【不壊×三志郎】8-呼応して揺れる闇色の水面を透かす、痛い程真っ直ぐな光
背を掻いた痛みが心地良く、だからこそ、顔を顰めた。
眼を開いているのか居ないのか解らない、此処は内側。
見上げる濃い闇色の向こうに、光に繋がる世界がある。
太陽があり、命があり―――三志郎がいる、其処。
此処と其処は違う。
越えた境界を、以ってしても。
(忘れた訳じゃねェ)
眉間に力を寄せて、闇が捩れる感触が響く。
一体となる影の内部では、何処までもが個魔の領域であり、そして、パートナーたるぷれい屋の一部でもある。
『パートナー』。何と聞こえが良いのだろう。
其の実体は、逆門の傀儡の末端だというのに。
撃符となった妖を開放する為に先へ進む三志郎。其の傍らに、妖を撃符に変えし根源の指先たる自分が在る。
真っ直ぐに駆けて行く背中―――眺め飽きる程、見つめてきた。
躊躇いも無く預けられた、小さな其れは余りにも重い。
無邪気に振り向き向けられる、笑顔は余りにも眩しい。
選んだこの眼に狂いは無い。
けれど、この感情は枷になる。
少年の為に、等と奇麗事を言う気は無かった。違える訳には行かない目的が阻まれる事を危惧した。
いつかこの感情は、己に仇を為す。
燻り続けた焔は燃え上がり火の粉となり、この身にもあの笑顔にも降りかかるだろう。
後悔する。解っている。
だから眼を逸らした。
触れる掌に突き刺さる言霊に、屈託の無い笑顔に。
事在る毎に浮かび上がる、らしくない感情と言葉を散らしては、破壊を免れてきた。
壊したくなかったのか、壊せなかったのか、どちらだったのかはもう解らない。
最後まであやふやな侭、決して超えてはならない境界の向こうから投げられる全てに耐えてゆくつもりだった。
『お前じゃなきゃ、』
『多分、駄目だ』
―――あの、言霊を受けるまでは。
出来たのだろう。そうしてゆらゆらとかわしながら逸らし続ける事も。
そうした方が、きっと楽だった。
運命を共にするだけなら、良かった。
繋がるのも運命ならば、裂かれるのも運命。
有象無象の介入で、決別を余儀なくされた時に諦めも付く。仕方が無かったと、其れで済む。
其処に感情が宿るのならば、何時か来る別れの瞬間に、一体。
一体どんな顔で、あの柔らかい手を離せば良いのか。
『………エ…』
水面の向こうで声がする。
闇色の波紋を揺らして、言霊を秘めた声が呼ぶ。
泳ぐように、光へ手を伸ばす。
駄目だと、誰かが言った気がした。
振り向いた境界線、嘗て自分がいた場所には、誰も居なかった。
「フエ、っ、お前!!!」
キィン、と、耳に響く大声。
現し世の音は実体を伴い、影の身にリアルに響いた。
「でけェ声出すンじゃねぇよ、こちとら寝不足で疲れてんだ」
つんと痛む耳を小指で塞いで、心底面倒臭そうな視線を三志郎に向ける。
未だ胸までしか覗かせていない、影はカーテンを閉めなかった侭一夜明けてしまった窓からさんさんと降り注ぐ朝日によって、白い敷布の上に濃く作られていた。
否、敷布に居るのはフエだけではない。腕に引っかかったジャケットを其の侭に、丸い肩に片方だけずり落ちたアンダーシャツ姿の三志郎が、顔を真っ赤にしてフエを見下ろしていた。
「お、お前、昨日、」
「ああ、其の事な」
ご馳走さん。
塞ぐついでに耳の穴を穿り、指の先をふっと吹いてから、言う。
其の侭ちらりと視線を遣ると、思ったとおり、羞恥というより半ば怒りで口をぱくぱくとさせた三志郎が、二の句はおろか一の句さえ告げられずに、目を丸くしている所だった。
「この…ッ!」
強く握られた拳が震えている。其の柔らかさを知っているだけに、ああ勿体無ェと沸いた事まで考えてしまうあたり、末期だ。
否、そんな事はどうだって良いのだ。其れよりも。
「兄ィちゃん、お怒りのとこ悪ィんだが」
「何だよっ!!」
「サービスし過ぎだぜ」
つい、と、先で指した、起き上がり大開脚の侭の下肢。
其の間から姿を現した個魔の視線の目の前に、あられもない箇所が惜しみなく晒されていた。
「ぬわッ!!?」
頓狂な声を上げて、三志郎が脚を閉じようとする。其の腿を捕えて塞げないようにしてから、フエの身体は影を泳ぎ、腰下から眺めあがる位置に。
白い手袋を模した手から伝わる柔らかさ。いくつも刻まれた、赤い鬱血。
昨夜の名残の消えない、湿った身体。
―――抱きしめはしなかった。
「なあ、兄ィちゃん」
「ンだよっ!まだ何か―――」
