【露普】橙の針は崩れた
Cattleya*様 フェンスネタ より
どうぞ、と小さな声で告げて扉を開けた、イヴァンの取り巻き。その内の一人の少年は居た堪れない顔をしていた。
そういう自分も、かなり不快な表情を浮かべていただろう。そんなことは鏡を見なくたって解っている。
使われなくなった教室の内側へ向けて、重たい扉が開いて閉まる。薄暗い室内で振り向く男は教卓に寄りかかり、どこまでも人の良さそうな笑みを浮かべていた。
「やあ。ちゃんと来てくれたんだ」
「選択権なんかもとからねえだろうが。…クソッタレが」
「そうだよね、弟くん、大事だもんね」
くすくす。
笑顔はそのまま、イヴァンは静かに笑う。さえずり程度の音なのに、ギルベルトの耳にはひどく耳障りに聞こえた。
閉じた扉の向こうで、錠が落ちる音がする。かちり。二人ほど人間が立っている気配はそのままだ。鍵をかけて、その上見張りまで置いておくとはご大層な警備だ。…それほどのことを、しようとしている。彼は。
イヴァンは制服のポケットから鍵束を取り出して、軽く振って見せた。
「大丈夫。中からでもこの鍵があれば開けられるからね。僕が居れば、閉じ込められることはないよ」
「その鍵を今すぐ俺に寄越してくれるってなら安心できるがな」
「それは君次第かな。この教室を君と共有してもいいと思ってるから」
言いながらイヴァンは教卓を離れ、学院棟三階に位置するこの教室――もとは指導室という名の懲罰室だったこの部屋を、くるりと見回した。端から端まできっちりと閉じられたカーテン、そのわずかな隙間から、夕暮れの橙色が針のように差し込んでいる。ギルベルトの爪先から肩までを真っ直ぐ裂き、その他に明りはひとつも存在しなかった。
「ギルベルト君」
その光を遮って、イヴァンが静かにギルベルトへと歩み寄った。
「気持ちの整理は、ついたかな?」
「…なんのだよ」
「僕のものになる、気持ちの整理」
す、と差し伸べられる掌。大きくて、そう、弟よりも広く白く、何もかも握りつぶしそうな掌だ。
何を求められているのか、一瞬解らなかった。その後すぐに理解した。所有権を自ら手放せと言っているのだ。ギルベルト・バイルシュミットという一人の人間の人権を、譲渡しろと。
その手に自分の手を乗せるには、恐ろしいほどの抵抗があった。もとより高い己の自尊心をへし折るために、どれほどの自制心が必要だろう。本当はこのすました顔を思い切り殴りつけてやりたい。けれど、できない。
この悪魔の右手が握っているのは自分の未来だけではないのだ。弟の、ルートヴィヒの。
ぎりりと歯を噛む音がこめかみから聞こえた。血が出そうなほど歯を食いしばる。けれど表には見せなかった。悔しがっていることを、悟られたくない。こんな男に。
だからギルベルトは、口元に思い切り皮肉な笑みを貼り付けて、その手に自分の手を叩き付けた。
「おらよ、これでいいんだろ――他に何をしろってんだ?」
「…君って人は」
ぱしん、といい音を立てた掌が赤く染まる。それを見て、イヴァンの笑みが苦笑に変わった。
「思ってた以上に、素敵だね」
「あ?」
「正直ね、急に大人しくなっちゃったらどうしよう、って思ってたんだ。つまらないじゃない」
折角の暇つぶしなのに。
イヴァンの声がそう、ぞくりとするほど冷えた音色でもって響き――赤くなった手が、風を切ってギルベルトの右手を掴んだ。だん、と背中を打つ音が遅れて聞こえる。傍らで、積み上げた机と椅子が崩れた。
「いッ…!」
「僕の知っているギルベルト君は、とてもプライドが高くて自信たっぷりで、鳥みたいな人なんだよ。こんな狭苦しい学園じゃ、とてもじゃないけど自由に飛べなくて、とても窮屈そう。だから、」
ぎり、と、手首を掴む力が増す。思わず振り上げた左手も同時に捉えられた。無防備な顔の目の前に、すいと近づく、壮絶な笑顔。
「だから、手折ってあげたくなったんだ、その羽根」
「ッ…気色悪ィ例え持ち出すんじゃねえよ…夢見ててえならお取り巻きと遊んでな、いかれたDichterさんよ!」
「うん、じゃあまずその口からしつけていこっか」
近づく顔はそのまま、距離が零になる。恐ろしく冷えた唇に唇を奪われ、ギルベルトの背中に、感じたほどがないくらいの濃い悪寒がぞくりと駆け上がった。嫌悪、もそうだが、その冷たさ――今がいくら冬の入り口だからといって、これほどまでに冷たいものか。否、体温がどう、という訳ではない。きっとこの温度は、イヴァンそのものなのだ。
氷の吐息が、ギルベルトの喉を通って肺まで落ちる。身体の中身を犯された気分だった。
「ぐッ……!」
声は、気力で抑えた。抵抗も握りつぶした。掌に爪が食い込む。
唇を合わせたまま、イヴァンは再び音を立てて笑った。
「約束をしようか、ギルベルト君」
「な、にを、だよ…!」
「もうあそこには行っちゃ駄目だよ」
「!」
言葉は耐えた。けれど瞳の動揺は抑えようがなかった。
赤紫の双眸に走った感情に、イヴァンの笑みはますます深くなる。見た目だけは人の良さそうな、まるいViolettの瞳がすうっと細められた。
「見つかっちゃったら大変じゃない。君も彼も――ね」
「てめえ…!」
「寂しいなら、いいよ?僕とこうしてる時に、弟くんの名前、呼んでも」
「な…」
「僕と弟くんを重ねて見てみたら?」
明らかな揶揄が詰まった声に、息を飲んだ。
そんなことを、出来るわけがないと解って彼は言っている。唯一無二の弟の感触と温度、それを重ねることによる逃避。そうすることで、ギルベルトの中に存在する弟というものが穢れる。ぼろぼろと、腐食するように。
どこまでも底意地の悪い言葉に、ギルベルトはきつく唇を噛んだ。イヴァンが軽く首を傾げてみせる。
「あれ、いいのかな?」
その表情も腹立たしい。顔を背ける。晒すことになる左の首筋に、ひやりとした唇。
絶たれてゆく退路。背中に冷たい壁――これがあの金網だったなら、ルートヴィヒの背中がある金網だったなら、どれだけよかっただろう。二人を隔てる憎たらしい鋼鉄線を求める日がこようとは思わなかった。
耳元でくすくすと、イヴァンが楽しそうに笑う。しゅるりと軽い音を立てて、赤いタイが解けて床に落ちる。
行為の最中、絶対にルートヴィヒのことを思い出さないように。ギルベルトはそれだけを己に言い聞かせて、忌々しげに目を閉じた。
残っていた橙の明りが残光すら残さず宵色に解けて、そして、部屋の中に暗闇が落ちる。