【不壊×三志郎】5-無理矢理下ろされた撃鉄と、自意識で引いた銃爪/壱

 ひゅうと風が鳴って、窓が揺れる。
 小さな民宿の二階の角部屋、六畳の小ぢんまりとした部屋を、提灯のような心もとない明かりが照らしていた。
 外は暗闇。影のように。
 裏手に茂る林は何処までが枝で何処からが葉か解らないほど黒々と染まって、反対側の部屋ならばきっと、通りの向こうに人口のともし火が点々と望めたのだろう。
 どのように暗くても、其処が大地であれば空には月があり、真の暗闇は生まれない。
 けれど今宵はその月も雲に隠れて姿を潜め、この場所を灯すのは、枕元の小さな電球一つ。そう、月が無いからこそ、今日は珍しく、フエは野宿を止めて宿を取るよう促したのだ。
 其の裏側には、灼銅色の仮面を付けたあの少年との対撃で疲労している三志郎を、慮る意図が合ったが―――飽く迄其れは個魔としての行為だと、誰に追及された訳でも無いのに言い聞かせる。
「ぅおー疲れたー…」
 フエの内心など露知らず、延べられた蒲団にだらしなくうつ伏せ、三志郎が呻いた。
「さっさと寝ろよ、兄ィちゃん。寝坊しても起こしてやンねぇぞ」
 橙の灯りが大きく伸ばした影、其の侭の形で目をやって、まるで絵のような風体のフエが呆れ声で言う。簡素だが素朴な、温かみのある民宿の食事は、三志郎の口には随分と合ったようだ。食事を終えて直ぐ、転がった身体はぐずぐずと煮崩れるようにだらけている。
 満腹が睡眠を誘ったのか、目は半分閉じていた。
「明日は朝から歩き回る事になるからな。休める時にきっちり休むのも、ぷれい屋の常識だぜ」
「解ってるよ、ちゃんと寝るって…」
 影に向かって、掌が了承の形に動く。それからころりと寝返り、仰向けに。
 喉を反らせる形で、壁に伸びたフエを見て、三志郎はへらりと笑った。
「フエさ、面倒臭いって言いながら、結構面倒見良いよな」
 ちょっと口煩ぇけど。
 付け足して、すうっと眼が細くなった。笑みが深くなったのだ―――と、理解するのに少しだけの沈黙を必要とした。
 眩しいのではなく、滲むような其れ。
 一層、眼を合わせられない。只眼を伏せて黙った。首ごと背けば訝しげに思われるだろう、何時までも保ちたい現状維持の為に、瞼透かす感情を押さえつけた。
「おいおい、誤解してもらっちゃ困るぜ」
 無理やり拵えた皮肉な笑みを、頬に貼り付ける。何時もの表情を浮かべている、筈だ。
「俺ァ筋金入りの面倒臭がりでな。兄ィちゃんの場合、厄介事を放っとくともっと面倒な目に合うんだよ」
「うん。で、それって結局、俺のことよく見ててくれてるってことだろ?」
 何て言葉を、さらりと。
 吐き出すものだから、また、思考が止まる。ああもうどうしてそういう風に解釈するんだ。違うだろう、其処は単純に騙されてくれ―――そう望んでも、三志郎はぽつぽつと小粒で重い言霊ばかりを生み出して。
 そうして沈黙したフエに、元気のいい眉を少しだけ下げて、
「ごめんな」
 雨垂れのような声の呟き。驚いたフエは、思わず視線を戻してしまう。
 真正面から捕えた瞳は、琥珀は、湖の底のように澄んでいて。笑みの欠片を浮かべた侭、酷く切なげだった。
「お前がさ、居なくて。お前のこと、忘れて」
「…ああ」
 其の事か、と呟く。唐突に何を言い出すのかと思えば、其れは鬼仮面との一件で有耶無耶になっていた記憶の一片。
 飛躍する話から鑑みるに、やはり三志郎は眠いのだろう。眠気が思考を邪魔して、脈絡も無い言葉を引き出している。こういう時は下手に会話を進めない方が得策だ。特に今なら尚更、さっさと寝かしつけるに限る。
「構わねェよ、謝るような事じゃねぇ」
「でも、忘れてたんだ。忘れてたことすら、忘れてた」
 もう寝ろ、と続けようとした声を遮って、三志郎が言った。
「お前は、俺のこと、覚えてたか?」
 問いかける声は、少し小さい。逆らえず、ああ、と唇が答えた。
 忘れる訳が―――忘れられる訳が無い。此れだけ致命傷を与えられ続けては、何があっても忘れられるものか。
 仕方ないのだ、もう忘れられないのだから、仕方なくなのだと転嫁する。
 其れでも三志郎は、返された言葉に安心の溜息を吐いて、そしてもう一度、ごめんなと呟いた。
 謝んなって言ってンだろ。二度目は面倒臭そうに吐く。勘弁してくれそんな顔見せんなもう限界なんだ―――何が限界なのかは、考えたくない。
 思いたくない、言いたくない、考えたくない、壊したくない、解りたくない。
 其れは最後の境界線だ。越えてはならない。
「フエ」
 不意に、三志郎の手が、影に伸びた。
 寝転がった侭、壁に這う形のフエには届かない。畳の上にかり、と立てられた爪の音が、静寂に響いた。
「出てきてくれよ」
「嫌だね」
 即答する。面倒だ、と、口にして。
「夜更かしが過ぎるぜ、兄ィちゃん。何度も言わせんなよ」
「少しでいいんだ、ちょっとだけ。―――お前に、さわりたい」
 ―――暫し、沈黙。
「な、に、言ってんだ」
 ようやっと搾り出した言葉が、上ずっていてみっとも無い。
 冗談か皮肉で返すべきだった。しかし一度放たれてしまった言の葉は戻らない。二の句が告げない侭でいると、琥珀の双眸が真っ直ぐに、フエを見上げてきた。
「忘れてたから、俺、離れてたから」
 やはり眠いのだろう、瞳は蕩けそうで、潤んでいて。
 そんな眼をするものじゃない。爆ぜて駆け回る何かに抗うのはもう限界だ。
 本当は解っている。ああ知りたくも無いし解りたくない無かった事にしたい。だが解っているのだ。この感情の正体を。
 『個魔』と『ぷれい屋』。其れだけで良い。余計なものは後で枷になる。
 だからこそ押さえ込まなければならないというのに。
 畳を掻いた指先が、今度はフエに向けて伸ばされて。
「お前がちゃんと此処に居るって解ったら、すぐ寝るから」
 近くに居てくれ。三志郎が、呟く。
「…個魔に頼む事じゃねェよ」
 人恋しいなら他を当たってくれ。実際にそんな事をされれば穏やかで居られないと解っているのに、突き放す言葉を選んだ。だが三志郎は首を降る。
「個魔だからじゃ、ないんだ」
 眠気に抗いながら、唇が動く。身体は沈むように疲れているのだろう。ゆるゆると肘から折れて、伸ばした手が力なく墜落してゆく。
 其れでもぴんと伸ばした指先は、フエだけを求めていた。
 長く伸びた影、只一つに。
「フエだから、居て欲しいって…さわりたいって」
 すう、と、息を吸う音が静かに響いた。
 何か決意したような、確かめたような刹那。不意に、黒い背中を走り抜ける危機感―――咄嗟に闇の内側へ翻そうとしたフエへ、

