【不壊×三志郎】 ヒトならざるもののあやふやな其れ

 もうひとすくい
 手で確かめて、あとひとつ。

「――何やってンだ、兄ィちゃん」
 ぬう、と頭の上が影になり、橙色より少し色褪せた灯りが遮られて、声。
 降るか這うか、どちらかで寄越される。其の比率は、声の主が最近とみに表に出てきてくれている所為で、大体六対四。
 此度も降って来た其れに合わせ、濡れた頭を振りかざし、三志郎はフエを見上げた。
「お前、そんなカッコで濡れねぇの?」
「…何回云ったら覚えてくれるのかね、このぷれい屋さんは」
 俺ァ妖だぜ?
 呆れた顔をされ、ぽこんと頭を叩かれた。
 あやかし。其の一言で何もかも片付いてしまうのだから、全く便利な話だと思う。
 食べなくても良い、眠らなくても―――どうやら影の中で休んではいるようだけれど―――良いし、どうやら服ではなく影たる身体の一部らしい姿は、日を浴びてもけろりとしている。
 此処、民宿の狭い風呂場でも例外ではないらしく、灯りが伸ばした長い影から半身を斜めに乗り出すフエは、湯気に当たられているにも関わらず、湿り気すらなかった。
 対する三志郎は、当たり前だが一糸纏わぬ姿の入浴中だ。
 乙女ではあるまいし、全裸を見られようと全く気にはならない。檜の風呂椅子に腰掛け、古いものの矢張り丈夫な造りの檜の浴槽に肘を付いた侭、赤い瞳を見上げている。
 湯気の向こうで霞むフエの表情は、呆れから、疑問を浮かべた其れに変わっていた。
「…何やってンだ」
 二度目の言葉は訝しげ。うん、まあそうだと思ったと、内心で呟いた。
 子供一人が入れば手足を伸ばし切れる、其れ位の然程広くない長方形。其処になみなみと張られているのは熱く心地良い湯―――だったもの、だ。
 三志郎がこの宿に辿り着いた時間は遅く、他の客は全て共同風呂を上がった後だった。親切な民宿の主人は、泥と汗で大変な事になっている少年の為、わざわざ新しい湯を入れてくれたのだ。
 厚意を有り難く受け取り、先程迄は其の熱湯の、熱く身体中の血の巡りが爆発するような激しい心地良さに親父くさい歓喜の悲鳴を上げたりしていた。途中で、良い湯だからお前もどうだ、とフエを手招いて誘ったが、あっさり拒否されたそんな経緯まであったりする。
 さて、その湯。問題は其の量だ。
「注ぎ足さなくても浸かれるだろうよ。贅沢すんな」
 ちっこい身体にゃこの半分で十分だろう。なんて、こんな時まできっちりとお小言を下さる。お前って結構マメだよな、と、一寸外れた事を思ってみたりする三志郎だ。
 しかしながら、口に出すのは未だ。目線はフエから逸らし、縁までたゆたう、表面張力な嵩へ。
 おもむろに、たぷんと片手を突っ込んだ。
 軽く混ぜて慣らしてみる。少しばかり溢れる水分―――しかしながら、
「…うん、よし」
 良好だ。
 自分でも解る、今の表情はきっと満足げ。
 背中ではフエが、より一層訳の解らないという顔をしているのが気配で感じられた。結構鈍感なのかもしれない。
 桶を置いて、立ち上がる。
 縁に両手を掛けて、其れから、一思いに。

 だぱ ん っ

「ぅおッ思ったより冷てぇ!やべぇ!!」
「…兄ィちゃん」
 呆れも訝しげも通り越し不可解というかもうなんというか、な声がした。
 温いというかギリギリのラインで湯?と言えなくもないがやはり此れは水だろう。そんな温度の中で、仰ぎ見上げた三志郎の視界に、残り香のような湯気がさっと通り過ぎて消えた。
 煙を生み出す熱は残滓しか無く、生みの親だった浴槽の湯は、幾度となく三志郎が手すがら注ぎ足した水で、すっかり冷たくなってしまっていた。折角の熱い心地良さが台無し―――少なくとも、フエの目にはそう見えている事だろう。
 案の定、
「遊んでんじゃねェよ」
「遊んでねぇよ」
 ちいっとも解っていない言葉が返されたので、フエに向かって湯を跳ねてやった。
 濡れる事も無い癖に、ひょいと避けるのが何だか余裕で腹が立つ。
 ―――俺にはこんなに、いっぱいいっぱいなのに。
「解んねぇの?」
 ざば、と身体を翻し、三志郎は影が伸びる壁と向かい合うように、浴槽の中で胡坐をかいた。
 ひとつひとつ動く度に、首に肩に腕に腰に足に全部に温さが絡み付いてすり抜けて消えていく。濡れた髪が垂れて来たので、ぐいとかき上げて、もう半ば睨みつける気持ちで。
 ああこんなに溢れては勿体無い。
 見下ろすフエの表情は、未だ意味不明の其れ。どうやら本当に気づいていないらしい。
 そんな顔をされると、逆に困った。こうして遠回しに訴えているのが恥ずかしくなってくる―――けれど、口に出す方法が見つからなかった。
 お前みたいに上手に、なんて、出来る訳が無い。
 小さく口の中で呟くと、何だ、とフエが視線で促してくる。何か秘めている、のは気付いてくれたらしい。
 でも、そうじゃないんだ。
 其処じゃ、なくて。
「…フエにも、わかんないことってあるんだな?」
 上目に見上げて言うと、ぐっと眉間に皺が寄った。
 むっとする前に、ちょっとは考えてくれよ―――そう、思う。
 血を焦がす熱湯と、注ぎ足された水。
 作り上げられたのは、冷たいけど、心地良い、

