【不壊×三志郎】3-百五十センチの隙間で交換する熱の伝導率

 赤く焼けた煉瓦造りの、洒落た歩道に影が浮かんでいた。
 正面からの陽光を受けて、其れは黒く真っ直ぐに伸びる。凹凸を舐めて縁を少しばかり歪ませた黒色が、歩む三志郎の足に繋がり、するすると進んで行く。
 気温三十度、湿度八十五パーセント。
 影が滑る歩道は、じっとりと湿っている。昨日の雨を取り込んでコンクリートに染み込んだ水分が、熱を孕む湿気となって、足元から容赦無く立ち上っていた。
「フエ…」
 掠れた声が揺らめく大気に、ぽつりと浮かび、蒸発。
 刹那、小柄な影が細長い長身のシルエットに変わった。つんと立った髪の名残すら無くなり、代わりに目つきの悪い男の顔が浮かび上がる。
 面倒くさいのだろう、フエは姿形には成らず闇の中から視線を投げた。
 赤い視線の先には、小さな背中と丸い肩。歩みは心成しか心許無い。呼び掛けて来た声も頼りないような。
「なぁ、フエ…」
 二度目に呼ばれて、眉を顰めた。こんな情けない声は珍しい―――否、頼み事をする時や何か都合の悪い事を誤魔化す際に、三志郎の情けない声を聞いた記憶はもちろん在るのだが。
 このように弱りきったものは、ついぞ耳にした事が無い。
 如何したと問いかけようとすると、不意に、其の膝がかくんと折れた。

