ロイヤルブルーの裏側に、【2015獏良生誕SS】
夏の終わりの夕暮れ。
只今、と玄関の扉を開いても、おかえりと言ってくれる人はいない。
そのことを悲しく思う時期は既に獏良了の中では通り過ぎた過去となり、今更その孤独に唇を噛むこともなくなった。特にこの日は――九月二日は冷えたリビングの空気を疎んじて、慣れない夜の街をぼんやり歩いてみたりゲームセンターに長居したりしていたものだけれど、今年の獏良の表情は晴れやかである。
去年と今年で違うこと。
おかえり、はないけれど、一人ではない。
「バクラ、ただいまってば」
壁のスイッチをぱんと叩いて付け、明るくなった室内に向けて獏良は言った。
口をとがらせた獏良の呼びかけに、始めに響くのは舌打ちである。ち、と面倒臭そうな音が獏良の耳にだけ届き、それから目の前、中空の空気がしゅるりと集まり形が定まる。
窓からの光で薄くオレンジに染まる室内。そこへ、景色を半分透過したバクラが現れた。
「でけェ声出すんじゃねえよ、聞こえてる」
「返事なかったら聞こえてないと思うじゃないか。おかえりは言わなくてもいいけど何か反応してよ。ボクには居るのか居ないか分からないんだから」
「居ても居なくてもいいだろうが。仲良しじゃあるめえし」
「そうだね、仲良しじゃない。ボクはお前の友達じゃないもんね」
共犯だ。
に、と、口元を少し持ち上げて、獏良は言った。
緑がかった青い瞳をバクラが見下ろす。その青はどこにでもあるように見えて、奥野の波無く静かな湖のように底知れぬ闇がある。終わりの見えない深さがある。そのことをバクラは知っていた。知られていることを、獏良も良く知っていた。
仏頂面だったバクラはここで漸く微かに笑い、否定も肯定もしなかった。
「あのねバクラ、今日ボク誕生日なんだよ」
ダイニングテーブルにとすんと鞄を置いた音で、不穏な空気が霧散した。薄ら暗い二人の間の糸は消え、背中を向けた獏良のにこやかな声がこの数分間の出来事を全くなかったことにしてしまう。
テーブルに置いた手提げ鞄の他にもう一つ、小さいがしっかりとしたつくりの箱がひとつ。バクラは横目でちらりとそれを見たが、何も言わずにああそうかよとだけ言った。
「誕生日、皆に教えてなくってさ。別に避けられてるとかじゃないよ? ボクが言わないだけ。なんかさあ、毎年一人で過ごしてきたからしっくりこないんだ」
「へえ」
「毎年ね、ちょっと贅沢なシュークリーム買ってきて、うちで食べる。それがボクの誕生日……だったんだけどね」
言葉を一つ切って、獏良はくるりとバクラに振り向いた。
掌の上に小さな箱ひとつを乗せて、にっこりと笑って。
「今年はシュークリームじゃないんだよね」
言葉の裏側に暗に、こっちを見ろという願いが込められている。無視か応じるか一瞬だけ考え、バクラは目線だけで応えることにした。獏良がお気に入りのパティスリーに寄り道していることは、行動を共にせざるを得ないバクラも知っていた。だが何を購入しているかまでは知るところではない。ついでに言えば興味もないのだ。
白い掌の上の箱はまさしくてのひらサイズだった。アクセサリーでも入って居そうな雰囲気の正方形を、獏良は見ててね、ともったいぶった仕草で開いてみせる。
箱の中には宝石が入っていた。
深みのある、夜空のような群青色をした、大きな宝石だった。
「偽モンじゃねえか」
一目見て、鼻で笑うバクラである。当然でしょと獏良は答える。
「本物なわけないだろ。これはチョコだよ、サファイアそっくりの、チョコレート」
「へえ」
「返事そればっかり。興味ないのは分かってるけど話くらい聞いてよ。
ボクが狙ってたシュークリーム売り切れだったんだよね。なんか雑誌で取り上げられたらしくって、平日なのにぐ完売しちゃったんだって。ひどい話だよ全く。
で、どうしよっかなーって悩んでたら、これ見つけてさ。九月の誕生石だってお店の人が言ってたから、じゃあ今年はこれで手を打とうっていうわけなんだよ。チョコは嫌いじゃないしね」