あんのかよ、と、唇をわなつかせながら三志郎が言う。
感情を露わにした表情。燃えている琥珀。怒れる瞳。
この唇も、あの掌も、どこもかしこも記憶した。
一度きりで良いだろうと、思わなくは無い。
ああなんて情けの無い。無様極まりない。解っている。
けれどもしも、
もし唇も拳も、嫌悪で震えているのなら。
もし欠片でも、その笑顔が曇るなら。
「もう御免だとか、思うか」
壊した言霊と同じくらい強力な其れで、境界まで押し戻せるのなら。
「ッ何だよ、それ!」
唐突に、三志郎の両手が、フエの胸倉を掴んだ。
ぐっと近くなる距離。影から引きずり出されるような錯覚だった。只目前に迫った唇はまだ赤くて、さんざ吸った舌先が覗いて。場違いに思うのは、ああ絡めて引きずり出したいという黄昏色の感情で。
こんな時でさえ欲してしまうのだから、壊れきった箇所の修復はもう不可能なのだろう。などと思考を一瞬飛ばしていると、不意に、三志郎の表情が曇った。
「後悔すんなって、言ったのはお前だろ…!」
「…覚えてたのか」
つうか起きてたのか。
まどろみの最中で告げた悔し紛れ。聞かれていたとは思わなかった。ちゃんと聞いてた、と呟いて、胸倉を掴む手が緩んだ。
「そりゃあ、なんつうか、すげぇビックリしたし、痛かったし、訳わかんねぇし、なんであんな事になったのか、まだ良く解ってないけど」
それでも、と、続けたところで視線がふいと泳いだ。
いつもと逆だ。片隅でそんな事を思う。
「お前のこと好きだって、先に言ったのは、俺だし」
指が解ける。
「お前が、こういうことする相手に俺を選んでくれたのは、嬉しいし」
琥珀色が斜め下を向いて。
「嫌だったら、一発殴ってる」
もしかしたら二発くらいは。
解けた掌は、掴み上げるのではなく引き止めるように、きゅ、と強く結ばれた。
―――ああ、此れだから、離れられない。
じわりと滲む、あるはずの無い熱。
誤魔化す代わりに、手を伸ばしてぐしゃしゃと、三志郎の頭を掻き混ぜた。可笑しな体勢で眠った所為で、見当違いの方向に伸びた寝癖を更にひどいものにしてやる。
やめろよと口は言うが、表情は明るかった。
眩しい其れ。眼を細めながら、フエの口がついでに耳朶を噛んだ。
「其の割には、随分でけェ声で怒鳴り散らしてくれたな?」
あと、昨日の夜もそりゃあ激しく。
敷布を掻いて乱れた、あの声を揶揄。瞬間、三志郎の顔が羞恥を思い出してかあっと染まった。
「っ、だ、当たり前だろ!つうか俺男だぞ!いやとかいいとかそういう前にだな…!」
慌ててフエの肩を掴んで引き剥がすが、残っていたもう片手が、意味ありげに腿の辺りを撫で上げる。鬱血をなぞり付け根にまで挨拶しようとするが、膝に阻まれた。
「どさくさに紛れて何処触ってんだ!お前あれかひょっとしてすけべえなのか!?」
「ま、兄ィちゃんに限ってはそうかもな」
「あっさり返すな!てか俺のせいにすんなよ!」
「いやはや、初めてにゃ見えなかったぜ。対撃よりも覚えがいいんじゃねェか?こっちのが」
「…お前、ほんとに俺のこと、ちょっとは好きなのか…?」
なんか疑いたくなってきた。
唇が尖り、そんな事を言う。
好きだなどと言った覚えは無いが、其れは恐らく肌で感じ取ったのだろう。ならば否定はすまい。
言わぬが華と口を閉ざし塞いだのは自分であるし、こうして疑わしげな眼で見られるのも、嫌いではない。
軽く肩を竦めて見せると、琥珀色はむっとした色を滲ませた。
「ちっとはこう、優しくできねぇのかよ。痛いんだぞ、あちこち」
「へぇ、優しく抱き起こして欲しかったかい」
「そんなフエ気持ち悪くてヤだ」
…ちょっとショックだった。
もう二度と優しくなんぞしてやろうと思うまい。
そう思った。思うだけだが。
出来たのだろう。逃げ口に手をかけ続ける事も。
そうした方が、きっと楽だった。
けれど―――其方を選んでいたのなら、この不可解な心地良さを得る事は出来なかった。
枷に棘に。時に茨となりこの身を苛む事にもなる、言霊。
自ら其れを背負い込む。
認めてしまえば、後には戻れない。
だが、先に進む事は出来る。
あの柔らかい右手が、差し出されるのならば。
終末の苦しみを、受け入れる事も出来る。
刹那でも構わない。
選ばれて、選んだ。
覚悟は引き絞った矢の如く、鋭い一条だけでいい。
何時か訪れる別離の其の時も、何時ものように唇を曲げて、皮肉に笑んで居られるよう、唯、其れだけを願った。