【仏英】沈黙の代償はささやかな痛み
Cattleya*様 フェンスネタ より
見下ろす地上に見慣れた銀色の髪を見つけた。
「…健気だねえ」
窓枠に肘を突いて、フランシスは独り言を呟いた。
コートを着るのも忘れたのか、制服姿のまま足早に僻地から遠ざかる悪友の姿。ここからは見えないが、吐き出す吐息は真っ白だろう。薪ストーブで暖を取るこの部屋と違い、外は凍えるような寒さだ。明日は雪かもしれない。そんな厳冬の入り口に、学院からも寮からも遠い場所へ足を運ぶ姿――その理由がたった数分の逢瀬の為だというのだから、これを健気と呼ばずして何と呼ぼう。
ギルベルトの秘密。唯一の親しい友人である自分ともう一人の友人にも、決して明かさない秘密。
それを随分昔から知っているのだとばらしたら、どんな顔をするだろうか。
きっと酷く驚いた後に表情を固くするだろう。教師の手先と生徒の間で悪名高い生徒会の役員に、規律違反をしている姿を見られていると知ったら。
「言わないけど、さ」
誰にも。
蒼い瞳の先で、ギルベルトはフランシスの視線に気づかない。
顔を上げたとしても気づかないかもしれない。学院棟の最上階、生徒会室から見下ろされていることに。
最初にそれに気づいたのは偶然だった。今このときと同じように、どこからか帰ってくる様子のギルベルトを、この場所から見つけて。珍しく周りを気にしているので、何なのか、と気になった。後をつけるなんて全く趣味ではなかったけれど、何かと問題を起こしがちな彼が余りにも目に余る行動を起こすのを寸前で止めるのは、フランシスとアントーニョの暗黙の了解だ。
そして目にしてしまった、金網越しの逢瀬。
見詰め合う相手が誰かは知っている。整えられた金髪に高い背、ギルベルトが毎日のように口にする弟の名はルートヴィヒ。
視線の先で金網の上で重なる手と、囁かれるひそやかな睦言。
フランシスが目撃したこの兄弟の逢瀬は、一般生徒より教師に近い役員として、絶対に報告せねばならない事件である。彼らがそこで何を行っていたのか、分からない程フランシスは世間知らずではない。世間知らずではないが――野暮でもなかった。
何も見なかったことにして、その場を立ち去った。
このことが学院側に知れたなら、厳罰は免れないだろう。中等部への干渉、不純交友、同性愛、近親愛。どれも第一級のお咎めを受けるに違いない。揃って退学になれればそれも幸せなのかもしれないが、そうなる前に精神と肉体をひどく痛めつけられ、その後の人生に重たい影を落とされるのは確かだ。
だから、フランシスは決して口外しないことに決めた。それこそもう一人の親友にも。
きっとギルベルトは、こういった特権階級からの庇護のような対応を嫌がるだろう。役員であることは関係ない、友人だから黙っているんだと告げたところで、信用してはくれない。弱みを握られたと思うだけだ。自分たちの友情は深いものだと信じているけれど、弟の安否がかかっているのなら、彼は友人にさえ牙を向く。同じ立場なら自分もきっとそうしただろう。
愛しいものを守るための剣を、自分たちは隠し持っている。どんなに心を分けた親友にさえ向けることが出来る、冷たい刃を。
「恋は盲目、ってやつかね」
「てめえのことか」
不意に声をかけられて、フランシスは肩をぴくんと跳ねさせて振り返った。
生徒会室の扉を開いて、片手に束ねた書類を抱えたアーサーが入室してくるところだった。きちんと止められたシャツの釦に一ミリの狂いもなく整えられたタイ、磨かれた靴。完璧な模範生徒を演じる生徒会長が、嫌悪にも似た表情を浮かべて机に書類を積み上げた。
窓の下へ一度視線を送ってから、フランシスは身体ごと部屋の主に向き直った。
外から帰ってきたアーサーの冷えた身体を温める為に、ストーブに薪を多めに放り込む。ごうごうと燃えるそれから離れ、ここでにっこりと笑顔を見せた。
「遅かったじゃない。どしたの、どっかで愛の告白でも受けてた?」
「ふざけんな。てめえみたいに暇じゃねえんだよ。少しは手伝え」
「ノンノン。お兄さんの仕事はデスクワークに疲れたアーサーを癒すことです」
