01 ブラン・ブランシュ

精神と肉体を間借りしているからといって、四六時中一緒にいる訳ではない。
  目的のある身の上だ、例えば獏良が眠っている時、意識を手放している時、バクラは肉体を離れいろいろと根回しに忙しい。今宵もまた、食事を終えソファで転寝を始めた獏良の寝息が安らかになったタイミングを狙って部屋を抜け出した。
  物質をすり抜ける便利で不便な肉体を闇夜に躍らせて、数時間。
  用を済ませ音も無くベランダから帰宅したバクラを迎えたのは、主のいない無人のリビングだった。
  点け放しだったテレビはもう就寝している。部屋の明かりはついたまま、時計は午前一時を指してこちこちと秒針が勤勉に働く音しか聞こえない。
  ソファの上には丸まった毛布、ローテーブルには散らかした菓子。だが、肝心の獏良がいない。
「おい、宿主?」
  がりがりと頭を掻きながら、バクラは溜息交じりに宿主の名を呼んだ。
  無性に面倒臭い予感がする。少し目を放すとときたまとんでもなく思いがけない行動をするのが獏良了という人間だ、照明をそのままに自室に引き上げたならいいが、気配はベッドではなく洗面所から感じられる。
  ああ風呂か?そう思って、足音が立つならおそらくひたひたとした足取りで目的の場所へ向かう。
  思ったとおり、獏良はそこにいた。
  鏡の前で、右手に握った業務用のカッターナイフを首の高さまで上げて。
「なっ…!!」
  ぞっ、と背中が寒くなったのを感じたのは、行動を起こした後だった。殆ど突き飛ばすように、バクラは身体から獏良を追い出しざまにそのカッターナイフを振り捨てた。
  蛍光灯の明かりを浴びて鈍くきらめいた刃先が、一条の光となって壁に歯を立てる。先端を食い込ませ振動でびりびりと震えるそのすぐ真横で、息を切らせたバクラがぎり、と奥歯を噛み締めた。
「…何してくれてんだ、あぁ?」
  宿主サマよぉ、と、低く唸るような声で、すぐ足元に蹲る背中を呼びつける。
  目を放した隙に何をするかわからない、そんなことはとっくの昔に理解していた。それでもここ最近は何の問題もなく共犯関係を続けている、以前のように自虐に走る事も無くなった。だから油断していた――細い首、その頚動脈に寄せられた冷たく無骨な刃。あと数秒遅れていたらどうなっていたか。大事な身体を、無くしていたかもしれない。
  苛立ちのままに背中を蹴り上げたいのを押さえ、バクラは代わりに拳を壁に叩きつけた。衝撃でカッターナイフがタイルの床に落ち、カラカラと乾いた音を立てる。
「説明しやがれ、何をしていた!」
  怒鳴りつけられた背中が、ぴくん。小さく震えて、ゆっくりと獏良の顔が上がった。
  肩越しに振り返る表情は、かつてよく目にしていた泣きそうで虚ろな、空っぽの――ではなく。

「…どんびきした」

 口にされた言葉の通り、引きに引きまくった微妙極まる表情だった。

 

 

