【独普】割れた花器から滴るもの(Die Rose ist gestorben.)
その昔、誰かが軽口でそう呟いたのを聞いたことがある。
「黙っていれば完璧なのに」
粗野な言動、デリカシーの無い行動、傲慢な態度。
それらが、形だけは整った彼の外見を台無しにする。白い肌と、少しばかり剣呑だが鉱石のように光るpurpurの瞳。形の良い筋肉がついた、均整の取れた体つき。黙って座っていたら、女に不自由しないほどなのにと。
その時はそうかもしれない、と、頭の片隅で納得した。
今はもう、頷くことも出来ない。
プロイセンがドイツの家に根を生やしてから、数ヶ月が経過した。
礼儀として、本来ならばすぐにでも挨拶に行くべきだとオーストリアは思っていた。だが世界は目まぐるしく進化していて、そうそう家を空けられない。どの国も外交に内政、手が放せる状況ではないのだ。
口には出さないがハンガリーもまた、プロイセンの状態を気にかけていた。顔を合わせれば喧嘩するような関係でも、一度結ばれた縁というのは決して切れはしない。彼がロシアに行ってからというもの、顔を見ることさえ無い時間が続いたのだ、心配するのは当然だった。
忙しないスケジュールをぬって、ドイツの本宅の扉を叩いたのはある曇りの日の昼過ぎ、一雨来そうな不穏な天気の中であった。
チャイムを鳴らす。返事はない。
不在だったかと首を捻る。アポもなしに訪ねてしまったのは失敗かつ不躾だったとオーストリアは少しばかり後悔する。
しかし、この機会をなくしたら、次はいつ訪問できるかもわからない。それにこの家は無駄に広くて、少し奥の部屋にいればチャイムの音も聞こえないのだ。気づいていないだけで、中にはいるのかもしれない。
暫く逡巡した後、オーストリアは試しにドアノブを回してみた。
真鍮製のそれはひやりと冷たく、そして、あっけなく回った。
「ドイツ?…お邪魔しますよ」
扉を少しだけ引いて、声を掛けてみる。返事はない。
「プロイセン、居ないのですか?」
訪問の目的である男の名前を読んでみる。返事はない。
またしても悩んで、結局、在不在のわからない屋敷内に、オーストリアは足を踏み入れることにした。
鍵が開いているということは誰かが中に居るはずだ。プロイセンならともかく、几帳面なドイツが施錠もせずに外出するわけが無い。きっとすぐに屋敷の主人が顔を出すだろう――そう思い、大きく扉を開け放つ。
眼に飛び込んできた光景に、オーストリアの眼が大きく見開いた。
「これは…」
かつてと全く変わらない家具と間取り。だが、これほどまでに荒廃するものだろうか。
玄関に置かれた花瓶の中身、あでやかに咲き誇っていたはずのローテローゼは、ドライフラワーを通り越して枯れきっていた。頭を垂れて、紙のようにくしゃくしゃになった花弁が緩やかな絶命を物語る。角度を傾けた額縁、ラグはめくれ上がって片隅に追い遣られ、ありえないことに、床にはうすく埃が積もっていた。
「一体、何が…」
自分は一体どこへ迷い込んでしまったのか。冷たい汗を背中に感じて、オーストリアが呻く。
綺麗好き、整頓好きのドイツの住居とは思えない。廃屋のような淀んだ空気など、彼が許容できるはずもないのに。
この家にはもう住んでいないのか。咄嗟にそう思った。
だが、埃だらけの床には靴あとが残っている。それも幾度も、何往復分もの足跡が。
その足跡はまず、まっすぐに二階へと続く階段へと伸びていた。段を下る痕跡は廊下を進んでキッチンと浴室へ向かっている。これだけを見ると、この跡の主はその二箇所しか行きあっていないように見える。そして、複数でもない。
不穏な予感を感じて、オーストリアはゆっくりと室内を巡回した。
キッチンや居間を覗いてみるが誰も無い。浴室を使用している音もしない。
薄ら寒いものを感じながら、跡を辿って階段の手前まで歩みを進めた。年季が入って味のある光沢を持った手すりも、埃まみれでは台無しだ。そこへ手を乗せることは躊躇われた。ぎしり。一段踏みしめると、素材が軋む音が、無音の空間に響いて消える。
二階には閉じた扉がずらりと並んでいた。どれもが閉ざされている。
――否、一室だけ、掌一つ分ほど開いている扉があった。
隙間からは淡いオレンジの明かりが細く洩れ、直線の筋となって埃舞う廊下を照らしている。
大きな靴跡の上に形の違う痕跡を残しながら、扉へと近づく。微かに洩れる、ドイツのものらしき声。矢張り、外出などしていなかったのだ。
礼儀としてノックをしてから、室内を覗き込む。
「ドイツ? いるのなら返事くらい――」
返事くらい、なさい。この有様は何事ですか?
