02 ブラン・ブランシュ

くしゃくしゃに髪を掻き混ぜながら、闇の底でキスをした。
  口を合わせるのに目を閉じるなどという情緒あることなどしたことがなかったのに、今日はかたく両目を閉ざして、触覚だけで形を辿る。いやでも気にしてしまう分、両手は蜘蛛が這うように荒々しく動いた。
  ほつれた部分を指にひっかけて、不意に強く引く。獏良の肩がひくんと震え、痛みを訴える。
「痛い、よ?」
  軽く首を振って、訴えの割りに甘い声でそう呟いた。
  謝罪を形にする舌などはなから持ち合わせていない。苛立ちのまま、バクラは絡まったまま髪を混ぜた。
  天地も左右もない闇の中でも、ここがもっとも深い場所だということが解る。冷たくも暖かくもないが、押し倒した獏良の身体はそれ以上沈み込むこともなく、白い髪は乱されながら真っ黒い褥に散らばっていた。切り落とした部分がどこなのか、もうわからない。
  目を開いてそれを視認する。何故か、安堵感。
  腹の内側でぐねぐねとうねるいやな感覚が少しばかり遠のき、代わりに、すぐ鼻の先にある滑らかな首筋にごくりと喉が鳴った。
  ここに当てられていたように錯覚した、あの無骨なカッターナイフよりも強靭な歯で噛み千切りたい。自傷など決して許さないけれど、この手でこの歯でこの爪でつける傷ならばさぞかし興奮するだろう。色素を忘れて生まれてきたかのようなこの首には、鬱血がいっとうよく似合う。
  噛み付く前の味見でひと舐め。あ、と、擦れた声が上がるのが鼓膜を震わせる。
  獏良の手がゆるゆると伸び、そうして、ぺちり。両頬を叩かれて持ち上げられた。
「…何だよ」
「こっちの台詞だと思うけど?」
  僅か唇を尖らせて、それでも獏良の声音は咎める空気を含んでいなかった。
「さっきから変だよ、お前」
「別に何でもねえよ」
「髪の毛」
  気にしてるでしょう。
  図星のど真ん中を突かれた。違う、の、ち、の形に開いた口の、その先が詰まってしまう。
「セックスでごまかそうとしてるの、見え見えだよ」
  ほつれて絡まった髪を闇の上に散らばせて、そう言う獏良は笑っていた。
  叩かれた頬で顔を押さえられていなければ、答えもせずに喰らい付いて問答を強制終了できるのに――奥歯を噛み締めてバクラは唸る。
  自分にだってよく解っていない。ただ、図星は図星だった。
  癖の強い長い髪。獏良が動くたびにまるで他の生き物ようにゆらゆらとふわふわと動く、翻る。手を伸ばして絡め取ると、しっくりと手に馴染んだ。ほのかに冷たくて心地よい感触が悪くないと思っていた。
  不規則な食生活と寝不足が続くと、痛んで艶が無くなるのが嫌だと思っていたのは自覚している。闇の中で好き放題にまぐわった後、獏良が眠り落ちたのを確認してからこっそりと弄るのも嫌いじゃない。
  伸びるがままに放置している長い髪は間違いなく、バクラの気に入りだったのだ。
  それを切り落としたことにこんなに心を乱されるとは思っていなかった。あちこち気ままに跳ねる髪の、ひと房だけが不自然に真っ直ぐに断面を見せているのが嫌だ。そんなものは見たくない。
  思っていたよりも強い執着を持っていたと今更気が付いても、切り落とした髪はもう戻らないのに。
  押し黙るバクラを、獏良はじっと見上げていた。
  真っ青なふたそろいのその瞳に、自分の顔がどう映っているのか。鏡映りしたそこに己の表情を見つけてしまって、バクラは更に嫌な気分になった。なんて情けない顔をしているのか!
「すごい残念そうな顔してる」
「…そうかよ」
「ほっとけば伸びるのに」
  変なの、と、同じ言葉をもう一度言われて、思わず舌打ち。
(解ってんだよ、そんなことは)
  多分獏良には解らない、理解などできない。自分がどれだけその髪を気に入ってるのか、ぶつりと切り落とした感触がどれだけ生々しく手に残っているか。
  その手は獏良の髪の渦の中に埋まっている。それだけで気分が高揚する気がするなんて、全くどうかしている。これでは変態ではないか。
  不意に、頬を押さえた獏良の両掌がするり、移動した。
  先ほどされたように、いや、それ以上の緩さで頬からこめかみへ、こめかみから頭へ上っていく。引き寄せる力は思いがけず強く、気づいた時には鼻先が肩口に埋まっていた。
「よしよし」
  そのまま、あやすような口調で囁かれて、頭を撫でられる。
「よく解んないけど、いくらでも触っていいからさ」
  ぽんぽんと旋毛のあたりを叩かれた。みっともない格好に自尊心が悲鳴を上げる。こんな餓鬼扱い今まで生きてきて一度もされたことはない。屈辱だ。屈辱なのに、何故だか身体が動かない。
  吸い込む空気は水の匂いがした。首の後ろが熱いようなおかしな感覚がまとわりついて、不快だ。
「そんな泣きそうな顔しないでよ、かわいいとか思っちゃうじゃないか」
「…誰が」
「お前が」
「気色悪いこと言ってんじゃねえよ」
「むしろ気持ち悪いのはお前のほうだと思うんだけど」
  髪フェチだとは知らなかったよ。
  ぐさりと刺さる言葉を無神経に口にする癖に、獏良の手は甘く柔らかに動いた。
「同じ髪なのにね」
「うるせえ」
「何が違うのかなあ…」
  知るかこっちが知りてえよ、と、吐き出すのは口の中に留まらせておく。
  手を僅かにじらせると、気に入りの髪が指と指の間をするりと抜けて行った。強く掴むとすぐに切れてしまいそうに細い。
  身体をひたりとあわせたまま、交わることも忘れて、しばし感触を楽しんでしまう。何だか頭が呆然とし始めて、思考するのも億劫になってゆく。
  ひと束掴んで持ち上げて、掌を開くと重力に沿って白い煌きが逃げた。追いかけて捕まえ、指の先でしゃりしゃりと弄って飽きたらまた新しい髪を捕まえる。枝毛を発見して、だから夜更かしするなと言っているのに、と、割と本気で腹が立った。
「くすぐったいよ」
  きゃらきゃらと笑いながら、獏良が身を捩る。そうすると髪もつられて動いて、闇の中で白い軌跡を残して泳ぐ。追いかけて捕まえる。掴んで、思うさま弄ぶ。切り落としてしまったあの苛立ちが、熱に溶かされる氷のように溶けていくのが解った。
  ああ駄目だ、多分この髪からは何か他人をおかしくさせる成分が出ているに違いない。そうでなければこんなに腑抜けになるはずがない。頭を撫でられながら髪を弄り耽るなんて、ばかばかしい行為をする筈がない。
  決め付けて、バクラは鼻の先にある髪のひと筋を睨みつける。
  舐めたら味がしそうだ、砂糖菓子のような。
  そんな夢見がちなことさえ考えてしまうなんて――本当に、重症だ。