聞きもしないことをぺらぺらと、獏良はよく喋る。耳孔から耳孔へ滑る文句半分楽しみ半分の言葉に適当な相槌を打ちつつ、バクラは己が宿主が不機嫌にならない最低ラインの対応でもってそれをやり過ごすことにした。共犯関係、たしかにそうだ。家主のご機嫌を損ねぬよう努めるのもまた、大事な仕事の一つである。
「ケーキ一つ買ってきちゃうと食べきれないからね。お前がもの食べられたら話が早かったんだけど残念。おすそ分けもできないね?」
「てめえが好んで買ってくるモンはゲロ甘すぎる。頼まれたって食わねえよ」
「同じ身体なのになんでかなあ。ボクには丁度いいのに。
それより綺麗だと思わない? ほんと、本物みたい」
室内灯の白い灯りと夕方のオレンジ。白い調度のリビングダイニングの色彩はどこか希薄で、その分濃い群青がひときわ異様に際立った。何か練り込まれているのか微かにきらきらと光り、透明感こそないものの遠目で見れば何か価値のある石に見えなくもない。
ずっとずっとずっと、遥か昔のこと。バクラは価値ある石を多く見てきた。墓の中、掠め取った盗品、その中に同じような色彩のそれを見たことがある。
バクラにとって、それらの美しさに意味はなかった。金に為ればよかったし、王城へと赴く時には皮肉な装飾品としての役目を果たせば十分だった。そもそも美しいとは何なのか、よく分かって居なかった。
居なかった、ではない、今も多分、分かって居ない。
瞳に星を浮かべてうっとりと、きれいだ、と見つめる獏良を見て、何も思わないのだから。
「食べちゃうのが勿体ないよ。少し飾っておこうかな、溶けちゃうかなあ」
掲げた箱と共にくるくる回る獏良はまるで知能の足りていない幼子のようだった。バクラは冷めた目でそれを眺め――箱に挟まっていたのか、するりと舞った名刺大の紙きれを視界の端にみとめた。
紙吹雪のようにひらひらと浮遊した後、ダイニングチェアの横に着地したそれを、バクラは軽く覗き込む。九月の誕生石、サファイア――蒼玉、コランダムとも。なるほど、模した宝石の紹介らしい。
さして興味もない文章だが、ご機嫌な獏良の相手をし続けるよりはましだ。相手はどうせ、寝静まった夜、心の部屋でたっぷりとすることになる。眺めるのならきらきらと喜びに輝く瞳より、欲情と熱に浮かされたとろけんばかりの青緑の方が余程いい。
文字の上に視線を滑らせ、バクラは適当に文章を読んで行く。
由来、石の効果、そしてその石に込められた意味。
慈愛――誠実――高潔に貞操。
心の成長。
「……は」
あまりにも似合わなくて、自然と笑いが漏れた。
慈愛ではなく自愛であればぴったりだったのだが。それにしたって他の全てが、今の獏良了の対極にある。クラスメイトに嘘をついて何が誠実か。夜毎男を受け入れ悲鳴を上げる唇のどこに高潔だの貞操だのが宿る?
極め付けは心の成長、などと。
(こいつの心は停滞してる。オレ様がいようがいまいが、変化を拒むのは獏良了の無意識だ)
完全な停滞を望む心は、それであるが故に腐食すらしない。良いように変わらないのと同じように、悪いようにもならない。共犯関係を結ぼうと彼の本質が何一つ変わらないであろうことは、心そのものに巣食うバクラには手に取るようにわかっていた。
たとえ力を持つ本物の石を与えられたところで、その影響はないだろう。空気の無い場所に音が響かないように、獏良了は変わらない。
普遍にして、不変。
その心は永遠に、バクラの住み心地のよい、どろどろとした闇の沼のままだ。
「笑えてくるぜ」
「何が?」
独り言が耳に届いたらしい。獏良は箱を掲げたポーズのままバクラを見た。機嫌の良い表情。今バクラが思った言葉全てを並べて教えたら、どんな顔をするだろう。
傷つくだろう。泣くかもしれない。
されど根底は揺るぎもしない。一晩寝て起きたらもうけろりとしている。演技でも無理でもなく、獏良はそういう風にできている。
分かって居るから、言わなかった。
結果が分かりきったことをわざわざ行うのも馬鹿馬鹿しい。バクラは曖昧に嫌味な笑みを浮かべ、別に何も?と肩を竦めて見せる。