そう問おうとした唇が、音を発さずに、開いたまま静止した。
荒れ果てた玄関を目にしたときよりも鈍く、重たい衝撃が、オーストリアの身体に、ずんと圧し掛かる。
その室内の様子――そして、空気。
クイーンサイズはあろうかという巨大なベッドが真ん中に設えられ、他の家具は何一つ無い。そのベッドの中、シーツの海の端からだらりと垂れた真っ白い足に、鎖の繋がる枷。
足のあるじの髪を、ベッドサイドに腰掛けたドイツが梳いていた。
見覚えのある、銀色の短い髪を。
「貴方…一体何を!?」
咄嗟に出た言葉は、悲鳴のように高く室内の空気を震わせた。ぴくん、と肩を揺らして、ドイツが顔を上げる。
ゆるりと開いた瞳は、気のせいではなく、深海のように濁っていた。
「――ああ、オーストリアか。久しいな」
「挨拶は結構です!それは――この状況は、一体何事なんです!?」
鋭く詰問しながら、オーストリアは室内に荒々しく踏み込もうとした。その瞬間、濁ったドイツの瞳が瞬時にしてぎろりと重たく色を変え――雷撃を受けたかのように、彼の細い身体は動かなくなった。
爪先に境界線がある。踏み越えることの許されない、結界がそこにはある。
踏みとどまったオーストリアを見て、ドイツの眼はまた海の深さを取り戻す。その場から動けずに、それでも形のいい唇を歪めて迸るのは、尖った詰問だ。
「その枷は、彼はどうしてしまったんです、貴方がやったのですか!」
「ああそうだ。兄さんの為に」
「プロイセンの…為?その拘束がですか?」
「一人になると暴れるんだ。俺が居ない間にふらふらと出て行ってしまう。こんな状態の兄さんを出歩かせるのは危険だ」
仕方が無いんだ。
その呟きにはしかし、悲哀の感情は見当たらなかった。逆にどこか喜びを帯びていさえする。
ドイツは立ち上がり、ベッドから零れたプロイセンの足を丁寧に持ち上げた。じゃらん。鋼色の鎖が重たくこすれあう。その終点はベッドの脚へと繋がれ、長さも数メートルしかない。
ドイツが立ち上がったことで、今まで隠れていたプロイセンの顔が、オーストリアの眼に晒された。
それは――プロイセンと呼んでいいのか、わからない「もの」だった。
何も身に着けていない裸体。まぶしいほど白いシーツと同化してしまいそうな白い肌に、縦横無尽に走る傷跡。手足は痩せ、鍛えられた筋肉が乗っていた胸や腹はへこんで肋骨まで浮いている。
それだけならば、思うことはあっても眼をそむけたりなどしない。国である自分たちは、国土と国民の状態が肉体に其の侭影響するのだ。プロイセンはもう、その名を戴く場所を持たない。過酷な待遇であったろうロシアでの生活と、疲労しきったOstenの状況が彼を衰えさせたのだろうと理解できる。
けれど、オーストリアの知るプロイセンの瞳は、こんなにも無機質ではなかった。
硝子玉を二つ、頭蓋にはめ込んだのだと言われたなら納得してしまったかもしれない。どこまでも透明で、ただ開いているだけの赤紫の瞳。半開きのまま動かない唇は少し濡れている。
誰かが言った。「黙っていれば完璧なのに」と。
それは違う。生命溢れる彼の気質なくして、整った外見などありえない。
そこにあるのは、プロイセンの形をした人形。一体の、肉で出来た人形だった。
「俺が居る時は、こうして静かにここに居てくれる。本来ならずっと側にいたいが、許される身体ではないからな」
いとおしげに、骨の浮いた足首から甲を撫でて、ドイツは言った。
ぴくん、と、プロイセンの身体が震える。空洞を覗かせていた唇から、聞いた事も無い細い悲鳴が上がるのを、オーストリアの鼓膜は拾い上げてしまう。
「兄さんは、変わってしまったんだ。無理も無い…離れていた時間が長すぎたんだ」
俺たちは離れては生きていけない。それはオーストリアに向けての言葉なのか、それともプロイセンに向けての言葉なのか、それすらわからない胡乱な口調だった。
「耳も、口も、瞳も、もう使えない」
「そ、んな… 何故、今まで黙っていたのですか!?」
「話したところでどうなる。治せるのか?一体どんな名医なら、兄さんの五感を全て取り戻せる?」