「お前くらいの温度」

 気づけよ、と。
 ぱしゃり音を立てて、口元まで冷たい其れに沈み込んで、言ってやった。
 じっと見上げていると、同じ表情の侭固まっていたフエが、漸く動いた。
 手袋に覆われた掌を、口元に当てる仕草。何かと思えば、くつくつと笑っていた。
「…何だよ」
「いや、随分と誘うのが上手くなったじゃねェか、と思ってな」
 そう口にするフエの瞳は、これでもかという程細くなっていて―――ああ笑っている、と、珍しいといえば珍しい光景に、三志郎の視線は奪われる。
 喉で低く、瞳で眇めて。笑う事は在ったが、このように解りやすく笑んだのは余り御眼にかかった事が無い。幾許かいやらしさが目立つが、何処か満更でも無さそうな表情に、珍しい、と、思わず口に出していた。
「そりゃあ笑うだろうよ」
 そんな熱烈なお誘い、受けた事が無い。
 慣れた音で二つ程、喉で奏でた音が落ちた。二言目どころか一言さえも、もう口に出せない。
 誘い―――そう言われてしまえば。
「つまりは、そういう事なんだろ?」
 たっぷり揶揄を含んだ、唇が近づいてそう囁く。
 ざわり背筋が震え上がって。其れは水の冷たさの所為じゃない事を知っている。居た堪れなくて、けれど首を振れない図星。
 視線を逸らしても赤い瞳は面白げに細められて笑うだけで、返って要らぬ熱まで競りあがってきてしまう。こうなればもう、ああそうだお前に触りたくて触って欲しいけどなんて言えばいいのか解んねぇから自己主張したんだと、勢い任せに捲くし立ててしまった方が楽だ。―――その、心算だった。
 ぬうと伸びてきた手に、頤を捕らわれる。
 思わず逃げるが、逃げた先も、彼の温度。
「兄ィちゃん」
「…ッ」
 絶妙のタイミングで、呼ばれた。声を殺せたか自信が無い。
 ものすごい羞恥心がこみ上げてきてどうしようもない。この状況を作り上げたのもこうなって欲しいと望んだのも自分であるのに、嬉しくて仕方がない癖に。
 間近に迫った、フエの乾いた髪が頬に触れる。掌が頬を拭うように触れて、耳朶に歯が立てられるお決まりの刺激に、慣れているのに腰が竦んだ。此の侭では浴槽に沈み切ってしまう。しかしフエの不可思議な身体は、壁から器用に伸びて、黒衣の腕が三志郎を支えて。
「待った無し、だぜ」
「…待たせたくせに、よく言うよな」
 意図せず唇を尖らせて言うと、はいはい悪かったとちっとも誠意の無い答えが返ってきた。
 其れから直ぐに、覆い被される感触に包まれ―――問答は終わり、あやふやな温度が重なる。
「っ、」
 く、と、幼くも堪える音。明らかな疼きを伴って、三志郎の喉が鳴った。
 本物の其れに触れられてしまえば、即席で作り上げた擬似的な水など敵いもしない。似ているが明らかに違う、自分だけが感じ取れるフエの存在感までは、表現出来ない。
 冷たい、というか寧ろもうこの水の中にいるのは寒い気さえする。そんな、何処までも都合の良い言葉が浮かんだが、口に出さないでおいた。
 代わりに、濡れた両腕を、しっかとフエの首に回して。
(…のぼせそうだ…)
 最後の意地。唇を奪われる前に自分から奪ってやろうと、水音が控えめに響いた。