【仏英】君と見る、夜更かしな星屑

 風は肌で感じたほうがいい。夜風ならなおさらだ。
 吐き出す息は、夜の空気を少しだけ白く濁してすぐに溶けてしまう。フランシスの首には薄いストールがおざなりに巻きつけてあった。それだけでは、この十二月の寒さをしのぐことはできないだろう。けれど、この冷気もまた、季節そのものなのだと彼は言う。
 冬は寒く、夏は暑く、秋は澄んで春は暖かい。それを身体で感じる。
 全身で感じ取った温度に、形を与える。絵とはそういうものだとフランシスはいつか言っていた。立派な画材など必要なく、ペンとスケッチブックさえあれば、空気だって紙の上に写し取ることができるのだと。
 だから、夜の街――聖夜を目前にして少しばかり浮き足立ったパリの街並みを見下ろして、愛用のモトベカンのシートに腰掛け、小さな灯りの下で彼はペンを動かす。
 吐いた息が唇から頬へ、そして後方へ流れていく。
 夜の大気に消える前に、吐息はアーサーの、分厚いブラウンのコートの胸元に当たってほどけた。
「こんな日まで創作活動か?」
 アーサーは寒そうに、皮の手袋をはめた両手をこすり合わせて言った。
 フランシスはペンを止めることなく、また振り返ることもなく、うん、とだけ言う。
 街はずれの高台に二人の男。他には誰も無い。
 にぎやかな喧騒がうっすらと、風に乗って聞こえてくる。フランシスの右手のペンがスケッチブックとこすれる音が静かに響いた。
「……………」
 アーサーは黙り、背中を向けたままのフランシスを、少しばかり忌々しそうに見つめた。
 渡せない、手の中の缶コーヒーが冷えていく。自販機の飲み物は嫌いなので、フランシスの分だけだ。
 一度ペンを握ったなら、気が済むまで顔を上げない。フランシス・ボヌフォワという男は面倒見もよく料理も上手く、基本的にアーサーを中心にして世界を回しているけれど、ペンを握ったこの時だけ彼の世界が閉鎖することを、アーサーはよく知っていた。
 その扉がいつ閉ざされ、また開かれるのかは知るところではない。朝起きたらベッドにはもうおらず、庭で何かを見つめて手を動かしていることもあったし、連れ立って出掛けた際に、ごめんちょっと待って、と言ったきりその場を動かなくなった時もある。
 その度に、アーサーは微量の疎外感を味わっては唇を噛んできた。
 黙って立ち去ってしまおうか。そう思うがそうしないのは、去っていったところで居なくなったことに気づかれなかったなら、傷つくのは自分の方だからだ。
 寂しいなどとは言わない。こちらを見ろとも言わない。言いたくないし、邪魔をしたいとも思わない。
 この男がどれだけの時間と心遣いをアーサーにだけ向けているか、そんなことは考えなくなってわかる。そんな彼がたった一つ、なにもかもを置き去りにして没頭する世界の鍵を、アーサーは持っていないのだ。
 だから今日も、黙って背中を眺めている。
 共に聖夜を過ごそうと、待ち合わせた場所で、先に到着したフランシスがこちらに背を向けていても。
(ばかみたいだ)
 口の端で呟いて、一歩を踏み出せずその場に立ち尽くす。
 その時、フランシスが小さく、なあ、と呼びかけてきた。
「アーサー」
 唐突に呼ばれ、アーサーは凍えた肩をびくんと跳ねさせた。いつの間にか靴先を見つめていた視線を、フランシスの後ろ頭に向ける。声がすこし、喉に絡んだ。
「な、なんだよ」
「ちょっと、こっち来てくんない?」
「…なんで」
「いいから」
 こういう時、フランシスの口調はいつもの柔らかい声音を僅かに硬質させる。それだけ集中しているのだろう。
 ふと思う。意識の真ん中に向けたもの――今は絵に、だが――に向ける声がどれほど暖かいものだったか。いつも自分に向けられている、自分にとって当たり前であるあの声を思い出して、アーサーは赤面した。そして、今は違うのだという思考には気づかない振りをした。
 絵に嫉妬なんて、ばかげている。
 頭を軽く振っていると、もう一度呼ばれた。仕方なく、缶をポケットに隠してフランシスに歩み寄った。
「…で?」
 背後からスケッチブックを覗き込める距離まで近づく。フランシスはまた、うん、と呟いて、シートから少し腰をずらした。ペンを止め、ため息。
 一度目を閉じて、一、二、三秒。そして、いつもの顔で――アーサーだけを見る顔で、緩く笑んで顔を上げた。
「ここ、座って」
「は?」
「シート。後ろ向きにさ」
 意味が解らない、という顔をするアーサーに、フランシスはペンを持った右手で自分の背中を指差してみせる。狭いシートの前半分にフランシスの腰が据えられていて、残りは空白。そこに座れ、と、青い瞳は望んでいた。
