【不壊×三志郎】敷布は闇色
「寝るンなら電気消せよ」
橙が遮られ、薄暗くなってから降って来た声だ。
閉じかけていた目を開けると、見慣れた顔が其処に在る。
土気色の、血色の悪い肌に、ぽたり垂らされたような赤い瞳が此方を見下ろしている。割ける形で笑んだ口元から落とされた言葉を受けて、三志郎は手を振った。
「や、寝ねぇよ、まだ」
そんなに眠くないし。繋げると、フエはへェ、と語尾を上げて、ついでに唇の端も吊り上げた。
あ、なんか皮肉が来る。と思ったら、
「涎垂らして開いた口で、眠くない、ね」
案の定、からかう声音でそんなことを言われた。
慌てて口を拭うと、言われたとおりの其れ。確かに此れでは説得力がない。本当に眠くなど無かったのだけれど、身体は疲れていたのか、勝手に休息のスイッチを入れていたようだ。
決まりが悪く眼を逸らすと、くつくつくつ、と、続けて笑う音がして、顔が近づいた。
「お疲れかい、兄ィちゃん」
「…誰のせいだよ」
視線は其の侭、声だけ向け、三志郎が言葉だけで詰った。
投げ出した手と足。時計の三を回った針がこちこちと回る音が静かな部屋で聞き取れるようになったのは、つい先程。
数十分前迄は、えらく湿度の高い声と息と衣擦れの所為で、静寂など何処にも無かった。忙しなく呼ぶ声は自分のもので、幾分余裕無く喉で笑う声はフエのものだ。
熱くて剥いだジャケットが、天井の明かりも届かない遠くへ丸まっている。どんだけ力いっぱい脱ぎ捨てたんだと自分に聞いても、記憶は無し。只、ものすごく気持ち良かった事だけは覚えていた。
行為が、というより、その距離が。
済し崩しで転がり込んだような関係でも、感情が伴うのなら不安は無い。求められるのはむず痒いような嬉しさを含んでいて、其の喜びは羞恥心も薄れさせた。白い手にあらぬ場所を探られるのも、時に痛みも混ぜながら貫かれるのも、少しずつ慣れてきた。
冷たい身体が重なって、あやふやな重み、のようなものを感じて。
上下に揺さ振られ、理解できない波に引き摺られている間、縋り付けば其処にフエが居る。確かな実感―――指から伝わる髪の感触と、重なる身体が擦れる其れと、耳に掛かる短い呼吸。
此処に居ると、安心する。
其れだけでどんな行為も、嫌がる理由を無くしてしまう。
ああ好きなんだ俺、と、こみ上げる感覚が嬉しい。
思い出したからか、少しばかり口元が緩んだ。しまったまた涎が、と手を上げようとすると、冷たい指が唇に触れた。
「だらしないねェ」
ぐいぐいと強く拭われ、溜息ひとつ。
ゆるゆると閉じて閉まっていた瞼を再び開くと、明かりを遮っていた影が先程よりも近くにいた。
しゃがみ込む形で傍らに降りたフエが、三志郎の顔を覗き込んでいる。
「ま、さっさと休むこった。明日も早いんだからよ」
げぇむ中に涎垂らして寝られちゃあ困る。などと唇がそんな意地の悪くのたまった。
断じて、疲れさせた張本人が吐く言葉ではない。文句を言ってやろうと思ったが、何処吹く風でフエはすいと移動して、投げ出した三志郎の足あたりの場所で、影から長く身体を引き出した。
「おら、消すぞ。いつまでも腹出してんじゃねェよ」
長い手が伸び、天井灯から伸びた灯りの紐を握る。
面倒くさがる癖に、意外にも面倒見の良い個魔。かちんと一つ音がして、二つある円形の蛍光灯のうちの一つが消えた。
するりと闇の帳が一段落ちて、辺りが薄暗くなる。続いてもうひとつ、
「あ」
消される前に、三志郎の声がフエの動きを遮った。
「どうした、兄ィちゃん」
今まさに紐を引く、直前の動きで止めて、薄闇の中で赤い瞳が振り向き斜め下を向く。
真っ直ぐ降りてくる視線。低い天井に届きそうな長身が、面倒そうに手を伸ばしている其の様子。
裸足の両足の爪先に、靴を模した踵が届きそうで届かない。
別に、どうということは無いのだけど。
「いつもと逆だ」
まるで影のよう。
寝転がった侭、見上げ、三志郎が呟いた。
