【不壊×三志郎】「理屈なんて如何でも良いから、もっと近くで触れて頂戴」

「…これ、取ってくれよ」
 深い色合いの瞳が揺れて、幼い指先が筋張った手の甲を撫でた。

 此れ、と示された物を、フエは赤い瞳でちらりと見遣る。
 骨と筋の目立つ、ごつごつとした自分の手。見た目に易く其の侭に、堅く冷たい其処は白い布地に覆われ、其の向こうにある筈の肌を覆い隠している。
 ―――ヒトならば、の、話だ。
「何回言えば覚えてくれンだ?この耳は」
 其の白い指でもって目の前の耳朶を引っ張り溜息をつくと、三志郎は耳を引かれた侭、ついと口を尖らせた。
「忘れてねぇよ。これはカラダの一部だ、とか言うんだろ」
「ご名答。だったら意味も解ってンだろ」
「解った上で、言ってんの」
 尖った唇が更に拗ねて、まるで接吻けを強請るようだ。
 まぐわう直前に何故こんな問答をせねばならないのか。フエは大仰な溜息を、其れは其れは面倒臭そうに吐き出すと、引っ張っていた耳から手を離した。
 平の部分を見下ろす。間違いなくヒトの形をしている、己の手。
 だが全ては仮初の姿であって、この身はヒトではない。表面だけを擬えた此れは飽くまで影の捻り出した模りの結果であって、この黒衣の下に肉体がある訳ではない。当然、手袋の下も右に同じく、だ。
 服に布に見える部分は、身体の一部であって着衣ではない―――さてさて三志郎は、何時かも説明した其の事実を解っていて、其れでも尚口にしているらしかった。
 またぞろ面倒な事になるのだろうか。数分前までしっぽり濡れる気分に出来上がっていただけに、眉間の皹は隠せない。
「何だってまた、ンなつまんねぇ事云い出すかね」
「つまんなくねぇよ、大事なことだぞ」
 思わず吐き出した言葉に、三志郎はがばりと起き上がり―――其の侭大人しく敷布の上で乱れてくれれば良いものを―――影から爪先までしっかりと抜き出たフエの前に、どっかりと胡坐をかいた。折角捲り上げたシャツが、だらしなく垂れて腹と腰を隠してしまう。
 目に見えて不機嫌になるフエの其の手を掴んで、三志郎は、き、と強く、下から赤い瞳を見上げた。
「お前にとっては、手袋しててもしてなくても、感触なんて変わんないかもしんなけいどさ」
 個魔の触覚は身体の隅々にまで渡る。其の事もきちんと解っているらしい。
 訴える、幼い手が両手で、大きな片手を掴んでいた。暖かい掌に包まれて、酷く居心地が悪い気分になる。こんな時にどういう顔をするべきか、未だによく解らない。
 いやらしく笑って攫ってしまえたら、一番楽だ。けれど此度は、其れすら許されない琥珀色の視線がフエを縛り付ける。
 この目は、いけない。
 大事にしてやりたい、温く甘やかして浸してしまいたい。庇護欲に似た色欲を、この琥珀は視線が強ければ強いほど膨れ上がらせるのだ。
 思わず、掴まれた手を返して、長い指先で柔らかい指の股を撫ぜてしまう。びく、と一度頼りなく身体が揺れ、其の後すぐに、「フエ」と、真面目な声で呼ばれた。
 窘められた。
 格好悪ィ。
 何故か満更でもない気分で、はいはいと軽く肩を竦めてみせた。
「悪かった。で、何だってんだ?」
 面倒臭いのは未だ変わらず。其れでも、余りにも三志郎が手袋ひとつに拘るものだから、そう捨て置く訳にも行かない。
 甘くなったもんだと内心呟いていると、不意に琥珀色が揺れて、強い視線がぽとり、膝の辺りに落下した。
「…お前は、気になんないんだろうけど」
「うん?」
「手、いつも、なんか、手袋越しに、触って」
 視線と同じように、言葉がぽつぽつと、膝にシーツに落ちてゆく。
 見ると、両手はフエの掌を捕えた侭で、遠慮がちに布の上を左右していた。本当は直ぐにでも、この手袋を剥ぎ取ってしまいたいのだろう―――そう思わせる、切なげな、愛撫にも成れない動きだった。
 少しばかり、罪悪感のようなものが沸く。下げた頭の所為で旋毛しか見えないのが、虚穴の中身をざわざわと不穏に揺らしていた。
 泣いているのか。否、そんな筈は。そりゃあちっとはからかったが、其処まで非道い事は。
 何時も元気でいる分だけ、消沈すると此方の方が手に負えない。惚れた弱み、だろう。
 仕方なく黙っていると、きゅ、と、掌の上で小さな拳が握られた。
「…触られる方は、何か、ちょっと、ヤだ」
 ヒトと同じようには出来てないって解ってても、其れでも。そう唇は続いて。
 ゆっくりと上げた視線は、反則の、飴色を帯びていた。
「ちゃんと、お前の手で、触って欲しい」
「………」
 沈黙してしまった。
 静かな言霊、とはまた違う訴えだった。我侭だと解っている。ヒトの其れではない事も理解している。其れでもどうしても、触れて欲しい―――の、だろう。
 虚穴自体で、触れる行為。
 解り易いヒトの形を表面的に覆う、形を保つ為の外殻。其の外殻をそれらしく飾る為の服飾。
 だが、剥き出した影そのものでは三志郎には触れられない。形を保てない水のようなものなのだ。流石に其処までは理解していないのだろう、三志郎は黙ってしまったフエを真っ直ぐに見上げ、なあ、と、呼びかけを唇に乗せた。
