【露普】五指型のворот

「そうしていると、まるで君は犬のようだね」
 雪の降る窓の向こうを眺めていたプロイセンは、その声に鋭く振り返った。
 視線の先には、大柄だが柔和な笑みを浮かべた男が一人。自分を虜囚として飼い殺すロシアという国が、眼を細めてプロイセンを見ていた。
「人を獣扱いするんじゃねえよ、胸糞悪い」
「気に入らなかった?従順で、健気で、主と決めたものを決して裏切らない、そんな動物だよ」
 コツ、コツ、と、静かな足音が、暖炉の薪がはぜる音に重なって響いた。
 橙色に燃え上がる炎からの明りが、ロシアの影を長く伸ばしている。歩み寄る度に、それはプロイセンの立つ窓辺へと近づいた。
 足先に影が触れ、プロイセンは舌打ちをして一歩下がる。凍り付いてしりしりと鳴りそうな窓が背中を撫でた。
「でも、僕は猫の方が好きだな」
「そうかよ」
「かわいいじゃない?」
 歩みながら会話は続く。影はもう逃れられないほどプロイセンの半身を覆っていた。暖かい室内なのに、その影が触れている部分だけが冷たく感じた。ロシアが近づく度に、身体が温度を失っていく――そんな、錯覚だった。
 こつり。靴音が止まる。ついにたどり着いた先で、プロイセンとロシアの距離は掌ひとつぶんにまで狭まっていた。
 間近に立たれると、無言の威圧感がいっそう強くなる。どうしたって見上げなければ顔をあわせられない身長差。もともとあわせる気もないので、プロイセンは身体ごと窓に向き直った。
 その窓へ、とん。手袋に覆われた大きな手が、水滴を垂らす硝子に押し付けられた。
「小さくて、やわらかくて脆い。すこし力を込めたらすぐに抱き潰してしまいそうで」
 そう言って、ロシアが少し膝を屈めた。そうするともう、二人の距離は零といって差し支えない。
 耳のすぐ上にロシアの顎がある。人畜無害な顔をして、その口の中にとんでもなく残酷で貪欲な牙が隠れているのをプロイセンは知っていた。自然と、背筋に悪寒が走る。寒気ではない警戒の波が。
「君は待っているね。それは誰を?もう死んでしまった君の上司?それともかわいいかわいい弟さんかな」
「別に誰も待ってねえよ」
「ふうん。毎日毎日、同じ方向を見つめているのにね」
 くすくす、と、ロシアはおかしそうに笑った。
「犬のプライドと猫のプライドは違う。知ってる?プロイセン君。犬よりも猫のほうがずっとお利口さんなんだよ」
「待てもおすわりも出来ない動物のどこが利口だってんだ?」
「犬は忠義のために命を落とすことも厭わない、愚劣なくらいに直向きだね。身体を守る鎧を持っていないのに、果敢に刃にも銃弾にも向かって行く。それを美しいと思うのは無関係な人間だけだよ。ほんとうは、とてもばかだ。プライドを守って死んだって、後には何も残らないのにね」
「…何が言いたい」
「猫はね。自分のために曲げられるプライドを持っているんだ。命を落とすくらいなら泥を舐めることだってできる。死なない為にね。汚いものも嫌いなものも、生きる為に利用できる。頭が良いと思わない?やわらかさや脆さを武器に、庇護される立場を取れる。そうして、庇護する者に従順だ。犬のように、無様に敵に吠え掛かっていったりしない。
 そういう形振りかまわないところが、僕が猫を好きな理由」
 ゆっくりとした言葉は、随分と饒舌になっていた。寒さから口を開くことの少ないロシアの地に立っているというのに、まるでそんなことは気にしていない様子で。
 窓についていた手が、すべるように離れた。残る手形はグリズリーの爪あとのようだった。
 その手が、もう片手を伴ってプロイセンの肩に触れる。曇る硝子越しに見たロシアの目は、とても穏やかに笑っていた。
「君も猫になってよ、プロイセン君」
 ぞっとするほど、気持ち悪いほど、静かな狂気纏って彼は言った。
「お利口に、さ。なってよ。ご主人様を待ち続ける愚直な犬でありたい君を見ているのは楽しかったけど、そろそろ飽きちゃったな」
 そのまま、手がざわりと肩を這い上がる。先ほどの悪寒よりもなお激しい危機感に、プロイセンは思い切りその腕を弾き飛ばしながら振り返った。だが、離れたのは片手だけ。もう片手が伸びる。Kreuzの上に。
 鉄十字を握りつぶしそうな力で、ロシアの手がプロイセンの首を掴んでいた。
「首輪なら僕がつけてあげる。ここに真っ赤なリボンを飾って、何処に居ても解るように鈴をつけて、僕の傍においてあげる」
「ッ…く…」
「僕がお願いしてるんだよ?お返事は?」
 ミャーオ、って、鳴いてくれないの?
