【仏英】足首にWildesTierの牙

ヒエラルキーの底様 DancingQueen より


 ステージのざわめきと、脳をシェイクするような音楽がバックヤードにも響いてくる。
 剥き出した腹の底に響くその音を聞いていると、それだけで、アーサーの意識はプライベートからビジネスへと変換される――筈、なのだが。
 目の前で跪き、やたらと嬉しそうに口元を持ち上げている男の所為で、うまく思考がシフトしない。
 傍らには、今日着用するつもりで用意されていたボンデージスーツが袖を通さないままクロゼットに掛かっている。黒いエナメルの硬質な煌きはステージに上がる機会を逃し、今身に着けているのはいつもとは少しばかり意匠の違うデザインだ。
 その理由は、目の前の男が――フランシスが用意した真っ赤なピンヒール・パンプスに合わせた衣装を、オーナーが用意してしまったからだ。
「間に合って良かった。オーダーだと時間かかるからな」
 と、フランシスは箱の上に並べられたパンプスを持ち上げて言う。
 先日、プライベートまで侵食してきたとある事件のせいで駄目になったピンキーブーツの代償として用意されたそれを、アーサーは呆れを伴った冷視線で見下ろした。
 次のステージに間に合うように、と、そのトラブルの後すぐにオーダーしたらしいそれは、手放したブーツとは違い少しばかり大人しいつくりに見えた。膝下を覆うブーツと違い、足首を晒すパンプスの素材は真っ赤なベルベット。踵の縁とサイドに漆黒のレースがあしらわれ、足首にかけて三連の細いベルトが伸びている。ダンサーにしては地味かと思われるが、十八センチを超える針のようなヒールと、どこか淫靡さを思わせる真紅の薔薇色は決して野暮ったくはない。むしろ、そう、淑女の隠された閨房を思わせるような。
 悔しいことにセンスは良い。だからこそオーナーも、わざわざ衣装を変えるように指示したのだろう。
 まったくもって面白くなく、アーサーはふん、と鼻を鳴らした。
「なあに、ご不満?」
「別に」
「いやじゃないなら、履いてるとこ見たいなあ」
「ステージで嫌というほど見せてやるよ」
 視線を合わせようとしないアーサーに、フランシスが甘く強請る。それを一蹴し、アーサーは吐き捨てた。
 そうじゃなくて、と、少し厚い唇を持ち上げて彼は笑う。
「ここで、見たいの」
 そう言って片手に持ったパンプスを軽く揺らしてみせる。かちん、とベルトの金具がぶつかり合ったが、ステージからの喧騒にかき消されて音は聞こえない。
 アーサーはしばらく黙り、パンプスとフランシスの顔を交互に見てから、やがて面倒くさそうに、黒いストッキングに包まれた足を組み替えた。
「…好きにしろよ」
「merci.」
 その右足を恭しく持ち上げる、紳士然とした姿が似合うのだから腹が立つ。
 細い足首を捕らえられる感触。薄いストッキング越しにフランシスの手の温度が伝わる。そっと爪先から通される滑らかなベルベットは、なるほど、見事な仕立てだ。サイズが少しでも合わなかったら蹴り返して返品してやろうと思っていたのに、悔しいくらい違和感がない。踵はあつらえの通りに収まり、指も痛まない。
 ざわざわとするのは、靴の所為ではなくフランシスの所為だ。
 そっぽをむいたまま、アーサーは視線だけをそっと下へ向ける。自分の腹、と、腰骨が見えそうなパンツ。繋がる腿のガーターベルト。見慣れたが我に返るとなんて格好をしているのだと思うが、その思考は仕事前の自分にとって邪魔以外の何者でもない。
 膝のすぐ近くに淡い金髪が見える。肩までの長い髪。今日はうなじあたりで一つに括っている。立てたフランシスの膝の上に置かれた自分の足。どこかで見たと思ったら、先日、ルートヴィヒがギルベルトにしていた姿と同じだった。
 あんなみっともない真似、自分だったら死んでもお断りだ。そう思っていたのに。
