き落されているような、たちの悪い絶叫アトラクションに縛り付けられている気さえする。それでも何故か身体は熱を欲しがって、週に幾度かは、こんな意味の分からない熱暴走に振り回されている――
「う……」
 ずる、と、中に埋まっていた熱源が出ていく感触に、肌がざわめく。
 名残惜しさはない。もっとだなんて思っていないのに、締め上げた入り口ではない箇所の収縮に、バクラが哂う。引き留めンなら上のクチでやれよ、という囁きは、これが獏良の意思と反して行われた反射行動だと理解しての下品な揶揄だ。
 最低だ、と返したら、それは失礼、と肩を竦められた。
 事後にしてはえらくあっさりとした動きでバクラは立ち上がり、半裸のままで首をこきりと鳴らした。身体なんてないくせに、と、食い散らかされた草食獣の気分で横たわる獏良は思う。自分と同じ見た目で、されどヒトではないモノは目の前で軽く手を振るだけで、乱れた衣類をもとに戻すことが出来てしまう。ここでは可視の闇がしゅるりと巻き付いて、見慣れたジーンズとボーダーのシャツになる。あれは便利なものだ、うらやましい――自分の心の部屋だというのに、獏良は己の心の闇の扱い方すら知らない。
 ごろん、と、寝返りをひとつして、天を見上げた。
 天地左右に境目はない。だが、自分はいつもあそこから墜ちてくるのだと獏良は思う。
 今日とて、さあ眠ろうと思っていたところで、バクラに腕を掴まれてここへ引っ張り込まれたのだ。何をするんだとかどうする気なんだとか、そういった質問はするだけ無駄で、捕まえられたらもう逃げるつもりはない。無駄だからだ。逆らって叶うなら、とっくの昔にやっている。こんな関係になる前に――手遅れになる前に。
 見上げる天は現実と繋がっているはずで、そこには住み慣れた自室のベッドがあるだろう。肉体だけが死んだようにシーツに埋まって、寝息すら聞こえない、静寂の中で時計の針が働く音だけが響いている寂しい自室を、ぼんやりと獏良は思い浮かべた。
「何時、だろ」
 思考しただけのつもりだったが、口に出ていた。振り向いたバクラは冷めた目で、さあな、と言う。
「二時かそこいらじゃねえの。宿主サマをお招きしてから一時間半ってとこだ」
「招いたんじゃなくて、引っ張り込んだの間違いだよ」
「どっちも変わりゃしねえよ、やる事なんざ一つきりだ」
 腹が立つ正論に、獏良は無言を返事とした。いついかなる時も嫌味は忘れない、本当にバクラは嫌な男だと再認識する。
 二時か、そうか、と、唇の中で独り言。
「誕生日、終わってたんだ」
 昨日は九月二日で、現在は既に三日だった。
 誰からも祝われていないのは当然のことで、獏良の誕生日を知る者は、今のところ家族以外に居なかった。その家族のうち、父は海外で連絡がとれない。いつか帰国した時に渡される土産がプレゼント代わりだ。昔からの事なので慣れている。
 心から祝ってくれたのは妹で、それももう、獏良が今見上げる闇天の先、現実世界のまた先の天にある死者の国に旅立った。残る友人たち――そう呼んでいいのか未だによく分からないけれど――には、聞かれていないので教えていない。
 それだけのことで、獏良にとって九月二日は一日の翌日、それだけのことだった。忘れていてもおかしくない、ただの日常の一日。
 只、今は一人だけ、誕生日を知る者が居て。
「あァ、そういやそうだったな」
 見下ろす青い瞳の主、バクラがそう応じた。
 家族でも友人でもない、獏良の身体に寄生する強制的な心の同居人。彼は誕生日を知っていた。おそらくこの男に、獏良に関する事項で知らないことなど殆どありはしないだろう。
 不意に瞳が、猫のように細くなる。唇は切り落とした爪のような細い月の形。
 嗜虐の笑みに、獏良の背中がぞくりと冷えた。
「誰にもお祝いして貰えなくてベソかいてんのか? 宿主サマは繊細でいらっしゃる」
「別にいらないよ、そんなの。必要ないから、誰にも教えてないんだ」
 過去の学校での出来事は未だに獏良の胸に、五条の傷跡と共に刻み込まれている。友人を傷つけた自分が、そして今、新しく出来た友人でさえ裏切っている――バクラの事を離せないでいる自分が、生まれてきて良かったものなのか。
 最近、特に分からなくなった。
 時の流れを遡る事が出来たとして、生まれなければ。
 少なくともこんなことには、成らなかったはずなのに。
「下らねえこと考えてンじゃねえよ」
 こつん、と、こめかみに軽い衝撃を感じ、獏良は思考の海から意識を取り戻した。
 天を遮り、バクラがこちらを真上から見下ろしている。裸足の爪先で小突かれたことに気が付き、不快感に顔を顰める。
 気にもせず、バクラはひょいとしゃがみ込んだ。