「も、限界、かも」

 ぽつりと言葉が、煉瓦に落ちる。
 ぐらりと傾き、三志郎の背中がフエに向かって倒れ込んで来た。

「こうなる前に、口に出すなり何なり出来ないもんかね」
「悪かったよ…」
 はたはたはた。
 面倒臭そうに動くフエの手が、三志郎の帽子を団扇代わりに扇いでは風を送る。
 ぐったりと横たわる三志郎の眼は閉じられ、息苦しそうな吐息と共に、言葉が溜息のように零れた。
「休憩したいっつったら、怒られるかなーって思って…」
 どうしようか、考えてたらぐらっと来た。
 そう苦く吐く顔は、いつもの元気な小麦色ではなく仄かに青い。
 軽い貧血か、熱中症か。今朝から急変した気温の変化に付いて行けずに、どうやら調子を崩したようだ。
 街中で倒れられてしまえば、ヒトには見えぬ影の姿であれこれと手を貸すわけにも行かない。解っているのだろう、三志郎はどうにか身体を起こし、壁に手を突きながらも、人気の無いビルとビルの隙間に滑り込んで、そして再び倒れ込んだ。
 常に日陰であり続ける涼しい場所ではあるが、空気が通らない所為か、湿度を含んで吸い込む酸素が温い。
 見かねたフエが仕方なく、影から身を成して座り、仰向けの三志郎を脚の上に抱えていた。
「だからって、ぶっ倒れちゃ如何しようもねェだろうよ」
「うん…」
 反論もせず―――其れ程迄に気分が悪いのか、眉間に小さく皺を寄せた三志郎が首を振る。うう、と唸る唇が歪んだ。
「…調子悪ィのを押してまで先に進ませる程、俺ァ鬼じゃねぇんだぜ」
 琥珀色の瞳が閉じられているのが幸いだった。少しばかり、バツの悪い顔でフエは頭を掻く。
 何かと直ぐに寄り道したがる好奇心を向き直らせるべく―――余所見しながら行けるような旅ではない―――そして面倒事を極力減らすべく対応してきたつもりだが、此れは少しばかり考えを改めなければならないかも知れない。
 三志郎は三志郎で、フエとの付き合い方を学んでいる。此度の不調を口に出さずにいたのも、逐一ちくちくと刺さる小言を避ける為だろう。
 面倒臭いものだと思いながらも、放っておくという選択肢は存在しなかった。
 青い瞼を見下ろし、帽子を置いた手で、すう、と掌で触れる。
「わ」
 気持ちい。
 苦しげだった唇が、漸く、少しだけ笑った。
 白い手袋は、見た目は布でも布では無い。個魔が身に纏う全ては影だ。日の光を受け付けない冷たさでもって触れれば、少しは回復の足しになるかと思ったが、正解だったようだ。
 一枚隔てた向こうの、三志郎の肌があまり熱くない。するとやはり貧血だろうか。
 刹那、ほんの刹那だけ躊躇ってから、くたりとした首の後ろに、もう片手を差し入れた。
「っひゃ!?」
「で、けぇ声出すなよ、兄ィちゃん」
 高く上がった声に、フエが僅か狼狽える。
「てっぺんに血が足りてねぇのに、頭冷やしちゃ意味ねぇだろ」
「あ、そっか…あーでもやっぱ気持ちい…」
 へへ、と、口元だけで三志郎が笑う。
 恐らくは何時もの笑顔、眩しい其れ。眼を隠していて良かったと、漠然と思った。でないと、こんな薄暗い路地裏で眼を細めなければならならくなる。
 耳に残るのは裏返った声。手を這わせた箇所は熱を溜めて熱い。
 腕や肩に触れた事は幾度かあった。受け止める為に守る為に。けれど、普段は服で隠れてしまう秘められた箇所に触れたのは、初めてだ。
 冷たさにびくりと跳ねた肌。内側に沿って滑らせたなら、どんな声を上げるのか―――
「な、フエ」
 在らぬ方向へ飛躍しそうになった思考を、三志郎の声が引きとめた。
 肩を短く張らせ、フエが暫し黙り、息を吐く。何を考えてンだ俺は―――自分に向かって叱咤し、しかし喉は平然と、何だい兄ィちゃんと応じていた。
 眼を覆われた三志郎は、手を除ければ真っ直ぐにフエを見上げている顔の角度まで顎を上げて、まだ色の悪い頬を持ち上げるようにして、笑って居た。
 先ほどよりも、僅か柔らかい、笑み。
「さっきは、ありがとな」
 倒れた時、と。
 続いて唇に乗る言葉。
「ぶっ倒れた時、背中、全然痛くなかった。お前が受け止めてくれたんだろ?」
「……まァ、な」
「今も、俺のこと乗っけてくれてるんだよな」
「…………」
 気付いてやがったか、とは流石に口には出せない。
 こっそりとやったつもりだったが、失敗していたようだ。煉瓦の歩道の上に派手に転んで、頭でも打ったらあとあと面倒、そう、面倒だからそうしたまでだ。今だって、泥と湿度の交じり合うアスファルトに寝そべる姿を見るのはあまり気分のいいものではないから、こうして寝台よろしく脚を貸しているだけだ。
 其れだけだ。其れだけ。
 其れだけだと言うのに、この子供は。
「フエと居ると、気持ちいや」
 冷たくて心地よい、と呟いた言葉其の侭に、三志郎の手が伸び、自らの目を覆うフエの手の上に重ねられた。
 ヒトの、温い体温。少し熱い。恐らく三志郎は、逆に冷たいと思っているのだろう。
 未だ幼い指が、フエの筋張った小指を、く、と握った。
「…兄ィちゃん」
「も少し、このまんま…」
 すう、と、三志郎の唇から、透明な吐息が漏れる。
 淀んだ空気を少しだけ澄ませて、直ぐに消えてしまう細い息が、フエの髪を揺らした。
 とてもとても近くに居るのだと、自覚させられる距離。
 握られた力は弱く、少し手を振れば解けるのに、解けない。
 ひたりと重なった身体が、裏腹の熱を伝えて。

 ―――眼を隠していて、本当に良かった。

 こんな顔、見せられやしない。
 虚穴の内側で燻る何かに抗うのに必死で、フエの顔は苦く、狂おしく歪んでいた。