 肉厚な手のひらが、まるでいとおしいものにそうするように甲骨をすべる。妙な気分になってくる。
 首の後ろにおかしな汗が浮いて垂れたのが解った。わけもなく心音が早くなる。どうして。ただ、靴を履いているだけなのに――
 そわそわと落ち着かなくなったのは、アーサーだけではなかったらしい。フランシスが、くつり、と喉を鳴らして笑った。
「な、んだよ」
「んー、いや、ね」
 そう濁す男の指が、固く持ち上がるくるぶしの上を通り、足首のベルトをくるりと巻いた。
 ぱちん。留め金を閉める音。
「なんか、やらしいなって思わない?」
 そう呟いて、軽く上げられた顔と、上目遣いの蒼い瞳。
 視線が交錯した瞬間、アーサーの体温は確実に上昇した。
「履かせてるってシチュエーションも、そうなんだけどさ」
 吸い込まれそうな蒼い瞳は、アーサーに定められたまま。覗き込めば奥に、微かに雄の熱のようなものが見えてしまった。無意識なのだろうが、そこに肉食獣の色を見つけてしまい、アーサーは少しばかり身をすくめた。
 何故自分がこんな気分にならなければならないのか、わからない。
 基本的に人畜無害でいつも笑っているような男に、こんな目で見られている。草食獣の気分を思い知る。
 またひとつふたつ、ぱちん。音がして、足首の束縛が強くなる。
 皮膚に食い込む訳ではないのに、枷をされた、と思った。
「これ履いてアーサーが踊るんだなって思うと、こう、なんていうか、」
 ぞくっとしちゃう?
 最後の言葉はかすれた囁きと共に、唇が爪先に。
 かっ、と、背中に火を投げ入れられたと思うほど、アーサーの身体が熱くなり――
「っ調子にのんなばかぁ!!」
 ぱかん、と、いい音がバックヤードに響く。
 掲げられた足をそのまま跳ね上げる形で、フランシスの顎を蹴り上げていた。
「っ…!ひ、ひどっ!? ひどくないちょっと!!」
「うるせえ黙って作業しろこの変態ヒゲ野郎!次は目ん玉にヒールブッ刺さすぞ!!」
「グロっ!やめやめやめ悪かった、お兄さんが悪かったから足振り上げるのやめてマジで!」
 戦闘体制に持ち上げられた踵から逃れるように、フランシスは顔をかばって一歩引いた。同時に、あたりを包んでいたおかしな空気もさっと霧散した。妙な雰囲気の盛り上げに一役買っていた、ステージから漏れ聞こえる音楽もざわめきも、先ほどは異国の音のように聞こえていたのに、今はもう耳に慣れた喧騒として耳に届く。
「あー、まさか蹴られるとは思ってなかったわー」
 顎をさすりながらフランシスはぼやき、少しばかり咎めるような目でアーサーを睨んだ。そこに、先ほど垣間見た凶暴な光は無い。ほら左足、と遠慮なく足首を引き寄せる姿も、見慣れたフランシスそのものだ。
 アーサーは幾度か瞬きをし、首を小さく振った。
  錯覚――そう、錯覚だ、今のは。
 今度は何の問題もなくてきぱきと履かせられる左足を眺めて、そう思うことにした。
 半分だけ、意識がステージ用のそれに変わっていたからだ。Queen。衣装柄どうしても持ち上がる雌の思考。そうに決まっている。
 滞りなく履き終えたパンプスを眺め、満足そうにひとつ頷いたフランシスが身を引く。立ち上がろうとする自分に、絶妙なタイミングで差し出される手を、アーサーは思い切りひっぱたいて跳ね除けた。
 おお怖い、とフランシスは笑い、引っ込めた手をそのまま箱に伸ばして脇に抱える。
「じゃあ、お兄さんはいつもの席にいるから。楽しい夜を期待してるぜ、女王様」
 そうして、もう片手でひらひらと手を振って、彼は実に自然にバックヤードを後にした。
 取り残されたアーサーは一人、唇を噛む。
 どんな顔をして、この靴で踊れというのか。
 男に縛られた足でパンプスの踵を踏み鳴らして、アーサーは憤然とステージに向かい歩き出した。