ああ、と、言われてから気づいたらしいフエが言う。何時もは地に付く身が立っていて、立っているべき身が地に伏せているこの状況。
「なんか変な感じだなぁ。いつもこんな感じなんだ、お前」
只新鮮なアングルに、三志郎が口元で笑った。
フエの視線が三志郎の頭から爪先まで、つうと降りて。やがて何を思ったか、ふ、と鼻で笑った。
「…そうだな」
いや、ちょっと違うか。
言葉と灯りが落ちる音が、同時。
かちかち、と続いた音は、二つ目の蛍光灯と豆電球が同時に切られた所為だろう。一瞬にして夜の裾が覆い被さり、辺りは漆黒。
何が違うんだよと続けようとする三志郎の、身体が不意にがくりと揺れた。
「わ、わっ」
一瞬、地震か何かと思い上半身を起こす。勢い良く蒲団へを手つくと、在るべきはずの柔らかさは無く、肌に馴染んだ冷たさが其処に。
あれ何で、と、混乱する暇もない。筋張った掌を腰あたりに感じた。
「逆ってな、こういう体制を言うんじゃねェか?」
声は下から。
うわっと思わず口に出した。
「お、お前な」
「どうだい兄ィちゃん、逆の眺めってのは」
喉で笑う音が響く。其の侭じわり、と、腰の手が脇腹あたりまで這って来るおまけつきだ。
灯りが落ちると同時に影の中へ滑り込んだフエが、直ぐに三志郎の下から這い出てきたのだろう。跨る形で前のめりになった三志郎の、何もつけていない下肢が、冷たい腰の当たりに密着。
確かに、逆だ。逆だけれども。
「寝ろって言ったの、お前じゃ、……ッ!」
揶揄の為にわざわざ、面倒臭がりの男が出たり入ったり。と思っていたが、目的は別にあったという事か。押し付けた腰と腰の間に不穏な塊を感じて、三志郎が肩を張った。
「ば、馬鹿、明日早いって」
「眠くない、んだろ?」
アンダーシャツの隙間を縫って、言葉と共に掌が這い上がってくる。
「何時までも無防備な格好で脚開いてっから、こうなンだよ」
ご都合の宜しい言葉が、ぽつり。言われてみれば確かに、何もかけず真ッ更の侭で、うだうだと事後を貪ってはいたけれども―――言われると上る羞恥心が、頬を熱くした。
二の句が告げない間に、目は暗闇に慣れて来て。ぼんやりと浮かび上がる空間の中で、同化しそうな黒く長い身体が、自分の下に仰向け寝そべっている。
―――いつもこんな感じなんだ。
先程、この口が呟いた言葉を、反芻。
乗られてばかりの記憶しかない。後は膝の上で揺れた事しか。
何だかものすごく恥ずかしい事をしているような気がして、三志郎の頼りない下肢がぶるっと震えた。目ざとく―――否、密着しているから丸分かりなのか。フエの方眉が上がる。
くっきりと浮かび上がる二つの赤色が、すうと細くなった。
「兄ィちゃん」
絶妙のタイミングで、呼ばれる。肘が砕けた。
近づく距離。
「フ、エ」
何だってこんなに、と思う程情けない声だった。余りの情けなさに、皮肉を込めずに目の前の喉が笑うくらいだ。
どうしよう明日起きらんないかも。続けて口に出すと、まあ頑張れとえらく気の無い適当な答えが返ってきた。
「いっそ寝ねェで夜明かししたらどうだい?」
したら寝坊する事も無いだろうよ。無責任な男が言って、軽く腰を揺すり付けてくる。強請るような動きに、ビクリ。勝手に身体が反応してしまった。
「ま、俺ァ後から中で一休みさせて貰うがね」
「っ嫌な奴…ッ」
「何とでも」
しゃあしゃあと応じて、脇腹の掌が胸にまで到達。既に堅く形を変えていた場所を摘まれて、耐え切れず声が漏れた。
ちくしょうエロ個魔め、と唇を噛む。
しかしながら、塞き止められない塊はすっかり下肢目指して落ちてきている。横目で時計を伺えば、三を過ぎて四に指しかかろうとしている蛍光の針がちかちか、目に痛い。
本当に、今夜は寝れそうに無い。完全に覚めてしまった目をぎゅっと瞑った。
「馬鹿フエ…っ!」
精一杯の毒を毒とも感じず、笑う気配に腹が立つ。
せめての仕返しに、三志郎はフエの笑んだ下唇を、先程の其れと同じくらい強く噛み締めてやった。