「どうせ何か、不愉快なこと考えてたんだろ。言わなくていいからね。ボクはこれからこのチョコを堪能するんだから」
「どうぞご自由に。見た目と味は直結するとは限らねえけどな」
「嫌な言い方!」
べっと舌を出してから、獏良はその宝石をつまみあげた。もう一回楽しげに眺め、ひと思いに口の中に放り込む――と思いきや、かし、と歯で軽く挟む。一口に食すのは勿体ないということか。
釉薬のかかった陶器のような、滑らかな表面に罅が入る。
圧力に負け、ぱきんと硬い音をたてて割れた表面から、とろり溢れた中身が獏良の唇を染めた。黒に近い色、甘みと苦みの混じった雫。まるで血液のようなそれを、慌てた獏良が手で受ける。
「ぅわ、これ中身お酒だった! こぼしちゃった……」
そういえば、先ほどバクラが読んだ説明にもそのようなことが書かれていた。アルコール5%だったか、ブランデーが入っているとか。
白いシャツの襟元と口元、喉までをまだらに染めた獏良が眉を下げる。ほんの数秒まで陽気だった表情が情けなく歪んでいるのを見、バクラは呆れた。一人で盛り上がり一人で盛り下がる。退屈しなさそうで結構なことだ。
「テンション下がった……洗濯して落ちるかなコレ」
「肝心の味はどうだったんだ? 宿主サマ」
「えーもうどうでもいい……ボクあんまりお酒入ってるお菓子好きじゃない……」
半分齧られたチョコレートを箱に戻して、獏良はしょんぼりと洗面所に向かって歩いて行った。テーブルに置き捨てられた誕生日の菓子は歯形のひび割れから中身を零し、物悲しい様子で自らの中身の酒だまりに沈んでいる。
見下ろしていたバクラの口元が、再び自然と、吊り上った。
「……前言撤回だ」
綺麗な表面とは裏腹に、中身のなんとおどろおどろしいことか。
ほとんど黒に近いチョコレートブランデーは、見慣れた心の闇とそっくりの粘度で丸い雫を垂らしている。舐めたらきっと同じ味がするだろう、だなんて馬鹿馬鹿しいことを思いついてしまうくらいには。
割れたチョコレート。普遍と停滞の主を頭から二つにわったら、まったく同じ光景が見られる。
似合わないだなんて、とんだ勘違いだ。
皮肉なほど――その意味も、中身も。
「なあ宿主」
洗面所の扉の向こうに消えかけた獏良が、頭だけをひょいとバクラに戻した。呼びかけに応じた顔はまだしょげている。近づいて、バクラはそのまだらな胸元を触れられない手でとんと叩く。
意味が分からないという表情で、獏良は首を傾げた。なに、と言おうとした口元を、すり抜ける指で軽く撫ぜて。
「よく似合ってんぜ、ソレ」
滑稽なところが、そっくりだ。
皮肉な囁きは耳に届いただろうか。
答えを待たず、現れた時と同じ様子でバクラは現実世界から姿を消した。獏良には何もかも意味が分らないだろう――興味もなさそうだったバクラが、急に笑みを浮かべて褒め言葉にも取れる台詞を吐いて、消えたのだから。
「なにそれ、お祝いのつもり? ねえちょっと、バクラ!」
呼びかけても、既に声は水面の向こう側だ。
居心地のよい心の部屋に戻ったバクラは、そこでチョコレートの海に爪先をつける。
生温かい獏良了の平熱、その35.7度の熱を心地よく感じながら、取り残された獏良を思う。きっと今夜、ここで交わる時に質問攻めにあう。あれはどういう意味だとか、そういうことを答えるまでしつこく問うてくるに違いない。
(そうしたらまた、口の中にチョコレートを突っ込んでやろうか)
同じものはここにいくらでもある。自愛のかたまりに自愛を食わせて腹いっぱい。なるほどこれはこれで施しだ。祝ってやっているといえなくもなくない。甘いものが好きだとあんな顔で言っていたのだから、胸やけがするまで食わせてやろう。酒は入っていないのだし――快楽に酩酊するのなら、嫌がりもしないだろう。
一人笑って、滑稽にまた笑う。
「一人上手はお互い様か?」
そんな呟きも、獏良には何一つ察せられない。
取り残された薄暗いリビング。白色電灯の下で、哀れな群青の宝石はその断面を溶かし、音もなくぐずりと崩れていった。
※石言葉はWikipediaから引用致しました。