「これ、取ろうとしてただけなんだけどね…」
  あんまりな表情に口を開いたまま硬直したバクラの前で、立ち上がった獏良は肩辺りを指差して言った。
  白く細く長い髪、その肩辺りに赤い塊が絡まっている。よく見ると、それはローテーブルに散らかっていた菓子のうちの一つ、親指の先ほどの大きさの飴玉だった。
「食べながら寝ちゃって、その間に口から出てたんだろうね。髪の毛に絡まって乾いちゃって」
「………」
「こういうのって取れないんだ。で、面倒臭くなって、ああもう髪ごと切っちゃえ、みたいな」
「………」
「盛り上がってたとこ大変申し訳ないんだけど、早くどうにかしたいから、身体、返してくれない?」
「………」
「忘れてあげるからさ、ね?」
  ぽん、と、叩くつもりだったのだろう獏良の手が肩をすり抜けた。バクラは大層引きつった顔で、獏良の顔を眺めている。
  刹那遅れてから、胃から喉へ、何とも言いようの無い熱がぐんぐんと込みあがってきた。
  何だこれは、何だこのみっともない状況は。
  早とちりの滑稽さに、どこにもむけられない怒りが首の後ろまで熱くした。いやだって普通、あの状況を見たらそう思うだろう。立場が立場で、相手は何をしでかすかわからない男で、誤解しようもない後姿で首にナイフを当てているようにしか見えなくて、それが自壊行為だと思わずにして何と思う。
「~~~ッ!」
  喉の奥で言葉にもならない呻き声を上げてから、バクラは飛び出すようにして身体を獏良に押し付けて洗面所を出た。その背中に刺さる視線が絶妙に気遣わしげで生ぬるく、余計に立場がない。
  もう今日は顔をあわせるなんて絶対にしたくなくなった。獏良があの顔でいい性格をしているのは身を持ってわかっているのだ、どれだけ引っ張られてからかわれるかわかったものではない。
  さっさと闇に解けてしまおう、そう思って苛々と目を閉じた。
  ――おぼろげな輪郭に希薄な手の感触を感じなければ、そのまま逃げ出していたところだった。
「待ってよ」
  触れられないはずの袖をくん、と引かれた気がして、バクラは反射で振り返ってしまう。
  不機嫌に細めた目で見た獏良は、少し首をかしげて薄く笑っていた。
「どこ行くの?」
「…うるせえよ」
  その手を邪険に振り払う。くすくす、と、目の前の唇が音を立てた。
「ごめんね、心配してくれたのに、ひどいこと言っちゃったね?」
  言葉は気遣わしげだが声は笑っている。苛、と、喉の奥がひくつくのを感じた。
  振り払われたことにもめげず、手は再び持ち上げられ、バクラの輪郭、頭の辺りを左右した。撫でられている。まるで幼子にするようになでなでと、舐めきった動きで。
  触れられるなら殴っていたかもしれない。頬肉を引きつらせたバクラが何か言おうと口を開きかけると、獏良はにっこりとした笑顔のまま、ずい、と、もう片手を差し出してきた。
  手の中には、先ほど捨てた忌まわしいカッターナイフが握られている。鼻の先で灰色の刃がちきちき、と音を立てて伸び、半透明な鼻のてっぺんにするりと刺さった。
「やっぱり、もう一回代わってくれない?」
「…あァ?」
「お前に切ってもらいたくなっちゃった」
  これ、と指差すのは、まだ絡まったままの飴玉。
「ほんとはこのままやってもらいたいけど、身体無かったらカッター持てないし。心の部屋じゃ出来ないしね」
「何でオレ様がそんなしち面倒くせえことしなきゃなんねえんだよ」
「心配してくれたみたいだから、お任せしようと思って」
  だめかな?
  そう付け加えて軽く小首を傾げるその角度は完璧だ。恐らく獏良自身も解っている、いっとうバクラに効果的な動き。少し細めた瞳と僅かに持ち上がった口角と、遅れてさらりと首筋に零れる白い髪、は今はほつれているが、それが余計に気分をざわつかせる。
  逆らえないわけではない、やろうと思えばいくらでも振り払うことができる。しないのは、そうだ、後が面倒臭いからだ。一行分の言い訳と自己弁護を頭の中で忌々しく流しながら、バクラは一つ舌打ちすると、先ほどのように乱暴に、獏良を身体から叩き出した。
  原因の箇所は顔に近すぎてよく視認できない。目方をつけて左手で髪をわし掴むと、柔らかな髪の中に硬い塊が混ざっているのを感じた。鏡を見れば済むのだろうが、なんだかそこまで丁寧にやってやるのも気に食わない。それに――いや、その先は考えない。
  正面で、獏良が興味深いものを見る目で一部始終を眺めている。瞳は笑ったまま、でもどこか嬉しげな色をしたその青いふたそろいに見上げられ、居心地が酷く悪い。
「…見てんじゃねえよ」
  一言吐き捨ててから、右手を動かす。ぶちり、と、三センチ程度の髪の束が刃に噛み切られ、掴みきれていなかった幾筋かがはらはらと舞った。明りを受けて煌いた白い髪は失墜していく光のようで、音も無くフローリングの上に落ちていった。
  それがひどく勿体無いもののように見える。バクラは左手に飴玉の絡まった髪束を、右手にカッターナイフを握ったまま、肉体を離れた細く白い髪をじっと見つめた。そして、左の手の中にあるそれに視線を映す。
  色素の抜けた白い髪。あんなに白く翻っていたのに、もうこれは切り離されたのだ。獏良の身体を離れた途端、一気に価値を無くした――そんな風に、呆然と思ってしまった。
  とりかえしのつかないことをした。そんな奇妙な錯覚を、何故か感じた。
「不揃いになるかと思ったけど、これなら大丈夫だね。良かった、床屋行くの面倒臭くて」
  妙に明るい声に思考を揺さぶられ、バクラははっと顔を上げた。目の前には、バクラが切り落とした僅かな分だけ髪の量を減らした獏良が立っている。体の影響をそのまま受けた精神の姿、あの髪はもう元には戻らない。
  ふ、と息を吐く音が聞こえた。獏良が一歩、近づいてくる。
「変なの」
  そう呟く唇に、不思議そうな声音が乗る。
「髪を切っても痛くなったりしないんだよ。触覚、ないんだから」
「…そんなんじゃねえよ」
  チ、とまたひとつ舌打ちをして、バクラはそれ以上の問答を遮った。
  何もいわせたくない、聞きたくない。ついでに言えば見たくない、この、ただの物質になった残骸――死んだ髪など。ひどく胸が悪くなるだけで、その理由も解らない。
  ただ、ああ残念だと思ったその違和感だけが胃の中に重たくわだかまって、不愉快だった。
  両手の中にあるものを放り出して、バクラはそのまま、獏良を巻き込んで闇に溶け込んだ。
  何か言いたげな唇を塞いで押さえ込む。交わってかき乱してかき回してしまえば、無くしたひと房などもう見えなくなる。白い滝のようなそれに紛らせてこの苛立ちも飲み込まれてしまえばいい。
  からっぽの身体がぐらり、傾いて、フローリングの床に倒れる。その音を水面の向こう側で遠く聞いた。
  不意に、一切の事情を理解していないであろう獏良の腕が、抱え込まれたまますっと上がった。
  先ほどのように頭を撫でられて、喉が熱い。互いの肩に顎を乗せた体勢で闇の底まで落ちて行く最中で、獏良の顔は決して見えなかったけれど、恐らく温く笑っているのだろう。表情を想像すると、腹が立つような救われるようなおかしな感覚に頭の中を支配されて余計に苛々する。
  たどり着くのももどかしく、白い髪を掴んで滅茶苦茶にしながら小さな頭を引き寄せた。
  深くなる口付けの隙間で獏良が呟いた言葉が何と言ったのか、聞こえなかったのはきっと幸いだったのだろう、そう思った。