「そういう意味ではありません!彼は…ハンガリーも、私も、彼のことをずっと気にかけていたのですよ!」
普段の冷静さも取り落として、オーストリアは言い募った。できることならドイツの頬を一発といわず数発張ってやりたい。それが見当違いな行為であっても、長い縁の友人を鎖につないで隠匿した事実に対しての憤りは、暴力に訴えかけさせる力を持っていた。境界を越える足があればそうしていただろう。
「たとえ一切の会話ができなくとも、せめて知らせくらい…」
「会話が、できない?」
オーストリアの言葉に、ドイツの肩が再び揺れた。
「誰が会話できないなどと言った」
「っ…貴方が、仰ったんでしょう? 口も利けないと」
低く滑る声に気圧され、オーストリアは一歩後ずさる。同時に、ドイツはくつくつくつ、と笑った。
「口が利けなくても、会話はできる。俺以外の者にはできないことだが」
「どういう…ことです?」
「こういうことだ」
足首を滑っていた手が、するり。這うような動きで、シーツ越しにプロイセンの膝から上を撫でた。
「ァ……」
途端、動く事も無いと思っていた、色の薄い唇が音を漏らす。驚いたオーストリアが視線をプロイセンの顔へと向けると、がらんどうの表情のまま、唇と喉がひくひくと震えていた。
「兄さん…解るか、俺が触れている」
「ウ…ァ、ア」
ぞっとするほど甘く滴る囁きの合間に、聞きたくも無い、明らかな嬌声が――漏れ始めた。
ドイツの掌は膝から上、腰、そして胸へと焦らすように這い上がっていく。まるで穢れを知らぬ過敏な処女のように、気持ち悪いほど従順に、白い身体は揺れた。油の足りぬ機械人形のようなぎこちない震えはごくわずかだったが、それが性感を伴っているのはオーストリアにも解ってしまう。
「言葉を失っても、会話などいくらでも出来る。触れて、全身で」
オーストリアの、見開いた瞳の向こう。ドイツがベッドへ片膝をついて、プロイセンの身体へと覆いかぶさっていく。
たどり着いた掌が痙攣する喉を、いとしいものにする動きで撫でる。濡れた唇に、接吻け。
「にいさんとおれは、ひとつだ」
そこにいるのは、オーストリアの知る者たちではなかった。
プロイセンの形をした何かと、ドイツの姿をした何か。
かつての兄弟は――互いが互いを兄弟とそれ以上の愛情で満たしあっていた、明るく微笑ましい彼らはもういない。目の前にいる、いや、あるのは、溺死するほどの愛情を壊れた器に注ぎ続ける男だけだ。
「っ……!!」
もうこれ以上、こんな惨状を眺めてなど居られない。こみ上げる吐き気を抑えて、オーストリアは勢い良く踵を返した。
勝手に家に上がった詫びもなく、見舞いの言葉もなく、別れの挨拶もなく。ただ一秒でも早くこの場所から立ち去りたい。洗練された貴族としての振る舞いなどかなぐり捨てて、オーストリアは走った。
ああ、ハンガリーに何と言えばいい。共にこの場所に訪れる事の出来なかった彼女に伝える言葉が何一つ見当たらない。同時に、何も知らない彼女が羨ましくもあった。この眼に焼きついた光景は、きっと一生、消えない。
荒々しい足音を立てて、遠ざかる足音。オーストリアがつい先ほどまで立ち尽くしていた扉を横目で眺めながら、ドイツはくつり、と喉を鳴らした。
「オーストリアが、この部屋に入って来なくて本当に良かった。踏み入れられたら、俺は彼を殺してしまっていたかもしれない」
そう呟いて、視線はすぐに、愛しい愛しい兄の顔へと戻る。開いた上唇と下唇に、一つずつ接吻を落として。
慈しむ動きの掌が、繋がるための淫らなそれに変わる。シーツを優しく暴くと、痩せた裸体が過剰に震えていた。耳と喉と瞳。無くした感覚を補うかのように、肌は少し触れただけでも過敏に反応する。
痩せた胸の上、そこばかりが目立つ色付きに舌を這わせると、プロイセンの腰はびくんと跳ねる。
満足げに瞳を細めて、ドイツは呼んだ。にいさん、と。
「ここは、俺たちの最後の領土だ誰にも、踏み入れさせない」
そうだろう?――と、その甘い囁きに、応える唇は、そこにはない。
けれどドイツは、まるでプロイセンが首肯したかのように嬉しげに口元を吊り上げて、幼い子供のように嬉しそうに笑った。