ペストリークリームストリート
まだ十月だというのに空気はすっかり冬色だ。紅葉もそこそこに街路樹は色をなくし始め、例年より早い寒気の訪れが、出かける気分を尽く殺ぐ。空の色もどんよりと重く、今にも泣き出しそうな分厚い雲が陰鬱にゆっくりと動いている。
普段なら絶対に、こんな気温の休日に獏良が外出することはない。ぬくぬくと毛布に包まって気がついたら夕飯の時間だった、という駄目な一日を過ごすのが定石である。ところがどうしたことか、彼は今スニーカーのつま先で冷たいアスファルトを蹴って、街路樹の脇を早足に歩んでいた。
コートの上に、長い髪をそのままマフラーに巻き込んで、若干着膨れしたシルエットがコンビニのドアを潜る。
一直線に向かった先は、一角を占めるスイーツコーナー。
棚の前で、獏良はぱあっ、と、顔全体がまるで輝いたかのように表情を明るくした。
「これが目当てかよ…」
背後でバクラが呟く言葉も、獏良の耳には届いていない。期間限定シュークリーム特設コーナーを目の前に、一切の雑音は入ってこないようだ。
きっかけは、昼過ぎの遅い目覚めの後。まだ寝ぼけた瞳がテレビをぼんやり眺めていて、急に爛々と輝いた。でかけるの一言も口に出さずすごい速さで着替えて財布を掴み、バクラが注意せねば恐らくコートもマフラーも置いて出て行ってしまっただろう。
一体何事かと思えば、お目当ては大好物のシュークリームだったらしい。大方CMで流れていたのだろう、整った顔を台無しにして、緩んだ口元からよだれが垂れそうだ。こいつはもう少し自分の顔立ちというものを意識した方がいい。いや、そんなことを進言したところで何の役にも立ちはしないのだけれど。
「どうしよう、どれにしよう?」
人もまばらなコンビニの隅で、獏良は独り言ともバクラに語りかけているともつかない言葉を呟いた。三段棚には有名パティシエのなんたらだの高級バニラうんたらかんたらなどの文句が連ねられた札が立てられ、大中小さまざまなシュークリームが並んでいる。
バクラはシュークリームが好きではない。味覚を含む肉体の五感は獏良に因るため、舌の好みとしては嫌いではないのかもしれないが、気分的に好きではない。シュークリームと自分を天秤にかけたら、獏良が何の躊躇いもなくシュークリームを選びそうなところが特に気に食わない。というか以前、シュークリームを優先された実績がある。
そんな憎い菓子が並んでいるのを見ていると、胃のあたりがむかついてきた。ああこんな外出に付き合わなければならないなんて、因果な関係だ。こういう時ばかり、獏良はきっちりと服の下にリングを下げている。
腕を組んでそっぽを向いていると、不意に、ねえ、と、声が投げられた。
視線を寄越すと、獏良がバクラを満面の笑みで見上げていた。
「…なんだよ」
「お前が選んでよ、代わるからさ」
「あぁ?何でオレ様がそんな面倒くせえこと…」
「いいから!ボクむこう向いてるから、お前が買ってきて!」
はい交替!と元気良く言われ、そのまま胸を突かれたような衝撃が走る。前のめりになったと時にはもう、バクラはマフラーをぐるぐるに巻いた身体の中に押し込まれていた。振り向くと獏良が両手で目を押さえて後ろを向いてしゃがんでいる。
覗く口元がやけに楽しそうに笑んでいるのを見つけてしまって、溜息。
何故こんなかったるい真似を。口の中でぶつぶつと文句を言いながら、バクラは忌々しい菓子が並ぶ棚に目をやった。
どれも同じに見える。うたい文句は様々なれど、結局はシュー生地にクリームが挟まっているだけだろう。何を選んでも大差ない。
流し見た中で、適当に目に付いた一個を手に取る。濃厚カスタードがどうとか書いてあるのを見て、もうこれでいいとカゴに放り込むことにした。確か以前、生クリームよりバニラ風味の強いカスタードが好きだと口元をべったべたにしながら喋っていたのを聞いたことがあるし、大きさもばかでかいから問題はないだろう、そう思ったのだ。いや、決して好みを考えて選んでやったのではなくてたまたま目に付いたというだけで。決して、満面笑顔でそれを頬張る姿を想像してから手に取ったわけではない。
一体誰に向けて言っているのか解らない言い訳をひとしきり思った後、バクラはポケットに手を突っ込んで、面倒極まりない表情を浮かべつつレジに向かった。二百十円を財布から抜き取って支払う。何をやってるんだオレ様は、という苛立ちも、傍らで買った?買った?と嬉しげに目を瞑ってついてくる獏良を見ていると言葉にも成らない。
ビニール袋をぶら下げてコンビニを出たところで、ひゅうと木枯らしが吹いた。
風が収まってから、代われよと仏頂面で吐き捨てた。すぐに獏良が身体に這入り込み、押し出される形でバクラはまた中空の人となる。
視線の先で、獏良はコンビニの前でいそいそと袋を漁って中身を覗いていた。
そして、にんまりと嬉しそうに笑みを浮かべて、ぱっと顔を上げる。あまりにも、気持ち悪いほどの笑顔だったので、ちょっと引いた。
「…ご満足かよ」
「うん、ご満足だよ」
低い声で問うと、やけに素直に頷く姿が新鮮だ。腹積もりもない百パーセントの笑み。そうかシュークリームを与えるとこういう顔で大人しくなるのか。ひとつ勉強になりつつも、邪気が無さ過ぎて、かえって返す言葉が見当たらない。
頭を掻きながら、先に家路に向けて移動する事にした。一歩遅れて、獏良がパッケージを開きながらついてくる。
「何だって、こんなしち面倒くせえ真似しなきゃなんねえんだよ」
ぶっきらぼうに、前を睨みながらそう言ってやった。すると、獏良はシュークリームにかぶりつきながら、少し小走りになってバクラの隣に並んでくる。
「選んでもらった方がおいしく感じるんだよ」
「味が変わるわけじゃねえだろ」
「変わるよ。それにお前なら、ボクの好きそうなの選んでくれるだろうし」
実際外れなかったしね、と、二口目。口の端についたクリームを指先で掬って、零れる白い息がまるで甘い味をしていそうだ。
不覚にも一瞬、反論を忘れた。選んでない適当だ、と言ってしまえばそれでよかったのに。
「証拠に、お前にも今度選んであげるよ。絶対美味しくなるから」
なんて言葉まで飛び出す始末だ。
全く扱いづらいったらない。いつもの傍若無人な物言いなら、苦々しい気分になるだけですむというのに。
こんな風にただ一直線に嬉しげな顔を向けられると、どう対応したらいいのか解らなくなる。返す言葉も無く、そうかよ、という負け惜しみのような言葉が絞り出るばかりで、何ともはや、情け無い。
冬の街路樹沿いを、浮き足立った足取りで歩く獏良に追い抜かされる。バクラは決まり悪くその後ろ姿を追いかけた。
存外に悪くない気分だということを悟られないように、ことさらゆっくり。
絶対に振り向くなよと念じながら踏み出す一歩は、思った以上にフワフワと落ち着かない感覚だった。