 一片の狂いもなく正当に狂った、絶対零度の命令が含まれた『お願い』――侮辱。
 プロイセンの瞳が、蒼さを忘れて真っ赤な戦火の炎を伴って、燃え上がった。
「――Scheisse!!」
 詰まる喉で汚い言葉を吐き捨て、プロイセンは思い切り、ロシアの脛を蹴り上げた。硬いブーツにぶつかる感触。何かを仕込んでいるのか、急所を打った手ごたえは全くなかった。顔を引きつらせる前に、ロシアがにこり、と笑う。
 ころされる。そう思った。そして、もうそれでもいいかもしれない、一瞬だけ、そうも思った。
 しかし、頚動脈を圧迫する右手は、不意に力を緩められた。途端に空気が肺に落ち、プロイセンはそのまま激しく咳込んでバランスを崩す。膝だけはつきたくなった。無様な姿などこの男の前で一切見せてやるつもりはない。血が出るほど歯を食いしばって耐え、それでも窓枠に、激しく頭をぶつけた。
 そんなプロイセンを、ロシアは依然笑顔で眺めている。
 首を絞めた手が静かに下りて、そして、あはは、と笑った。
「強情だなあ。うん、でもいいや」
 げほげほと喉を押さえるプロイセンを尻目に、彼はくるりと踵を返した。今にも崩れ落ちそうな彼に手を貸しても、はじかれることが解っているからだ。そして、今ははじかれる気分ではないからしてあげなっただけなのだ。
 来た道と同じく、ゆっくりとした足取りでロシアは扉へ向かっていく。生理的な涙を浮かべながらも、ぎらぎらとした目で睨みつけてくる赤紫の視線さえ、そよ風のように感じながら。
 扉の近くまで寄ったところで、合図を出しても居ないのに廊下から扉が開く。無表情を貼り付けたベラルーシがそこに居た。
 彼女の小さな頭を、そのまま握りつぶせそうなほど大きな掌がそっと撫でる。ベラルーシは、無表情の上に僅かな恍惚の色を浮かべていた。それこそ――喉をなでられた猫のように。
 その様子を満足そうに眺めて、ロシアは少しだけ振り返った。
 そうして、凍てついた空のような、容赦のない唇が笑う。
「僕、犬をしつけるのはそんなに嫌いじゃないんだ」
 閉ざされる扉。再び、薪のはぜる音だけが響く。やっとここで、膝が崩れた。
 誰かの名を呼びたかった。カーキの軍服の背中を思い出して、そんな自分を叱咤する。甘えなんてものは、かの地に全て置いて来たのだ。ここにはそんなものはない。自分は誰も待っていない。自分は犬猫じゃない。俺はKoenigreich Preussen。誇り高きゲルマンの鷲。腹の奥で繰り返してそう叫ぶ。
 現実はこの大地より冷たい。だから誰にも頼らない。
 扉の向こうで落ちる錠の音――絶望的な音色を聞きながら、プロイセンはもう一度、くそったれ、と吐き捨てた。