「生まれて良かったのか、此処にいていいのか、祝われる身の上なんかじゃねえ――なぁんて、考えてたんじゃねえの?」
「……」
「だんまりとは雄弁なお返事で。
 だがなァ宿主、そいつは違うぜ。少なくともオレ様にとって、てめえが居てくれないと存在すら危うい。誰よりも、てめえの生まれを喜ばしく思ってる」
 ほら起きな――と、バクラは獏良の腕を取り、引き起こした。
 向かい合えば鏡写し。闇の中で見つめ合うと、どちらが自分なのか分からなくなる。
 動いたのはバクラが先で、頬に感じた温度は獏良の平熱と同じ35.7度。交わりで乱れほつれた髪を巻き込んで、あくまで優しく、バクラは獏良の頬を撫ぜる。
「祝ってやろうか。なァ?」
「……要らないよ」
「下手な嘘だな。欲しいって顔に書いてあるぜ」
「うるさいな。第一お前、そういう言葉言えるの? お前は悪いモノなんだから、そういう正反対のこと、言うとよくないんじゃないの」
「ンな訳ねえだろ、本音なんだからよ」
「やめてよ、話して。喋らないで」
 拒否は通用しない。頬を撫ぜる手は意味を変え、ざわざわと、わざと下心をちらつかせて耳朶をいじり始める。すぐに反応してしまうのは事後だからだ、それ以外の理由はない。
 近づく唇が湿っている。嗜虐の舌なめずりに濡れたそれが、獏良の白い耳を、甘く噛んで。
「オメデトウゴザイマス、宿主サマ」
「――ッ止めろ!」
 ぱん、と、心の部屋に打音が響いた。
 頬を叩いたつもりで振り上げた手は、バクラの手の甲に当たっていた。先ほどまで漂っていた色情の空気は霧散して、唇を戦慄かせる獏良の表情そのままに、心の部屋は拒絶を示して闇さえ尖りはじめる。
「違う、お前は……そんなの、」
 乱れた着衣のまま、自分自身を抱きしめて蹲る獏良は卵に還りたがる雛のようだった。
 叩かれた手をぶら下げて、バクラはそんな獏良を見下ろしている。今吐いた甘い言葉とは裏腹の、他人の苦痛を愉しがる悪魔の目でもって。
「お前は、おまえは、ボクに言ってない、それはお前の宿主に言ってるんだ。ボクじゃなくても、同じことを言う。宿主じゃなかったら、ボクにそんなこと言った? 言わないだろ」
 獏良は幾度も首を振る。惑った自分に向けた嫌悪の分だけ苦しかった。
 意味のない交わりも友人を騙している事実も、生まれて良かったのか分からないことも。
 考えた所で結論なんて出ない、ただ苦しいだけのそれらを見ない振り――ああ、そうだ。
 快感なんてないセックスを続けるのは、それが理由だ。
 交わる意味が分からないなんて誤魔化して、本当はきちんと理解していた。
 溜め込んだぐちゃぐちゃの闇を、バクラはぺろりと平らげる。腹の内側に蠢くそれは交わりでバクラに喰われて、からっぽになった部分にはバクラの闇が流し込まれた。内側から何か違うものになっていく恐ろしさ、それすらこの悪魔は食べてしまう。居心地がいいと笑う。
 分かっている。分かっていて、だから。
「お前はボクを祝わない、ボクの身体だけ」
 分かっているから、言いたくなかった、のに。
「生まれて嬉しいのは、ボクの身体だけじゃないか!」
「――まァ、否定はしねえさ」
 叫んだ獏良に、バクラは軽く肩を竦めた。
「てめえだって分かってんだろ? そうやって意固地になんねぇで、大人しく騙されてりゃいいのによ。それとも『そんなことない、お前の魂ごと祝いたい』って、言ってほしいのか? それなら言ってやらなくもねえが」
「黙れ! うるさい!!」
 絶叫すると、バクラははいはい退散しますよ、と、おざなりな返事をして踵を返した。
「あぁ、ついでにお身体借りてくぜ。どうせ寝るだけだろ」
「消えろ!!」
 最早悲鳴だ。目を閉じて叫んだ時、もうバクラはそこに居なかった。
 一人取り残され、尖った闇が形を変えて蕩けだす。泣けない獏良のかわりに雫になって、闇の中に波紋が落ちた。
「ばか、馬鹿だ、ほんとにばか」
 叩きつける力もない拳が、ばしゃん、と闇に落ちる。
「何で期待したんだ、あんな奴に」
 バクラの言うとおりの言葉が、きっと欲しかった。
 否定してほしかった。そうじゃないと言われたかった。あるわけないと思いながら浅ましく願ってしまったから、こんなことになったのだ。
 一瞬だけ期待して、それが命取りで。
 耳朶に近づいた唇を拒むのが、瞬きの分だけ遅れてしまった。
 おめでとうなんて、言われる前に耳を塞げば良かった。そうすれば、獏良の心なんてどうでもいい、肉の器への祝いなど、聞かずに済んだのに。
「馬鹿だ、ボクは」
 欲しいものは、永遠に手に入らない。
 九月二日の後の夜に、奇跡も特別も起こらない。己を祝えない獏良にとって、やはりそれは只の平日で、九月三日というありふれた水曜日でしかなかった。