「何でだよ。こんな狭い上にボロっちいもんの上に座れるか」
「ひど!年代物って言ってよ!」
「なら中古品にランクを上げてやる――って、おい、引っ張るな!」
 座るのを拒むアーサーの腕を、フランシスは掴んで軽く引っ張っていた。元来、アーサーにだけは力に任せた強引なことなど滅多にしない男なのだ――驚いた翠の瞳には笑顔が映っている。その奥に、まだ閉ざされたままの扉を見た。
 もう絵は終わりかと思っていたが、そうではないらしい。アーサーが、く、と喉を鳴らして俯く。
「お兄さんのお願い。ね?」
 言葉だけは甘いのが余計に腹が立つ。これ以上、顔を見て居たくない。
 本気でこのまま立ち去ろうかと思ったが、ポケットの中の缶がやけに重く感じて。アーサーは口の中で短い罵倒を吐いてから、乱暴にシートに腰掛けた。サイドに引っかかっていたオープンタイプのヘルメットは、蹴落としてやりたいと思ったけれど気が乗らなかったので、手持ち無沙汰に両手で抱えることにする。
 するとすぐに、冷たい背中が寄りかかってきた。
「っ、おい、何なんだよ!」
 のしかかる重みに、アーサーは振り返って怒鳴った。コート越しに伝わる温度が驚くほど冷たくなかったら、突き飛ばしているところだ。背中を合わせているせいでフランシスの表情は窺えないが、金髪の向こうに微かに見えた口元は、笑っているように見えた。
「…何なんだよ…」
 もう一度、今度は呟くように言うと、フランシスはごめんな、と、答えにならない答えを返してきた。
「ここ、綺麗だろ?」
「…まあな」
「だから、描きたいんだよ」
「…何を」
「今日、ここで、そばにお前がいる時の空気」
 そう言って、背中にまた、ぐん、と重みが掛かる。苦しいほどではないけれど、半身を預けるほど、深く。
「寒いのに、ごめんな」
 温度を分け与える猫のように、背中がこすれる。残念ながら冷え切ったフランシスの体温では、与えるどころか奪うだけだ。それでもアーサーは、投げられた言葉の意味するところを、噛み締めて理解して――首とうなじを真っ赤に染めていた。
『今日、ここで、そばにお前がいる時の空気』
 そのために、ここを待ち合わせに選んだのだろうか。
 そのために、こんな時間に、こんな寒くて、街から遠くて、登るのも一苦労な場所に、自分を。
(ば――)
 ばかじゃねえの。
 アーサーの、喉まで出掛かった文句は、言葉にならず舌にも乗らずに詰まったままだった。第一こんな顔で、こんな声で、言ったところで罵声にもならない。耳が熱い。恥ずかしい。嬉しいとかみっともなくて知られたくない。
 今までフランシスが描いていたのは、花や景色や街並みなどのとりとめないものばかりで、その中に特定の人物を描き込んでいるのは見たことが無い。それが多分、世界と彼の対話なのだろうと思っていた。
 その中に、自分の欠片が描かれる。自分のいる、空気というものが。
 閉ざされていた扉がほんの少し開いているような、そんな温度をアーサーは感じた。
 アーサーは鍵を持っていない。けれど、今、入り込めないフランシスの世界に、触れている。
 そう思ったら、頬が、緩んだ。
 くくく、と、先ほど飲み込んだ言葉を引っ込めた喉が笑っている。その振動が伝わったのか、フランシスが僅か振り向いた。
「…アーサー?なんか震えてる?」
「ちが、なんでもない、好きにしろ」
 こんな顔見せられない。自分が笑った顔は好きじゃない。しかめ面の方が似合っているのを知っている。
 けれど多分、自分は嬉しいのだ。
 そうして、絶対に口に出したくは無いけれど、この男のことが好きなのだ。
「…ほんと変な奴だね、お前は」
 フランシスがそう言って、後ろ頭を軽くぶつけてくる。
 お前にだけは言われたくない、と返して、アーサーも小突き返した。
 そうしてまた、しばらくして、スケッチブックの上をペンが滑る音が聞こえてくる。
 その音を聞きながら、アーサーは目を閉じる。初めて、この小さな音を心地よいと思った。
 不意に、ポケットの中で冷えた缶コーヒーの存在を思い出した。フランシスの気が済んだら、襟にこの凍りつきそうな缶を放り込んでやろう。
 それまでは、気持ち悪いほど穏やかな夜を、彼に倣って味わって見ることにしよう。
 日付を変えそうな時刻、眼下で灯る明かりは数を増やすばかり。街から離れた丘の上、古びたモトベカンの上の世界は、アーサーとフランシスと、まさしく二人だけの世界だった。