「お前じゃなきゃ、多分、駄目だ」

 ぽとりと畳に落ちる、其の寸前で、幼い手首を冷たい掌が掴んだ。
 フエ、と、唇だけが動く。殆どもう眠ってしまっているのだろう、だが今の言葉が寝惚けた戯言ではない事は、言霊の重さが証明している。
 放たれた言霊が、影の身の全てを、灼いた。
 纏っていた外殻を全て剥がされた。剥き出しになったのは、此れまでずっとひた隠してきた本音。
 どんだけ苦労してきたと思ってンだどんだけ面倒臭くて重たくて厄介な時間を過ごして来たと思ってんだ全部無駄にしやがって。そう苛々と呟く割に、虚穴の中身は軽い。
 境界線を越えてきたのは、自分ではない。三志郎から、差し伸べてきた手だ。
 あるべき関係を壊したのも、自分ではない。言霊が壊した。度重なる衝撃に耐えられる筈もない。
 ならばもう如何する事も出来まい。最大の転嫁を皮肉に笑った。ついでに憎たらしい寝顔を見下ろし、形に変えた身体で、感情の侭に小さな身体を抱え込む。
 近くなる顔、間近に迫った耳朶を齧り、フエは開き直った声で囁いた。
「…後悔すんなよ、後はもう知らねェ」
 此れ以上考えるのも面倒臭い。う、と小さく唸る唇を舐め上げた。
 くすぐったいのか、温い感触に三志郎の眼がうっすらと開き、もう一度、フエと名を呼ぶ形になる。
 如何しようもねェんだ、認めてやる、畜生。

「お望みどおり、触らせてやるよ」

 もうどうにでもなれ。
 獣の様に唸って、最後の銃爪を引いた。