「駄目…かな、やっぱ」
 無理かな、と、少しだけ落ちた色彩の声音で三志郎は言い。
 手からするりと力が抜ける。
 フエは其の、柔らかな両手から逃れて、まじまじと己の左手を眺めた。白手袋の、堅い掌。
 三志郎が、期待と不安を等しく分した目でもって見上げてくる。
 …勝てる訳が無い。
 小さく溜息を吐き出して、フエは、ぐ、と一度掌を握った。
「…まあ見てな、兄ィちゃん」
 言いながら、ゆっくりと手を開く。手首のあたりから、袖と同じ漆黒が、白い布地をじわり、と染めた。
 驚いた三志郎の目の前で、麻布が染料を吸い上げるようにして、手袋が闇色に染まってゆく。布の輪郭が萎みむき出しの筋や皮膚の形が、くっきりと、鮮やかに―――爪の先まで伸びて行った。
 しかし、全て其れは黒く染まり、彼の顔のように色の悪い肌の色を宿しはしない。
 何も無い虚穴が出来る形状。此れが、ヒトの模倣の限界だった。
「悪ィな、此れで勘弁してくれ」
 目を丸くしている三志郎の、琥珀の前でフエは軽く手を振って、ほんの少しばかり苦く笑って言った。
「空っぽなもんでね。肉体なんてもんは何処にもねェんだ。解るな?」
「…うん」
「此れでご満足頂けねェなら、仕方ねぇな。何時もの形に戻すけどよ」
「ううん、これがいい」
 即答だった。三志郎は真摯な表情で、漆黒の左をじいっと見つめた。
 暫し後、一度躊躇ってから、「…触っていいか?」などと、恐る恐る問いかけてくる。何時もは遠慮なく掴んでくる癖に、と思いながらも、その表情がやけに不安定で愛らしく見えてしまい、フエは唇を吊り上げ、
「ご自由に」
 そうおどけて口にして、捨てるように手を差し出した。
 健康的な指の先が、そうっと、本当にそうっと、開いた掌ではなく同じように指先に、触れる。
 ぴくんと一度震えて。其れからおずおずと、平の方にまで這わされた。
「…いつもより、ちょっと冷てぇ」
「そう変わンねぇよ」
「肌色とかしてねぇんだな」
 まっくろだ。
 形を確かめる動きを繰り返しながら、幼い声はそんな風に呟く。
 何時ものが良いかい。再度そう問いかけると、三志郎は髪を揺らしてふるふると首を振った。
「こっちのが良い」
 此方も先程と同じ言葉。きっぱりとした声だった。
 視線を遣ると、琥珀色は緊張を幾許か解いて、何処か嬉しそうに、冷たい手を撫でていた。這わせきれない広い平の部分を指先で撫で、時折、きゅ、と指を握って感触を確かめている。
 自分のものよりもずっと太く細長く筋張った薬指を握り、三志郎はようやく、にいっと笑ってフエを見た。
「こっちのが、何か、フエ、って感じがする」
「…そうかい」
「なんか嬉しい」
 そんな事を言うものだから。じわりと虚穴が暖まる錯覚。
 其れが真実熱を持っているのではないと解っていても、苦く感じつつも、其れでも満更でもない、のだから可笑しなものだ。
 幼い手を纏わり付かせたまま、すいと腕を上げて、柔らかい頬へ漆黒の掌で触れた。
 首筋まで辿ると、びくん。解りやすく肩が揺れる。
「ご満足頂けたかい」
「…ん」
「じゃ、今度は俺がご満足させて頂く番な」
 囁いてみると、嫌がりはしない身体が小さく顎を引いた。
 当たり前だ、数分前ははいそろそろ致しますかといった風情でもって敷布に沈んでいた身なのだ。準備は万端。後は意図を込めて触れるだけ。
 軽く肩を押しやると、あっさりと、再び上半身は倒れ込んだ。組んでいた胡坐が解けた足の間へ、素早く片膝を滑り込ませる。あ、と、子供らしく柔らかい唇が不相応な期待の音色を零して動いた。
 いきなり押し当てはしなかった。そんな勿体無い真似はしない。あるまじきゆっくりとした動きで、首筋と鎖骨を撫で上げる。
 見下ろすと、三志郎はどこかうっとりと陶酔でもしたかのように瞳を蕩けさせて。感触を追って半ば瞳を閉じていた。
 余程気に入ったのか―――満たされた、嬉しそうな表情。
 見下ろしていると、視線に気が付いた琥珀色、否、飴色がフエを見つけ、滲むように笑った。
「な、フエ」
 続けられる言葉は、言われなくても解っている。
 伸びてくる腕に好きなように触れさせ、片手は首の後ろに、もう片手は黒い手首を掴み、己の頬まで引き上げた。
 触れる体温は冷たい。だが、皮膚を模り脈をなぞる擬態は、例え色も温度も違くとも、紛れもなくフエの一部。
 其れを知ってか知らずか、三志郎はぎゅうと強く闇色を捕えて、瞳を閉じて。
「このまま、して欲しいや」
「…明日起きらンなくなっても、知らねェぞ」
「だって、気持ちいんだもん」
 もっといっぱい、触って欲しいんだ。
 個魔らしい台詞を吐いても、そんな風に返されては抗いようもない。
 口先だけでは仕方ねェな、と呟いてから、フエは改めて、生身のような仮初の境界で、三志郎の唇を撫でる。
  変わらない筈の感触。布一枚分だけ近いというのは、錯覚だけれど―――存外に此方も気持ちよかったなどとは、流石に口には出したくない。