「じゃあ軽く運動したいからそこに立ってろ。ストレス解消に殴ってやる」
殺伐とした会話を繰りながら、歩み寄ったアーサーの頬に軽い挨拶。邪険に払うが、彼は嫌がりはしない。
ギルベルトが守るものが弟なら、フランシスが守るのは――この、気位の高い生徒会長ただ一人だ。
アーサー・カークランド。教師の尖兵だのと評価されようが何だろうが、こうして近くで見ていれば分かる。彼の立場は非常に厳しい。全生徒の模範であることを義務付けられ、生徒と教師の板ばさみで常にトラブルを抱えている。
そんな彼にギルベルトのことを報告すべきか、初めは悩んでいたけれど――結論は沈黙だった。
アーサーとギルベルト。直接の交流は少ないが、フランシスの話題に上ることは少なくないし、存在自体もよく知っている。但しこればかりは、会長の頭を悩ませる問題児として、だが。
厳しい規律の上で禁忌の愛を選択したこと、それがどれだけ危険であり、また多大なる覚悟が必要であることなのか。アーサーはそれらを理解出来ないほど冷酷な男ではない。
きっと彼は黙認するだろう。解っている。解っているからフランシスは黙っていた。敢えて新たな火種を投じる必要は無い。
そんなことをじっと考え込んでしまったフランシスを押しのけて、アーサーは執務用の椅子に深く腰掛けた。外出用の手袋を剥ぎ取り、真っ白になった指先を温める前にペンを取り、今しがた抱えてきた書類に手を伸ばす。白い頬に少しやつれた陰りを見つけ、フランシスは小さなため息をついた。
静かに歩み寄り、インク壷にペン先を入れる前に――背中から抱きしめる。
「うわっ、何だ!?」
驚いた声を上げて、アーサーは振り返る。が、きつく両腕を回されているのでそれも出来ない。
何なんだ、と声を荒げるのを聞きながらフランシスは目の前の細い肩に、額を押し付けてより強く抱きしめた。
「…ねえ、坊ちゃん」
「な、なんだよ、いきなりしおらしい声出してんじゃねえよ」
「別にそんなつもりはないけど」
喋りながら、フランシスの手がさりげなくアーサーからペンを奪う。音もなく取り上げて机に置き、抱く力を少し弱めた。首を巡らせようとする動きを押し付けた額から感じるが、今は未だもう少し。
「アーサー、お前、幸せ?」
呟くように尋ねると、沈黙が降りた。
一瞬、いつもの軽口を叩こうとしたアーサーの口が開き、閉じる。お前が手を離したら幸せになると言ってやろうとしたのだが、それは出来なかった。
しばらく黙った後、彼は、わからねえよ、と言った。
そっか、とフランシスは小さく笑う。
「俺はね、幸せ」
お前がいて。
この閉鎖しきった学園で唯一、監視の目が届かないこの部屋に居られること。
暖かい場所で抱きしめられること、毎日顔を見られること。
伸ばした腕が、簡単に相手に届くこと。
「すごく幸せだよ、アーサー」
「…そうかよ」
素気ない答えに愛情が詰まっていることを知っている。拒まない手のひらが、抱く右手に添えられるのが嬉しかった。
ちくりと胸を刺すのは、彼らのこと。
彼らが決して出来ないことを、毎日繰り返している。それを黙って、ギルベルトと下らない話をして笑いあう。そこに潜む罪悪感――何も間違ったことはしていないのに、自分の置かれた状況はひどく恵まれていた、それだけのことなのに。
白い肌を寒さで赤く染めた、友人の冷えた耳の色を思い出してしまう。
――黙っていることしか出来ない。
アーサーの為にも、ギルベルトの為にも、それが最善。
この痛みを抱え続けさえすればいいだけの話。それだけ、なのに。
「…何だよ、ガキかお前は」
べったり引っ付いてんじゃねえよ。そんな辛辣な言葉さえ、いとおしい。言葉で罵倒する癖に、決して振りほどかないところがかわいらしい。
目の前の頬に、軽い口付けができる。自分はなんと幸せなのだろう。
「…坊ちゃんが甘えてくんないから、お兄さんから甘えてみました」
「気持ち悪ぃからやめろばか」
冗談めいた言葉に、アーサーがかすかに口元を緩める。
フランシスは瞑目した。アーサーには決して見えない場所で。
(ああ、なんて幸せな、)
なんて幸せな、痛みだろうか。
呟きは音にもため息にもならず、ただ腹の中に静かに沈んでいった。